いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

しろばんば   井上靖 著

2013年08月11日 | 小説
立秋を過ぎましたが暑さの方はますます厳しくやや閉口気味の毎日です。
さて、今回は井上靖氏の「しろばんば」です。最初に読んだのは中学生くらいの時だったように思います。なんだかとてもいい本だなと感じた記憶はあるのですが、その内容はほとんど忘れていました。先日、このブログの記事にも書いた井上氏の「わが母の記」を読んだあと、急にこの作品が懐かしく感じられて、長い歳月を経た今、再び読んでみました。

これは大正時代の初期、今から百年近く前の静岡県伊豆半島の天城湯ヶ島(現伊豆市湯ヶ島)が舞台です。実は私の父の実家も伊豆にあり、子どものころから聞き覚えた地名も多く登場するので、初めて読んだ時から親しみを感じていたのを覚えています。今は亡き父が生まれるずっと以前、祖父母が十代の若者だった時代の伊豆地方の様子を思い描きながら、まるで吸い込まれるように読み耽ってしまいました。

井上氏は子供時代を湯ケ島で過ごしました。「しろばんば」はその頃の思い出を描いた自伝的小説です。しろばんばとは、この地方の子供たちにそのように呼ばれている白い小さな虫のことで晩秋、夕方になると白い綿のような毛をつけて飛ぶようです。本来の意味は「白い老婆」です。
この話は<なんで「しろばんば」という題なのだろう?>と思いながら、小説を読み進めていくと、主人公洪作の曽祖父の妾だったおぬい婆さん(洪作と二人、土蔵で暮らす)のイメージとも重なりますがなんとなくこのふわっとした疑問は解けないままでした。
最後まで読み終えた時はとてもしみじみとした感覚が残り、若い時の読後感と変わらないさわやかさと切なさが交錯するような・・・そんな印象でした。

洪作とは血のつながりがないおぬい婆さんですが実の親以上に強い絆がありました。
長編なのですが難しくて読みにくいところはなく、当時の社会や複雑な人間関係が少年の目を通して描かれているので、まるで映画を見ているような臨場感さえ感じます。
時代は違いますが、おそらく、おぬい婆さんやさき子、小学校の石守校長などの登場人物のキャラクターが、私の記憶の中で浮かび上がってきた幼い日に父方の親戚で出会った人々とも重なり、懐かしさのような感情も芽生えていたように思います。
この小説の舞台となった大正時代の初めころ、伊豆半島の中を移動するといっても湯ヶ島-大仁間は馬車での移動でした。三島-大仁間は軽便鉄道(現在の伊豆箱根鉄道の前身)が走っていたことが分かります。洪作がおぬい婆さんと一緒に両親の住む愛知県の豊橋に出かけていくのにも途中一泊するくらいのたいへんな旅でした。やがて、洪作が小学校の高学年になるころ、その湯ヶ島にもバスが通るようになります。最初のうち、老人は馬車に乗り、若者はバスに乗っていました。子供たちに人気があるのはバスでした。

洪作はおぬい婆さんに連れられ、あるときは自分の足で歩いて、湯ヶ島から抜け出しいろいろな土地へ行き、人々と出会い成長していきます。

少年の淡い恋心やおぬい婆さんの死、中学受験へ向けての勉強の日々。

私は、祖父母の若き日の暮しに想いが重なりました。両親から両親の子供の頃の話を聞いたことはありましたが、祖父母から祖父母の子供のころの話を聞いた記憶はありません。父が亡くなった時、父の生涯の戸籍を見て、その時初めて、明治生まれの祖父母の出生地、明治以前に生まれた曽祖父母の家系のことなどを知りました。明治、大正、昭和の中期までは世帯主からその孫たちまで記載された大家族の戸籍謄本でした。明治、大正のころの父の生家の家族の形態や戸籍に記載された地名がこの小説にも登場するのでとても興味深いものでした。その頃の暮らしぶりを想像するのにもこれは非常に参考になりました。
首都圏で生まれ育った私が子供のころ、父の実家へ遊びに行くと叔父や叔母たちから「都会の子」と言われていました。従兄弟たちからみると私の父は「都会のおじさん」だったようです。父がよく「田舎へ行くぞ」という表現を使っていたので私にとって最初に田舎の風景を思い描いたのは中伊豆の辺りのことでした。山や川があり、森があり、田畑があり、神社があり、商店街や町工場はほんの少し・・・・。小学生の頃は、祖母にお使いを頼まれて近くの道をわずか数百mくらいの距離を歩くのも途中人影が少ないのでいつもおっかなびっくり・・・。従兄がいつも脅かすので、私にとって最も怖かったのは人よりむしろ時々人里に出没する蛇やタヌキのような野生の動物でした。
歳月は流れ、祖父もその後当主となった伯父も亡くなり、従兄の代になりました。伊豆は昔から温泉があちこちから出ていましたが、今では大きなホテルや工場ができたり、道路も整備されたりして、東京からは近場の観光スポットとしてテレビなどでもよく紹介されるようになりました。
今はなかなか旅行などできない状況ですが、そのうち孫の手でも引きながら、しろばんばの舞台を歩いてみたいものだと思いました。