いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

子どもは判ってくれない  内田樹 著

2013年04月09日 | その他
世の中に「大人はわかってくれない」という子供の立場を主張した本や映画が存在することはなんとなく認識していました。でもこれは「子どもは判ってくれない」・・・何だかおじさんの愚痴みたいなユーモラスな題名に思わず「ウチダ先生らしいなあ」と苦笑したくなりました。

私は外出する時は、たいてい文庫本を一冊バックに入れておきます。電車の中や待ち時間に読むためです。ウチダ先生の本は最近私の本棚に増えてきました。積読中のものもありますが、本棚から本を選ぶときは(既読の本も同様)冒頭の数行を読んで今日の気分に合っているかを判断してからバックに入れます。

今回のウチダ先生の本もその習慣に従って決めました。
「長く生きてきてわかったことはいくつかあるけれどその中のひとつは<正しいこと>を言ったからといってみんなが聞いてくれるわけではない、ということである。」
これには全く同感!!
そのあと先生はイラク戦争について言及しています。あれから10年が過ぎて最近新聞などでイラク戦争の記事をいくつか読みましたが、今もずっと「あれはいったい何だったのだろう?」という想いが続いています。ジョージ・ブッシュを批判したところで、サダム・フセインの方はもうこの世の人ではないわけですから、あの時サダム・フセインが何を考えていたか、本当のところはもう永久にわからないわけです。ジョージ・ブッシュが言っていたほどの武器をサダム・フセインは持っていなかったようでしたし・・・。あと50年くらいしたら当時の機密文書の開示などによって、双方についての先入観のない人々の手でこの歴史的事実の真相が解明されるのかもしれません。

前置きが長くなりましたが、この本は確かに若い人へのメッセージであるとも受け取れますがウチダ先生の人生観が伝わってきます。いろいろと考えさせられるところがあり、一度読み始めると、引き込まれてしまいました。
ウチダ先生がおっしゃるような「本が私を読んでいる」という本についての表現は今までにないちょっと新鮮な感覚でした。読み手にとってハードルの高い書物は、「この本を絶対読みこなす」という意気込みがあるか、誰かの手前、読みこなさざるを得ないみたいなプライドかプレッシャーに動かされて読むか、でないとなかなか読みづらいものです。でも確かにこれができるのは若い時の方がエネルギーもあるし、挑戦しやすいかもしれません。年を重ねるとだんだん面倒になって背伸びしなくなりますからね。
若いうちは背伸びが進歩へつながり、世界が広がることが多いような気がします。

ウチダ先生の精神年齢の算出法には「なるほど!そうかもしれない!」と思ってしまいました。人生50年の昔と人生80年の今と比べたら、この本を執筆当時50代だったウチダ先生は32歳、大学の新入生は11歳くらいということになるそうです。つまり現在の実年齢に8分の5を乗ずるというわけですが、今の大学生は「たけくらべ」の「美登利」くらいということです。・・・実はこの部分を読んで、一瞬「なるほど」と思ったのですが、実はこれはウチダ先生が大変な警告を出していらっしゃることに気付きました。つまり、「日本人はなかなか大人になれない」ってことです。そしてこの本の題名は「実年齢が若い人というより、精神年齢が子どもの人が判ってくれない」という意味ではないかと考えるようになりました。

そう考えるとウチダ先生が考えていらっしゃる「大人になるとはどういうことか」を探していくことができます。

何かをしてしまった後悔よりも何もしなかった後悔の方が長い人生を苦しめることはたしかでしょう。私も先生同様、後から考えて「やらなかったこと」を後悔しそうなことをかたっぱしからやるということを生きる上でも基本方針にする生き方に大いに賛成です。

最後まで読み進めるとウチダ先生のあとがきに「二十歳のぼく自身が読んでもいいたいことが伝わるように・・・」とありました。

そこまで読んで思わず戻ってしまったページがあります。

これこそ、私たちの世代もこれからも簡単に解決できない大きな矛盾・・・憲法9条や領土問題、従軍慰安婦問題など・・国際政治にも関係するある考え方です。「精神年齢が子どものままこの問題に取り組んではいけませんよ!よく考えてくださいよ!」という暗黙のメッセージのようにも受け取れる箇所です。


韓国や北朝鮮、中国との問題の中で、日本は過去の植民地支配の反省が繰り返し求められています。しかし、戦争を直接経験していない世代が加害者の実感を心理的に受け入れることは難しいことです。
かつて、中国の王朝時代や日本の武家社会などでは父親の罪の罰を息子などその子孫が受けるということがあったようですが、戦争経験者の大半が亡くなってしまった現在も尚、日本は世代を超えた罰を要求されていることになります。

これを殴ったら殴り返すの論理で「同罪刑法」を適用しようとすると
「ある犯罪者の犯罪を同罪刑法的に清算しようと思ったら、その犯罪者は清算が済むまで何としても生かしておかなければならない。もし犯罪者が罪を認めなければ罪をみとめるまで永遠に生き続けさせなければならない。」これはたいへんな矛盾です。
時間のファクターがありません。

確かに・・・。でも現実は海の向こう側では世代を超え、日本の過去を悪と考える教育が続けられています。先日私は、中国から帰国したばかりの知人が中国で撮影してきたという日本を揶揄した言葉が書いてある月餅の写真を見てこの問題の根の深さをさらに感じました。日本ではお菓子に悪い意味の言葉を書くことはほとんどありません。(とはいっても、ケーキに バカ だとか アホなどとデコレーションすることは誰にでも簡単にできることですが、普通は食べたくはないでしょう。)

ウチダ先生は<論理的には「過去の清算」と「痛みと屈辱のトレードオフ」こそが正義である>と言っています。しかし、<「加害被害の因果関係をこれ以上以前には遡及しない」ということについて関係者全員を合意させることに成功した政治家は存在しない>というのも本当だと思います。人間はある一定の時間軸だけでものを考えるのは困難です。過去の歴史がそれを証明しています。

この本が書かれてから10年近い歳月が流れていることを考えるとこの問題はさらに深刻化していると思われます。インターネットがより普及して情報が簡単に手に入るようになって考え方も多様化しそうに思われますが、逆に多くの人々が同じ情報に惑わされやすくなりました。

去年の暮れに発足した安倍政権では憲法改正の発議要件を定めた憲法96条の改正に取り組む意欲を表明しています。
憲法96条=憲法の改正手続きに関する条項。改正要件として、〈1〉国会が衆参両院のすべての議員の3分の2以上の賛成を得て発議する〈2〉国民投票での過半数の賛成で承認する――ことを定めている。

〈1〉の3分の2という部分を過半数にしようというもので、これが改正されれば憲法9条も議論がしやすくなるということですが、これは危険なことだと思います。

そんなことを考えながらまたページをめくり始めるとウチダ先生の論理に賛成できる部分とできない部分が見えてきて、もう一度振り出しに戻って、この本が書かれてから経過した10年の変遷を改めて考えてみようと思い始めました。


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