いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

自然死へ道    米沢慧 著

2013年02月07日 | その他
二月に入って春のうららかな陽ざしにほっと一息と思った途端、立春の後、首都圏は再び大雪の予報が出てどうなることかと思ったら、幸い雪はほんの少しで冷たい雨となり銀世界とはなりませんでした。そして翌日の今日は、のどかな早春の空気に包まれています。

さて今回は米沢慧氏の「自然死への道」です。

医学の進歩によって人間の寿命は随分と長くなりました。日本人女性の平均寿命は世界一と言われています。でも高齢者の実態はかなりの人々が要介護の対象者です。

最近QOLという言葉が広く普及しあちこちで聞くことが多くなりました。QOL(Quality of Life)は、『生命の質、生活の質』と訳され、人間らしく、満足して生活しているかを評価する概念です。米沢氏はこの本で「いのちの質」として訳すことによっていのちの深さという言葉を導き出しています。それは安楽死とも延命治療とも違う別の世界感の中にあるような気がします。長寿高齢社会の老いにはQOLの数値に還元できないその人固有の人生があるということです。
年をとれば自然に身体機能が劣化してきます。そのことを最初に実感するのは50歳前後でしょうか。クラス会などで老化のことが話題になるのがそのころからですね。でも、長寿社会の今日この頃、多くの人々が忍び寄る自身の老いと戦いながら人生の終末期をむかえた親たちと向き合う日々です。私も実の両親は見送りましたが、義父母の介護の問題を抱えています。今は親しい友人たちとゆっくり会食したり、おしゃべりしたりする時間はなかなか作れないので、時々メールや電話での会話で、同じ問題を共有する友人たちと情報交換をしています。

この本はそんな友人のひとりから薦められました。

内容は少し身につまされるような部分もありますが、文章もわかりやすくとても読みやすかったので今度はまた他の友人にも薦めたくなりました。

「超寿」・・・「超人間」・・・なんだか半切くらいの大きさの画仙紙に筆で大きく書いて、しばらく眺めていたいような不思議な言葉です。

去年、私の父は確かに高齢ではありましたが、前日まで家族と一緒に食事もし、寝る前に遠方に住む娘の私に携帯電話のメールをし、休んだ後、翌朝起きてきませんでした。あまりに突然の訃報で驚きましたが、父の妹である叔母には「人間として理想的な死に方だよ。お兄さんがうらやましいよ!」と言われました。

90をはるかに超えた義父は認知症です。義父の言いたいことを家族が聞くのも、家族が義父に何か伝えるのもたいへんな労力を要します。義母も末期がんサバイバーで抗がん剤や放射線治療の後遺症に苦しんでいます。だから二人とも要介護の状態であり、かつ「生きる方向に最善を尽くしている」という言葉がぴったり当てはまるような状態です。二人とも在宅で最期を迎えることを希望しています。

要するに<病院で医療機器につながれながら最期をむかえるなんてまっぴらごめんです。>というわけです。「そうかあ、うちのおじいさんおばあさんの希望は自然死なんだ!」・・・この本を読み進めるうちにだんだんそう思えるようになってきました。

やがていつの日かわが身にも同じことが起きる日が来るかもしれない・・老齢をむかえる日が来ればそれを受け入れなければなりません。

超人間とはあくまでも「生きることに気持ちが向いている、生きる方向に最善を尽くす」姿だそうです。要するに「往生際がわるいなっていう生き方」を心がけ努力しなければ老齢にあっては自然死をむかえることはできないようです。(これは「生涯現役の」著者・・・というより全共闘のことを知っている人なら懐かしい名前でもある吉本隆明氏の見解として紹介されています。)

先日義母は女学校のクラス会に行きました。私は、義父と留守番をしました。認知症の義父の話はとてもゆっくりで少しわかりにくかったですがじっと耳を傾けて聞きました。やがて帰ってきた義母は何だか輝いて見えました。会場で撮影したというポラロイド写真を見ました。義母の同級生という80代後半の女性たちは皆にこやかに笑って楽しそうでした。

「いのちには深さがある」この本の中の大きなポイントです。いのちは長さだけでも質だけでもないのです。このことは大きな余韻となって残りました。

「親の介護に疲れた時この本を読むと気持ちに余裕が生まれた」米沢氏の本を紹介してくださった友人の言葉を思い出します。