いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

月と六ペンス  サマセット・モーム 著   金原瑞人 訳

2015年07月28日 | 小説
日毎に暑さが厳しくなっていくように感じるこの頃です。先日、日本三大祭りの一つの京都の祇園祭で、去年から復活した後祭の山鉾巡行を見に行きました。先祭の山鉾巡行の方は大雨の中、強行されたようですが、後祭の方は夏らしい良い天気に恵まれ、「動く美術館」とも称される10基の山と鉾が都大路を進み、伝統的な京の町衆の美の世界の中に取り込まれていくようでした。

さて、今回はサマセット・モームの「月と六ペンス」です。作者も小説の題名もずっと以前から知ってはいましたが、最後まで読んだのは今回が初めてです。読書家の友人の一人が以前からサマセット・モームは読んでみる価値があると言っていたのをふと思い出し、一番有名そうなこの小説を読んでみることにしました。ポール・ゴーギャンがモデルということにも興味が湧きました。

1919年に発表された小説だそうです。もう100年近く前ですが、全く時代を感じさせない、人間の本質的なものを感じさせます。

ロンドンの株式仲買人、チャールズ・ストリックランドはある日突然仕事も家も妻子も捨て、芸術家としての道を歩み始めます。当然、最初からその生活は周りから見たら理解に苦しむばかりで金銭的にも悲惨なものです。ストリックランドの行動は気違いじみています。駆け出しの若き作家「わたし」、ストリックランドの妻、凡庸でお人好しの画家ストルーヴェとその妻ブランチ・・・・・。ストリックランドがタヒチに渡ったあとは回想形式ですが、絶妙なタイミングで現れる登場人物たちに助けられ、彼らの暮らしを犠牲にして生き抜くストリックランドの逞しさと美を求める生への凝縮のようなものを感じます。彼のような生き方は平穏な日常からはかけ離れています。ストリックランドの死は壮絶です。

ストリックランドの死後、彼の絵が世間に認められ、生前は二束三文としか思われていなかったものが法外な値で取引されるようになります。彼と関わった人々の関心は絵の芸術的価値ではなく、お金に換算していくらになるかが中心です。

訳者あとがきに
<タイトルについてだが、「(満)月」は夜空に輝く美を、「六ペンス(玉)」は世俗の安っぽさを象徴しているかもしれないし、「月」は狂気、「六ペンス」は日常を象徴しているかもしれない>とありました。

「月」は日本でも、ずっと昔から身近でありながら、未知の世界で幻想的なものでした。「かぐや姫」は「月」の世界の人だし、「枕草子」にも、「夏は夜、月のころはさらなり」とあります。アポロ11号が月に着陸して、月の石を持ち帰り、月には生命の痕跡がないことがわかりましたが、現実の夜空に浮かぶ星と共に肉眼で見る月は美しく感じます。

夜空に輝く月がこの小説の余韻を広げていっているようにさえ感じました。

舟を編む  三浦しをん 著

2015年05月08日 | 小説
目の回るような忙しさだったGWも終わって、ほっと一息、気がつくといつの間にか爽やかな新緑の季節です。今年の春先は寒暖の差が激しく、桜の季節に風邪をひいて寝込んでしまった所為か、春を堪能することなく、冬から急に夏になってしまったような気分です。
先月、京都で友人との待ち合わせ時刻より早く到着したので目の前の書店にふらっと入ってみました。最近、小説などは、ネットで購入するかダウンロードするばかりなので、久しぶりに入った書店は何だか新鮮でもあり、カラフルな分類表示やベストセラーコーナーの案内板に誘われるように歩いて行くとベストセラー1位と本屋大賞の文字が目にとまりました。「舟を編む」?あまり聞き慣れない日本語のような気がしましたが、辞書という言葉が説明文の中にあったので何となく興味が湧いてきて思わず衝動買いをしたのがこの本です。辞書とは言葉を探す舟ということなのですね。

ところで、辞書と言えば私が学生のころはまだインターネットや電子辞書などありませんでしたから、本棚に何種類か並べていました。高校時代、授業のある日は、古語辞典や英和辞典は重くてもいつもカバンに入れて持ち歩いていました。10年ほど前、甥が高校生になった時は、国語や英語、広辞苑など辞書が何種類も入った電子辞書を入学祝にプレゼントした記憶があります。私自身も10年以上前から紙の辞書はほとんど使わず、電子辞書かネットで検索するばかりです。1970年代に購入した百科事典はついに邪魔になって、2,3年前に捨てました。分厚い広辞苑や90年代の現代用語の基礎知識なども本棚の端の方で廃棄処分になるのを待っているような状態です。未だにかろうじて紙の本を使うのは書道で仮名を書くときに時々見ている古語辞典くらいでしょうか。何故かこれだけは30年以上前に購入したものをずっと使い続けています。古語は現代国語のように変化しませんから、使い慣れた紙の本が落ち着くからなのと、ここ数年、電子辞書を買い替えていないので電子版の古語辞典は初期のものは使いにくいからです。

さて、話は横道に反れましたが、何となく、辞書という響きには人生を丸ごと振り返りたくなるような思い入れもあり、「いったいどんな人が作っているのだろう」と以前から時々、漠然と考えていました。「きっとまじめで几帳面な人なのかなあ」小説やエッセイとは違いますから、大変な時間と労力が必要だということは想像できたのですが・・・。時代ごとに言葉が少しずつ変化していっているように、編集者の生活スタイルも当然変化しているものと思いながら、なんとなく初めて出会った辞書作りをする人々を描いた小説に興味が湧いてきました。もちろん、これは紙の辞書の話です。

「難しい言葉がたくさん出てくるのかなあ」なんて思いながら読み始めると案外読みやすく、「なるほど、本屋大賞というのは読みやすさが大事なのかな?」と思いたくなるほどでした。

辞書が作られていく過程を興味深く読みました。まじめくんの恋物語はこの小説を面白くするための演出ですね。15年という時間をかけて「大渡海」完成に向けて編集に関わった人々の一人ひとりの言葉に関する感受性の違いがわかりやすく描かれていて、それをまとめていく頼もしい人間に成長していったまじめ(馬締光也)くん。馬締という登場人物の名前は何だか洒落っぽい感じもしましたが・・・実は、もう少しずっしりくるものを期待していたのですが、ちょっと軽いノリもあるなあという印象で・・・最後は無難にハッピーエンド。読者に安心感を持たせて終わります。
巻末の馬締くんの恋文はなかなか面白かったです。
後で、映画にもなっていることを知りました。まだ見ていませんが、これならきっと、若い人々には受けるのかな?という気がします。21世紀、私たちが本当に大切にしなければならないのは物質的な豊かさではなく、精神的な豊かさだと思います。歳を重ねた私にはちょっと物足りなさを感じるところもありましたが、これは人がやさしい気持ちになれる小説だと思いました。


彷徨の季節の中で  辻井喬 著

2015年03月10日 | 小説
梅の花が見ごろになりました。暖かい日が続いたかと思うと、冷たい風が吹いて寒くなったり、急に雨が降ったりしながら、それでもしっかり膨らんできた桜のつぼみを見ると開花が待ち遠しい気持になります。

さて今回は辻井喬氏の「彷徨の季節の中で」です。辻井氏は元セゾングループ代表の堤清二氏です。実はつい最近まで私は辻井氏と堤氏が同一人物であることを知りませんでした。経営者堤清二氏の方はずっと以前から認識していたのですが、辻井氏の本を読んだことがなかったので、わかりませんでした。

これは辻井氏の自伝的小説ですが、非常にノスタルジックな印象です。いろいろな自伝小説を読んできた私には構成も奇抜とは言えない感じなのですが、何となく時代という観点から不思議な感覚を呼び起こすものでした。

辻井氏は私の両親と近い世代です。昭和の初期から戦中戦後、今は亡き両親が成長していった時代背景の中で、主人公「津村(山野)甫」の生い立ちが語られていきます。未知の世界でありながら、時空の軸のちょっと先の延長線上に、私が辿ってきた時代もあるような、タイムマシンにのって昭和という時代を遡るような感覚でした。

複雑な家族構成の中で生きる主人公と家長としても社会的にも権勢をふるう偉大な父との確執や母や妹に対する愛情が何とも言えない切なさを感じます。

後半、主人公が東大に入学後共産党に入党し、党活動から手を引いて、結核の療養生活に入るまでの部分で、恋愛や家族との葛藤の日々の記述は読者に時にはこの小説を飛び出して歴史に刻まれた事件や社会への接点を思い起こさせます。

私はこれを読んだことによって改めて初期の全学連や戦後の東大内部での日本共産党の様子を知りました。

主人公は50年代の共産党分裂の際、国際派に属していた為除名処分を受け、病気療養も重なり、今までとは違う道を歩むことになるのですが、何となくあえて説明をしがたい転身のような後味が却って読者に、安心感を与えるような感じさえしました。

弱いとか強いとかそんな尺度では測れない混沌とした主人公「津村甫」は、「人間って案外そんなものなのかもね」と思わせるような結末で余韻を残します。

その後小説家辻井喬として、そして実業家堤清二として生きた作者の人生へ思いを馳せるとちょっと複雑です。
将に題名の如く、何だか時空を超えてその思いが行ったり来たりするような小説でした。

宴のあと   三島由紀夫 著

2015年02月03日 | 小説
例年になく変わりやすい天気が続いていた冬でしたが、今日は節分、早春のやわらかい陽ざしを感じます。

さて、本当に久しぶりの更新となってしまいましたが今回は、三島由紀夫の「宴のあと」です。

最近、三島由紀夫がマスコミでも注目されています。今年2015年は、三島由紀夫 生誕90年、没後45年という節目だからでしょうか?
それとも、自衛隊に憲法改正のクーデターを促し、自決した三島由紀夫と最近の安倍総理の憲法改正論と何か関係づけようという動きがあるのでしょうか?

私は中2の時くらいから「潮騒」や「金閣寺」など三島作品を読み始め、他にいくつかの小説を読みましたが、市ヶ谷の三島事件を最後に長い間、読んだことはありませんでした。
1970年の事件の時、十代の半ばだった私には、世間に名前が知られていない人が起こした事件ならいくら騒ぎになっても唯の犯罪者で終わってしまいそうなことを、作家三島由紀夫であるだけに、当時の報道は、その行動を非難しているようでもあり、誉めているようでもある、わけのわからない物であるように思えました。

以後長い間、私の中で封印してきた三島由紀夫でしたが、事件から12~3年後、オーストラリアでフランス人の日本文学ファンの人に出会い、フランスでは、三島由紀夫は川端康成とともに非常に人気があることを知りました。その時After the banquet 「宴のあと」のことを高く評価されていたことを思い出します。私もたぶん読んだことがあると思いましたが、なにしろその頃14~5歳でしたから、この小説の価値を理解できなかったように思います。
 
あれから○十年の歳月が流れ、改めて読み返してみると、ああこれは昭和の小説だなと思うと同時に非常に芸術的な作品だと思いました。
これは、実在の人物をモデルにし、三島がプライバシーの侵害であると訴えられた小説です。三島は一審で負け、後に和解したそうです。

あれから半世紀も過ぎ、モデルも故人となった今は、当時世間で何が起こり、どのような世論が飛び交っていたかなどは、この作品から、完全に切り離されているような気がします。

主人公のかづや野口の心理描写は三島が構成したものだということ容易に感じます。かつてこの「宴のあと」も翻訳したドナルドキーン氏が「三島の金閣寺の主人公は現実の放火事件の犯人とはまるで違う。あれは三島の中でつくられた主人公なのです」と言っていたことを思い出しました。

元首相を含め大臣クラスの政治家たちに贔屓にされていた高級料亭の主人福沢かづは元外務大臣で戦後は革新党の一員となった野口と結婚します。かづは都知事選に出馬した夫の選挙戦では湯水のごとくお金を使い応援します。

しかし、野口は革新党からの出馬、かづのかつての顧客たちからすれば対立する立場にあります。
かづのエネルギーは夫を当選させるために料亭まで抵当に入れ借金をし、お金を使いまくります。結果は落選。隠居を決め込んだ野口に対して、かづはさらなる借金をかつての顧客たちに申し入れ料亭再開をめざします。結局、野口とかづの心は決裂し、離婚することになりました。


かづは大物政治家に「女傑」と言われるほど、ひらめきとエネルギーと豊麗な肉体で周囲を圧倒させてきた中年の女性です。そのかづが、良く言えば古風な悪く言えば自分勝手な老人、かつては外務大臣まで務めた野口を愛してしまうのです。年齢は重ねていても恋は理屈抜きに始まるのかもしれません。如何にも現実に起こりそうで、でもいささか不自然さも感じます。「ああ、これは三島の創作のすごいところかもしれない」と思わせるところです。
最後まで読み進めると空虚な余韻がのこります。なんだかあわれでもあり、また驚くべきかづの強さを感じさせるところでもあります。かづと野口の不協和音はかづへ新たなエネルギーを吹きこみます。

最後の山崎(選挙戦の間ずっとかづと行動を共にしてきた革新党の人間)の手紙は空虚さから読者を静かに現実へ引き戻してくれるような気がしました。

黄金風景  太宰治 著

2014年11月21日 | 小説
すいぶん長い間、gooのログインすらしない状態が続いていました。ふと思い出して久しぶりにログイン画面に辿りつきました。

慌ただしい日々を送っていますが、最近、私の読書形態が随分様変わりしました。紙の本から電子ブックへ・・・・。紙ではなく、読みたい本をダウンロードして読むことが多くなったのです。毎月定期的に関東と関西を行き来している現状の中で、移動中の新幹線の中の読書は貴重なひと時ですが、数冊の紙の本を持ち歩くのはかなり荷物になると感じます。その点、紙ではなく、読みたい本をダウンロードする方法は便利だと思います。無料で読める青空文庫はこのごろとても充実してきたので最近よく利用するようになりました。

タッチパネルの操作が苦手でスマホで携帯電話を操作する自分を信用できず、結局、現在は通話用に従来型の携帯電話を使い、インターネット用にスマホを使うという、ちょっと無駄かもしれないけど両方を持ち歩くという状態になってしまいました。青空文庫はスマホを使って読んでいます。青空文庫は著作権の切れた死後50年以上たった作者のものが中心ですが、数多くの名作を読むことが出来るので、しばらくは楽しめそうです。他の電子ブックは有料が多いようですが、それでも紙の本よりは割安です。

さて今回の「黄金風景」はそんな青空文庫の中にありました。短い話ですが、とても印象に残ったものです。

作者の太宰治は「斜陽」や「人間失格」など、わが国屈指の文豪です。中学高校の頃、夢中になって読んだ記憶があります。心に突き刺すような鋭さがあって、若い人々には今でもたいへん人気があるようです。

何年も前のことですが、存命中の太宰治を知っているというAさんという方に出会ったことがあります。戦後すぐのころ、太宰が人気作家として活躍し始めた頃、Aさんはまだ子どもだったそうですが、近所に住んでいて、何度か見かけたことがあり、心中事件後もいろいろな噂話を耳にしたそうです。Aさんのお話によると太宰氏は人間としては周りの人に迷惑をかけるのはしょっちゅうでなかなかの「困ったさん」だったとか。同じく太宰と同郷のBさんもいくら太宰の作品が文学的にすぐれていても太宰氏の生き方や心中事件にはとても批判的でした。当時の私はかつて太宰ファンだった十代のころのことを思い出して複雑な思いで話を聞いていました。

大変前置きが長くなりましたが、そんな裏話を抜きにして、純粋にこの話だけに向き合うと、ちょっとあまのじゃくで頭のいい、でも生き方には不器用で、幸福とは言い難い主人公が、昔いじめた女中のことを心苦しく思うことに仏教的な説話の変形のようなイメージを持ちました。人は誰かにひどい目にあわされたりするとその人のことを恨んだり憎んだりすることがあります。いくら理性的な観点から人を恨むのはよくないとわかっていても長く心の奥に留まってその恨みを忘れることはできません。でも、このお慶はどうでしょう?主人公の男が、あれだけいじめた女中のお慶が家族に恨みごとひとつ言わず、むしろ主人公を立派とさえ言っています。そしてかつてはのろくさく見えた女中が家族を持ち、妻として母としてしっかり生きています。

最後に幸福度の勝ち負けのような捉え方が少しひっかかりましたが、そこがこの話のクライマックスです。主人公はお慶の人間としての深みに目覚めます。この話は仏教とはなんの関係もないのですが、かつてのわだかまりのようなものが億万の塵となって宇宙に散っていくような、般若心経に散りばめられた漢字が脳裡を交錯し始めました。

かつていじめたお慶の現在の幸福な様子と寛容さに完敗する主人公の心の変化の描写がとても印象的です。

「私は立ったまま泣いていた。けわしい興奮が、涙で、まるで気持よく溶け去ってしまうのだ。負けた。これは、いいことだ。そうなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える。」

ちょっと切なさも残る余韻となって心に響きました

月の輪草子

2014年04月12日 | 小説
いつの間にか首都圏の桜の季節もほぼ終わろうとしています。今年は身辺の用事に追われ、満開の桜を堪能する暇はなく、ようやく春の訪れを実感出来たのは、ひらひらと宙を舞う花吹雪の桜並木を歩いた時でした。

さて、今回は瀬戸内寂聴氏の[月の輪草子]です。これは齢九十を迎える清少納言の宮仕えのころを中心とした回想録という設定です。
清少納言が枕草子では書かなかった中宮定子の不幸な晩年についても書かれています。実際に清少納言が何歳まで生きていたのかは知りませんが、寂聴さんが語る清少納言によって、まるで千年の時を経て21世紀に生きている私たちが月の輪の庵に招かれているような気分になります。ただ、ちょっと残念だったのは、内容は判りやすいのですがあっけない感じですぐ読み終えてしまったことでした。(もっとこの時間を楽しみたかったような・・・・・)
源氏物語の作者-紫式部と清少納言は同時代に生きていたことはよく知られています。紫式部が清少納言の悪口を書いていたことが紫式部日記によってわかっていますが、ここでは最初から「紫式部は大きらい」と言いきっています。もっともこの時代の宮中には、和泉式部や赤染衛門など才媛たちが仕えていました。
枕草子や源氏物語の他にも優れた和歌がたくさん残されていて、文学的にも当時のポテンシャルの高さを感じます。
読み進めるうちに源氏物語の現代語訳をされた寂聴さんらしい切り口が感じられます。千年の時を遡って寂聴さんに誘われた清少納言の人生に思いを馳せることができます。中宮定子に対する忠誠心は並大抵のものではありません。まるで、恋人のような、神様のような思い入れは千年もわが国で読み継がれた枕草子の作者である才女清少納言の可愛らしい部分であるのかもしれません。
ところで寂聴さんが以前に源氏物語の桐壷の更衣のモデルは藤原道隆の娘、中宮定子ではないかとおっしゃっていたのを聞いたことがあります。ということは同時代に生きながら宮中では対立する立場の紫式部(道隆の弟である藤原道長の娘で一条天皇の中宮となった彰子に仕えた女房)に中関白家の没落と定子の苦境を書かれたことになります。桐壷は源氏物語の冒頭ですから、高校の教科書にも登場し、もっとも多くの人に読まれている章ではないかと思います。
枕草子や源氏物語が書かれた時代は、歴史的にも貴族たちが活躍した華やかな時代です。藤原道隆や道長の父である兼家の妻で「蜻蛉日記」の作者である藤原道綱母や儀同三司母(伊周、隆家、定子の母)を始め、清少納言や紫式部、赤染衛門や和泉式部など藤原定家が選んだ百人一首の中に納められている歌人の歌は今でも私たちが親しんでいるものです。
寂聴さんが清少納言の父、清原元輔や 曽祖父、深養父についても書かれていますが、このお二人の歌も百人一首の中にあります。この本にはありませんが、百人一首の中にある「うらみわび・・・」で始まる歌で知られる相模(大江公資の妻で後に宮中に出仕)は、十代のころ清少納言と橘則光の息子 橘則長と結婚していたことがあるといわれています。

まあ、そんなわけで寂聴さんの「月の輪草子」は清少納言の人生をふりかえりながら、その内容を超え、ちょっと一晩、平安時代の宮中の生活や、百人一首の中の平安貴族の歌やその関係に思いを廻らせることが出来た一冊でした。

場所  瀬戸内寂聴 著

2014年01月23日 | 小説
大寒も過ぎ、今いちばん寒さが厳しいころですが、夕暮れ時になると、日一日と日の入りの時刻が遅くなっていくのを感じます。枇杷の花が咲き始め、梅のつぼみが膨らんで温かくなる日が待ち遠しく感じるようになりました。

さて、今回は瀬戸内寂聴氏の「場所」です。寂聴さんが七十代の時書かれたものです。
主人公「私」が故郷を始め、京都や東京各地過去に暮らした場所を歩きながら、家族を捨て、恋愛を繰り返しながら作家として自立していき、51歳で出家するまでの思い出が語られています。

実はこの本は長い間、本棚で積読状態でした。先日ふとしたことから偶然この本がもう絶版になっていることを知り、あわてて、読み始めたところ・・・本当に長い間読まなかったことをひどく後悔するほど夢中になって読んでしまいました。

以前、寂聴さんは晴美さんのころの小説は私小説ではないと書いていらしたのを読んだことがありましたが、この「場所」の中の「私」は、荒川洋冶氏の解説にある通り、瀬戸内寂聴さんその人と思われます。私は寂聴さんの小説を随分読んだわりに、寂聴さんの生い立ちや私生活についてはよく知りませんでした。寂聴さんと同世代の義母は「いくら立派な作家さんでも、若い時の私生活はふしだらだから私は嫌い!」といって未だに批判的です。私自身はというと、このブログでも今までにいくつか寂聴さんの小説を記事にしましたが、源氏物語の現代語訳を読んで以来、寂聴さんの生き方がどうのと言うよりもあの源氏物語の功績だけでも、すばらしいものだと思うようになりました。もちろん、他に小説も好きなものはいろいろありますが・・・。何しろ、若い時、与謝野源氏を三分の一くらい読んだところで挫折した私はもう一生源氏物語など読むことはないと思っていたくらいでしたが、本当に目から鱗、寂聴さんの源氏はわかりやすく面白く読めたのです。寂聴さんの現代語訳はまさに源氏物語成立から約千年後の現代にもっともわかりやすい訳として、最高のような気がしました。

さて、話を元に戻します。
前半の徳島や名古屋はほとんど行ったことがないので私には馴染みのない土地ですが、京都や東京の地名は数十年という時間差で私も何度か足を運んだことのある土地でした。
三鷹下連雀・・・少女小説を書きながら晴美さんの東京の生活が始まりました。三鷹と聞くと太宰治の心中事件を思い出していた私は寂聴さんのこの章に太宰治のエピソードが書かれていて、太宰治という小説家の存在の大きさを改めて感じました。
塔の沢・・・紅葉の季節の終わりかけのころ寂聴(晴美)さんが妻子のある男と出かけた場所です。再び寂聴さんが訪れた時は夏、酷暑の7月でした。私はそのどちらの季節にもそこへ行ったことがありますが、沢の音を聞きながら、テレビでしか見たことのない箱根駅伝のコースを辿ることに夢中になっていた自分を思い出して思わず苦笑・・・。
西荻窪・・・寂聴さんの母校、東京女子大のキャンパスがありますね。1940年、17歳の晴美さんを思い浮かべてしまいました。
目白関口台町、中野、本郷・・・
昭和48年11月14日に寂聴さんが出家されてから28年後の水道橋駅が当時とあまり変わっていないとすると今もそれほど大きくは変わっていないような気がします。そこは今でも私はたまに訪れる場所でもあります。寂聴さんが出家直前の日々をこのあたりで過ごしていらしたのかと思うと次に行った時には、今までと違う見方をしているかもしれません。

最後まで読み進めると寂聴さんの生き方は見事なほど奔放で私のような凡人にはとてもまねできるものでないと感じます。唯、肯定もできないような気がしますが・・。別れたご主人やお子様、もう亡くなられたようですが、恋の相手となった方々の人生についても考えさせられてしまいます。京都嵯峨野の寂庵の法話や、犯罪を犯した人々との交流や更生、湾岸戦争や原発への抗議など数々の尼僧としての社会的活動には敬服しています。「場所」は寂聴さんが偉大な作家として作品を生み出されてきた原動力のようなものがひしひしを感じられ、と同時に出家された理由がほんの少しわかったような気がしました。

寂聴さんの小説は、今は処分せずに私の本棚に残しておこう!
ふと、そんな気持ちになりました。




中陰の花 玄侑宗久 著

2013年11月18日 | 小説
今年もまた来年の年賀状を考える時期になりました。今年は実父の喪中で年賀状を出さなかったのですが、来年は新年の挨拶をしなければと考えています。過去にお世話になった方々や遠く離れた友人たちと一年に一度無事息災であることを知らせ合うことは大切なことだと思います。子供たちは友人同士メールで済ませるように言っていましたが、私にとっては友人たちから工夫をこらした素敵な年賀状が届くのもひそかな楽しみのひとつです。版画や書をたしなむ友人からの秀作を小さな額に入れてしばらく部屋に飾っておくこともあります。
と同時にこの時期になると今年も親族などの訃報を知らせる葉書も届き、年々数が多くなってきました。高齢の方の場合はお迎えの時が来たのかしらと思うこともあるのですが、最近は、非科学的なことは信じないはずだった私でも同世代や若い方の訃報を聞くとちゃんとこの世に心残りはなかったのかしらとか成仏出来たのかしらと考えることもあります。

さて、前置きが長くなりましたが、今回は玄侑宗久氏の「中陰の花」です。玄侑宗久氏は福島の方で東北の震災後はテレビやラジオなどにも多く出演していらっしゃったのでなんとなくお名前を知っていましたが本を読んだことがありませんでした。以前このブログでも記事にしたことのある日明恩氏の「ギフト」を推薦してくれた友人から「中陰の花」のことも聞いていたのですが、当時読みかけの本がたくさんあったのでしばらくあとまわしにしていました。ようやく本が手に入ったので読み始めたら意外に読みやすくて一気に読んでしまいました。

なんだか、今までに感じたことのない不思議な読後感でした。「これって文学なのかなあ~、芥川賞の受賞作だし、やっぱり世間では文学の秀作って認められているからねえ~。変わった小説だわ。」この本のことを教えてくれた友人に投げかけた私の第一声でした。
でも、しばらくしてからもう一度読んでみると、別の世界が見えてきました。

臨終から49日までを、仏教では中陰というそうです。輪廻の思想により人の死後49日目に六道のどの世界に生まれ変わるかが決まると考えられてきたそうです。以前の生と次の生の中間の存在が中陰ということのようです。
日本では人は死後49日間、魂を清めて仏になるために中陰の道を歩いてあの世を目指すと考えられ、法要はその成仏を祈るために行われるということでしょうか?
「人は死んだらどうなるんやろ」則道の妻、圭子の問いかけは、すべての人類の疑問だと思います。
この世にやり残したことがあったり、残された大切な人のことが心配でしかたがなかったりするとなかなか成仏できないという話を聞いたことが何度かあります。私は若いころ海外で暮らす中でキリスト教やイスラム教、ヒンズー教など仏教以外のいろいろな宗教を信じる人々と接してきました。「あなたの宗教は?」と聞かれると仕方がないから「仏教」と答えてきました。当時は無神論という選択肢を思いつかなかったような気がします。でも実際は仏教はいちばん身近だと思いながらもすべての宗教から距離を保っているつもりでした。帰国後は仏教の作法に従い親戚の法要には出席し、精神統一と書道の鍛錬のひとつ、教養の習得と心得、最近は写経をすることもあります。法事で唱えられる御経も10年くらい前から随分聞き取れるようになりました。
両親は共に仏式の葬儀を行い、寺院内の墓地に埋葬されています。仏教の教えには親しみを感じる部分もありますが、親戚が東北、関東、東海、関西とあちこちにいるので真言宗だったり、浄土宗だったり、禅宗だったりするので、法要の仕方も少しずつ違い、和尚さんのお話も少しずつ違う世界感を感じます。これからの人生は少しずつ宗教についても学んでいこうとは思ってはいるのですが・・・。今はまだかなり白紙状態です。
金縛りのこともおがみやさんのことも世の中にはそうゆうことも存在するのかもしれないと考えるようになりました。つまりそれは、宗教的な考え方というより、人間の意識界の中で起こりうることかもしれないと解釈できるからです。
人間は身体だけでなく精神も弱い存在です。最初は父母に守られ家族に守られ成長していきますが、やがて社会の荒波にさらされ、大きく傷つくこともあります。宗教は多くの人間にとって支えとなってきたものと考えます。そして死の恐怖に立ち向かう時も寄り添っていくものなのでしょう。
この話もかなり怪しげな部分を感じますが、ギフトのようにこれは完全にフィクションで超能力の話だとは言い切れないような、もっと素直に「人間の心ってなんだろう?」「成仏ってなんだろう?」という問いに迫っていくような気がしました。
如何にもお坊さんの作品らしいなあという感じでもあります。何だか新しい課題をひとついただいたような気持でした。


グレート・ギャツビー  スコット・フィッツジェラルド著  村上春樹 訳

2013年10月29日 | 小説
村上春樹氏訳の「グレート・ギャツビー」を読みました。映画も上映されているとのことでしたがまず原作を読んでみようと思ったからです。読み終えてみると、村上氏の訳が昔の小説なのにとても現代風な言葉遣いで読みやすいからか、フィッツジェラルド氏の原作の文章力がすぐれているのか(原文を読んでいないのでわかりませんが)、たぶん両方だと思いますが、情景や心理描写の表現力の巧みさに魅せられました。そのうち映画を見ることがあるかもしれませんが、しばらくの間は小説のイメージを大事にしておこうかなという気持ちになりました。

さて、この小説の舞台は1922年のニューヨーク、ロングアイランドです。ウエストエッグとイーストエッグという架空の地名が出てきます。イーストエッグはスコット・フィッツジェラルド氏自身が住んでいたこともある高級住宅地グレートネックがモデルのようです。

物語はニック・キャラウェイという中西部出身の29歳(途中で30歳になる)の青年の語りで展開します。ニックは大学卒業後第一次世界大戦に参戦し、終戦後しばらくしてから証券関係の仕事に就くためにニューヨークへやってきます。

ジェイ・ギャツビーはニックがウエストエッグに借りた家の隣人です。第一次世界大戦で活躍し、終戦後は無一文から富を築き、広大な敷地に建つ豪邸に住んでいました。

そして小さな湾を隔てた対岸にイーストエッグがありニックの大学時代の知り合いのトムとその妻デイジー(ニックの遠い親戚)が住んでいました。

ギャツビー、トムとデイジー、ニックとゴルファーのジョーダン・ベイカー、トムの愛人のマートル・ウィルソンとその夫を中心に展開する日々の生活の歯車が、ある日実に驚くべきタイミングではずれてしまいます。そして、実にあっけなくすべては終わります。

ギャツビーは当時アメリカで施行されていた禁酒法など無縁であるかのごとく、派手なパーティを繰り返し、彼の邸宅には毎回大勢の人々が押し寄せていました。そんなギャツビーでしたが実はとても純粋でひとつの夢を膨らませていました。デイジーを愛していたのです。

この小説の中心人物のように当時のニューヨークで車を所有したり、使用人を雇ったりできる裕福な暮らしが可能な人々がどのくらいの割合だったのかわかりませんが、華麗な暮らしを思い起こさせるアメリカンドリームの象徴的なイメージは人々を魅了します。
但し、登場人物はそれぞれかなり自己中心的です。

デイジーとギャツビーは、かつては恋人同士でしたが戦争(と社会的階級・・・つまりデイジーが上流階級の娘だという事実)が二人を引き裂きます。歳月は流れ、デイジーは富裕階級のトムと結婚します。やがて富を手に入れたギャツビーはデイジーの家の対岸の豪邸に住み、デイジーを迎える夢を膨らませます。ニックの助けを借りてデイジーに再会したギャツビーは、デイジーに長年の思いを伝えます。ある日、ギャツビーはトムの前でデイジーに自分の元へ来るように迫ります。驚くデイジーでしたが、トムとの間に娘まで生まれた今、トムとの結婚を解消してまでギャツビーのもとへ走ることには気持ちが揺れ動くばかりで決断はできません。一方のトムも愛人マートルがいながら、愛しているのはデイジーだと言います。

あとは見事というべき偶然を組み立てた作者に感心するばかりです。

デイジーがギャツビーの車を運転しているときに、突然飛び出してきたトムの愛人マートルをはね、即死させてしまいます。翌日、ギャツビーはマートルの夫に射殺されました。トムとデイジーは当日のうちに仲直りし、ギャツビーの結末を知らずに旅に出てしまいます。マートルの夫は妻を引き殺したのも妻の愛人もギャツビーと決めつけていました。
世間ではこれで事件は解決したことになります。

真相を知るニックはトムとデイジーの二人のことを思慮を欠いた人間と批判します。
亡くなったギャツビーに最後まで付き添って世話をした友人はニックだけで他の人々はまるで手のひらを返したように遠ざかってしまいました。そして最後にニックは、彼と同様に事件の真実の多くを知っていると思われるジョーダン・ベイカーにも別れを告げ、ニューヨークを離れます。

非情のようにも思えますが、ここでミスベイカーが人間的に成長するか堕落するかの岐路に立たされているということを感じます。彼女もプライドが高くわがままな娘ですがここでは他の登場人物を引き立たせる役割を果たした人物の一人と考えます。

さて、ここで若い読者だったら、デイジーとトムのことをどう思うのでしょうか?彼らはたいへんにしたたかです。ギャツビーを食い物にした張本人たちです。
彼らが引き起こした混乱の後始末をニックたちにさせて逃げたのは確かなのですが、第3者から見て彼らがどんなにずるくても、彼らにとって最良の方法を即座にやってのけたというのがポイントです。
私はデイジーのような女性は苦手ですが、感心はします。最も有利な生き方を選ぶ能力はすごいです。自分の心に正直な生き方をしようとしたらこんな早業は普通はできないでしょう。
逆にいえば人間とは多少ずるくなければ裕福な生活を維持することは難しいってことでしょうか?純粋で思いやりの深い人ほどお金はたまりにくく出来ているのが世の中なのかもしれませんからね。

ギャツビーの心はまっすぐでしたが、短期間に大金を得た方法についてはあまりはっきりしません。悪徳的部分も匂わせています。

ニックは律儀だと思います。はかなくも打ち砕かれたギャツビーの夢の跡には訪れる人もなく、伸び放題になった庭の芝生を見てニューヨークをあとにします。

徒に分けつる道の厳しさよ 夢も命も散りにけるかな
                    (ニックの気持ちを思って・・・糸遊)

ニューヨークに限らず大都会というのは昔も今も人々の夢と涙とそして命をも無情に運命の渦の中に吸い込む大きな力を備えているのかもしれません。そこには醜い塵芥を巻き込んだ広大な渦がありその渦の中を器用にすり抜けた者だけが富と名声を得られるのでしょうか?それは21世紀になった今も変わらないような気がします。

小さいおうち   中島京子 著

2013年10月01日 | 小説
「年齢を重ねると一年が短く感じられるようになる」と年配の方からよく伺いますが、私も最近そう感じるようになりました。とりわけ暑かった今年の夏も今となっては駆け足で通り過ぎてしまったような気がします。

さて、今回は中島京子さんの「小さいおうち」です。久しぶりにふらっと立ち寄った書店で目に留まったのは、ファンタスティックな絵とオレンジ色の表紙、そして帯に山田洋次監督映画化決定の文字、・・・急に読んでみたくなりました。

時代は昭和の初めです。今なら家政婦さんというのでしょうか。当時は住み込みの女中さんを雇っている家も多かったようです。山形から上京して女中奉公に出たタキさんは若くて美しい奥様に仕えます。この奥様が再婚した時、タキさんもいっしょに新しい旦那さまのもとへついていきました。物語はタキさんの回想録という形で展開します。

時代はやがて戦争へと向かっていくのですが、庶民の(といってもちょっと裕福な)人々の暮しは戦争末期を除いてのんびりした印象です。

奥様のちょっとした恋愛事件をきっかけにタキさんの女中としての真価が問われる訳ですが、解はあるような、ないような・・・最後の場面の展開が絶妙です。

表紙の帯の反対側に「読み終えた時、きっと誰かと語り合いたくなる」とありました。その言葉通り、今回私が最初にこの本の話をしたのは同世代の友人ではなく義母でした。

主人公のタキさんは私の義母や今は亡き実母よりほんの少し年上のようですが、同じ世代です。義母は女中さんが何人もいるようなかなり裕福な家庭に育ちました。そしていちばん年齢の近い(若い)ねえやと仲良くしていたそうです。そのねえやは広島の人で戦争が始まってから故郷へ帰り、しばらく文通をしていたそうですが、終戦後は音信不通になってしまったので、おそらく原爆の犠牲になったのではないかということでした。

戦前は女中さんを雇っているうちが多かったようです。私が子供のころ(昭和30~40年代)までは近所に女中さんのいる家庭もあったような気がします。そのころはお手伝いさんと呼ばれていましたが、家事手伝いは花嫁修業のうちみたいな感じで工場などに就職せずにお手伝いさんになる人もありました。義母は、「女中さんには能力が必要で、良い女中さんに出会うことはその家にとって幸運なことだった」とも言っていました。

タキさんが最初に奉公した小説家の先生から聞いたイギリスの女中の寓話がこの物語の展開のポイントでもあります。

また、先月2020年の東京オリンピック開催が決まった後、義母とオリンピックの話をしました。義母が思わず「東京オリンピックが決まったの、ホントはこれで3回目ね」と言って、1940年(昭和15年)に開催が決まっていながら戦争の為、実現しなかった話を始めました。

実はこのタキさんの回想録にもまぼろしの東京オリンピックの話が出てきます。
東京オリンピックが決まった時の当時の様子は義母とタキさんの話が重なる部分が多く、ちょっと微笑ましくもありました。

この話には何とも言えないぬくもりが感じられます。それはちょっと切ないながらもなんとなくほっとするような読後感でもありました。

そして義母も早速この本を読み始めたそうです。

坊っちゃん  夏目漱石 著

2013年09月20日 | 小説
先日の台風18号は日本列島各地に大きな傷跡を残して去って行きました。今のところは秒単位の警報以外ほとんど予知が不可能な地震と違って、台風については強さや大きさ、雨雲の様子や進路の予測はかなりできるようになりました。でも、だからと言って災害を減らすことはできてもなくすことは困難なのが現実です。人間が自然に太刀打ちしようと考えても無駄だと天が嘲笑っているのでしょうか?

台風18号の後は晴天が続き、昨夜は中秋の名月、久しぶりに昨日と今日はつかの間の休息日なので、ゆっくりお月見をしました。

それから昨日になって、もう一つ思いだしたのは、子規忌、わずか34年の生涯で近代文学に大きな影響を残した明治を代表する文学者正岡子規の命日です。

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」・・・俳句というと芭蕉の「古池や・・」よりこの句がまず最初に浮かびます。多分俳句とは何かよくわからない小学生のころから誰かが口ずさんでいたのを覚えていたからかもしれません。後にわかったことですが、この子規の名句は、子規が病気で療養中に生活などの面倒をみたこともあるという東大予備門以来の親友夏目漱石の句「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の返礼として作られた句だそうです。

さて、前置きが長くなりましたが今回は 夏目漱石の「坊っちゃん」です。大変有名な小説です。「坊っちゃん」は漱石が子規の没後10年くらいしてから発表したものです。子規の訃報をロンドンへ留学中に知った漱石は自らも精神的な病と闘っている時でした。10年近い歳月を経て、子規への追悼の思いも込められて書かれた作品でもあると知り、急にまた読み返してみました。若い時には読んだ記憶がありましたが、それ以来じっくり読んだことはありませんでした。「坊っちゃん」は有名ですから、さまざまな折に小説に登場するエピソードを繰り返し聞いていた為、改めて読もうという気にはなれなかったからでしたが、幸いわが家の任天堂のDSを充電したらしっかり機能してくれたのでお月見の後は日本文学全集の中にあった「坊っちゃん」を読み始めました。そうしたら夜中までやめられなくなって一気に読んでしまいました。漱石の他の作品に比べたら物語も比較的単純で江戸っ子の坊っちゃんが松山の中学校で数学の教師として働いている間のわずか1ヶ月の間のことなのですが、文章の軽快さと面白さには敬服です。

今回改めて感じたのは坊っちゃんのべらめえ調の江戸言葉と「・・・な、もし」に代表される松山の方言が絶妙に組み込まれていて、登場人物の方言に興味をそそられることです。
聞くところによると正岡子規と同郷で俳句文芸誌「ほととぎす」を引き継いだ高浜虚子に「坊っちゃん」の中の松山弁を添削してもらったとか。
「坊っちゃん」は何回も映画化されたりドラマになったりしているようですが「坊っちゃん」の面白みは何と言っても漱石の文章表現にあると思います。

ところで、マドンナという単語ですが、坊っちゃんにも出てきますが、「わが淑女」という意味で、有名な言葉です。最近では「マドンナ」と聞くとアメリカのシンガーソングライターの「マドンナ」が浮かびますが、若いころは「坊っちゃん」で使われて有名になった言葉くらいに思っていました。でも実際に読んでみると「マドンナ」本人の影は薄く、赤シャツがうらなりの許嫁を奪おうと権力を笠にあれこれ駆使していることに坊っちゃんが一人腹を立てていることがわかります。
うらなりの本心は人が良すぎて最後までよくわかりません。

坊っちゃんにとって心の安らぎとなる女性は最初から最後まで「ばあや」の「清」なのがなんともいじらしく微笑ましくもあります。

ところで蛇足ですが、今これを書いているうちにもうひとつマドンナという言葉で浮かんでくるものがありました。映画「男はつらいよ」の寅さんです。全作品に毎回、マドンナ役が登場しましたね。この映画でも寅さんの口上で絶妙な江戸っ子言葉が登場します。寅さんの口上は主役の渥美清さんが戦後のアメ横周辺の闇市で働いていたころ覚えた言葉と聞いていますが、早口でまくしたてる江戸言葉の軽快さは見たり聞いたりしているものに小気味良さを感じさせてくれます。

坊っちゃんと寅さんを一緒にしたら漱石先生に失礼なのかもしれませんが、何だか全く違う背景なのに二人とも江戸っ子だし無鉄砲なところや義理人情に弱いところなど共通点がたくさんあるような気がしてきました。

 漱石を読みて夜更かす子規忌かな (糸遊)

ギフト   日明恩 著

2013年09月12日 | 小説
暑かった夏も終わり、あちこちで秋の気配を感じるようになりました。2020年の東京オリンピックの開催が決まり、何となく景気も上向きそうな期待が広がっています。原発事故の汚染水問題も心配は尽きないし、国家財政の債務残高の多さや巨大地震の危険など、何だか大丈夫かなあという懸念は払しょくできませんが、とりあえず、しばらくこの歓迎ムードを静観しようかなという気持ちになりました。

さて、今回は日明恩さんの「ギフト」です。普段ミステリーはあまり読まない私ですが、先月末、人生の大先輩として尊敬する古希を迎えたばかりの方のお一人からこの本の話を伺いました。表紙のイラストを見た時、若い人たちに人気がありそうな本のイメージだったので何となく違和感もあって少し驚いたのですが・・・数日後、その方とは全く面識のない友人が「日明さんのこの本、涙が止まらないくらい感動的!」と言って、成仏出来ずにこの世に留まっている幽霊の話を延々と始めたので、びっくり・・・。もしかしたらこれも何かの縁かもしれないと、急に興味が湧いてきて早速読んでみました。

非科学的なことは、原則、信じない(信じたくない?)私です。感情抜きで考えれば人間の死は60兆個の細胞の死、あらゆる生命体の死は細胞の死と割り切っています(本当は割りきろうと自分自身に言い聞かせているのかもしれません)。でも、現実には肉親の死や親しかった人々の死に直面してみるとそんな簡単な話ではすまされない割り切れなさがいつまでもつきまとうということを何度も体験してきました。

「ギフト」は死者が見えるという特殊な能力を持った少年と元刑事の話です。この本の中にも出てきますが以前「シックスセンス」という映画を見たことがあったので、作者もそこに大きなヒントがあったのかなと思わないでもなかったのですが、現実的ではない作り話と知りながら、軽快な文章にけっこう引き込まれてしまいます。ギフトの意味は最後まで読み進めると分かりますが私はこのストーリーそのものよりも、家族の絆、人間の切なさや物悲しさ、科学が発達したとはいえ、それだけでは割り切れない運命の糸のようなつながりや偶然性を考え直していました。

話は少し反れますが、死後も成仏できずにこの世にさまよっている幽霊の話は今までに何度か聞いたことがあります。でも幽霊と出会った人は少ないようです。幽霊を見たと主張する人には、幽霊を見た人と亡くなった人との関係が心の奥深くに無意識に絡み合っていて妄想や幻覚となって現れたからなのではないかという気がしています。ですから、深層心理学や超心理学の世界で物事を考えればまんざら嘘の話とは言い難い気がします。因果があるかないかは受け止められる人がどう考えるかで変わってくるのではないかということです。

ところで、人間は眠っている時、つまり意識レベルが低い時に夢を見ることがあります。私も亡くなった両親や祖母と夢の中で出会うことがあります。覚醒しているときはほとんど意識しなかったことが夢の中に登場して以来、急に落ち着かない気分になることもあります。

今から15年くらい前のことですが、朝方の浅い眠りの中で久しぶりに亡くなった母の夢を見ました。どんより曇った冬の日でした。その日の午前10時ころ私は近くのスーパーへ自転車に乗って買い物にいきました。その時、今まで一度も経験したことがないことが起きました。金属の自転車の鍵が折れたのです。スーパー近くの自転車屋で自転車の鍵を新しいのに付け替えてもらって、家に帰るとすぐ、実家から電話があり、父が脳梗塞で倒れたということでした。(幸いその時は2週間程で退院し、後遺症もわずかでしたが・・・。)

また、数年前、Mさんという親戚の人が亡くなった日の朝方、我が家の掛け時計が(壁の劣化で留め金がはずれたのですが)床に落ちて壊れました。Mさんが亡くなったという知らせを聞いたのは時計が落ちてまもなくしてからでしたがとても驚きました。

これらは本当に起きた話です。共時性とでもいうのでしょうか?
妹に話したところ、「それは単なる偶然にすぎない」と馬鹿にされましたが、私にはその他にも小さなことですが似たような関連性が思い当たることがいくつかあります。でも、普段の生活ではやはり妹の意見の方が正しいのだろうと思い、あまり深くは考えないようにしてきました。共時性にこだわるのは非科学的な気がするからです。

また、夢の世界では、現実では起こらないような恐怖や快楽の中に陥るようなこともあります。かかりつけの医師から認知症と診断を下されている義父は比較的しっかりしている時は家族の人々を認識することができて、話もできるのですが、周期的に、今日は何月何日なのか自分自身がどこにいるのかなどがはっきり分からなくなります。時々妄想という症状が出て、遠い昔の記憶の中の自分になりきっていることがあります。加齢による認知症や精神疾患による妄想や幻覚は家族にとっては大変な難しい対応に迫られる病状です。でも誰にでも起こりうるものであり、潜在意識の向こう側との出会いであるような気もします。

だからこそ読者の深層心理学的な潜在意識をちょっと刺激しながら、普通の人が見えない物が見えたり聞こえない物が聞こえたりする超能力を持った人間が苦しみながらもその超能力を駆使して事件を解決していく物語は、魅力的なのかもしれません。
この本が幅広い世代に受け入れられる理由はたぶん随所にちりばめられた登場人物たちの思いやりに心を打たれるからかもしれません。

しろばんば   井上靖 著

2013年08月11日 | 小説
立秋を過ぎましたが暑さの方はますます厳しくやや閉口気味の毎日です。
さて、今回は井上靖氏の「しろばんば」です。最初に読んだのは中学生くらいの時だったように思います。なんだかとてもいい本だなと感じた記憶はあるのですが、その内容はほとんど忘れていました。先日、このブログの記事にも書いた井上氏の「わが母の記」を読んだあと、急にこの作品が懐かしく感じられて、長い歳月を経た今、再び読んでみました。

これは大正時代の初期、今から百年近く前の静岡県伊豆半島の天城湯ヶ島(現伊豆市湯ヶ島)が舞台です。実は私の父の実家も伊豆にあり、子どものころから聞き覚えた地名も多く登場するので、初めて読んだ時から親しみを感じていたのを覚えています。今は亡き父が生まれるずっと以前、祖父母が十代の若者だった時代の伊豆地方の様子を思い描きながら、まるで吸い込まれるように読み耽ってしまいました。

井上氏は子供時代を湯ケ島で過ごしました。「しろばんば」はその頃の思い出を描いた自伝的小説です。しろばんばとは、この地方の子供たちにそのように呼ばれている白い小さな虫のことで晩秋、夕方になると白い綿のような毛をつけて飛ぶようです。本来の意味は「白い老婆」です。
この話は<なんで「しろばんば」という題なのだろう?>と思いながら、小説を読み進めていくと、主人公洪作の曽祖父の妾だったおぬい婆さん(洪作と二人、土蔵で暮らす)のイメージとも重なりますがなんとなくこのふわっとした疑問は解けないままでした。
最後まで読み終えた時はとてもしみじみとした感覚が残り、若い時の読後感と変わらないさわやかさと切なさが交錯するような・・・そんな印象でした。

洪作とは血のつながりがないおぬい婆さんですが実の親以上に強い絆がありました。
長編なのですが難しくて読みにくいところはなく、当時の社会や複雑な人間関係が少年の目を通して描かれているので、まるで映画を見ているような臨場感さえ感じます。
時代は違いますが、おそらく、おぬい婆さんやさき子、小学校の石守校長などの登場人物のキャラクターが、私の記憶の中で浮かび上がってきた幼い日に父方の親戚で出会った人々とも重なり、懐かしさのような感情も芽生えていたように思います。
この小説の舞台となった大正時代の初めころ、伊豆半島の中を移動するといっても湯ヶ島-大仁間は馬車での移動でした。三島-大仁間は軽便鉄道(現在の伊豆箱根鉄道の前身)が走っていたことが分かります。洪作がおぬい婆さんと一緒に両親の住む愛知県の豊橋に出かけていくのにも途中一泊するくらいのたいへんな旅でした。やがて、洪作が小学校の高学年になるころ、その湯ヶ島にもバスが通るようになります。最初のうち、老人は馬車に乗り、若者はバスに乗っていました。子供たちに人気があるのはバスでした。

洪作はおぬい婆さんに連れられ、あるときは自分の足で歩いて、湯ヶ島から抜け出しいろいろな土地へ行き、人々と出会い成長していきます。

少年の淡い恋心やおぬい婆さんの死、中学受験へ向けての勉強の日々。

私は、祖父母の若き日の暮しに想いが重なりました。両親から両親の子供の頃の話を聞いたことはありましたが、祖父母から祖父母の子供のころの話を聞いた記憶はありません。父が亡くなった時、父の生涯の戸籍を見て、その時初めて、明治生まれの祖父母の出生地、明治以前に生まれた曽祖父母の家系のことなどを知りました。明治、大正、昭和の中期までは世帯主からその孫たちまで記載された大家族の戸籍謄本でした。明治、大正のころの父の生家の家族の形態や戸籍に記載された地名がこの小説にも登場するのでとても興味深いものでした。その頃の暮らしぶりを想像するのにもこれは非常に参考になりました。
首都圏で生まれ育った私が子供のころ、父の実家へ遊びに行くと叔父や叔母たちから「都会の子」と言われていました。従兄弟たちからみると私の父は「都会のおじさん」だったようです。父がよく「田舎へ行くぞ」という表現を使っていたので私にとって最初に田舎の風景を思い描いたのは中伊豆の辺りのことでした。山や川があり、森があり、田畑があり、神社があり、商店街や町工場はほんの少し・・・・。小学生の頃は、祖母にお使いを頼まれて近くの道をわずか数百mくらいの距離を歩くのも途中人影が少ないのでいつもおっかなびっくり・・・。従兄がいつも脅かすので、私にとって最も怖かったのは人よりむしろ時々人里に出没する蛇やタヌキのような野生の動物でした。
歳月は流れ、祖父もその後当主となった伯父も亡くなり、従兄の代になりました。伊豆は昔から温泉があちこちから出ていましたが、今では大きなホテルや工場ができたり、道路も整備されたりして、東京からは近場の観光スポットとしてテレビなどでもよく紹介されるようになりました。
今はなかなか旅行などできない状況ですが、そのうち孫の手でも引きながら、しろばんばの舞台を歩いてみたいものだと思いました。


指揮官たちの特攻  城山三郎 著

2012年02月21日 | 小説
再び久しぶりの更新となってしまいました。この冬は全国各地で厳しい寒さが長く続きましたが、二月もあとわずか、ようやく時折春らしい陽射しを感じるようになりました。
さて、今回の記事は、城山三郎氏の「指揮官たちの特攻」です。
話は横道に反れますが、今年は日本の敗戦から67年目になります。戦争を体験した世代がずいぶん少なくなりました。私は戦争を知らない世代です。日本全体が敗戦後のまだ貧しかった時代から高度成長の時代へと変化していく中で、子供時代を過ごしました。幼いころ、両親や叔父叔母たちから戦争体験を聞きながら成長しました。でもそのころは空襲の話が多く、戦場の悲劇や軍隊の様子など、また何故戦争になったのかなどの歴史的背景を知ることになったのはずっと後になってからのことです。実は、当時戦場へ送られて生還した私の父も年明け早々亡くなりました。

先日、父の遺品の中に、父が復員後すぐに書いたと思われる回顧録や出征直前と復員直後の日記を見つけました。初めてそれを目にした私は、終戦の年19歳だった父の目に映った軍隊や戦地の記録を読み、若き日の父の姿の一部を知りました。その中にあった「軍隊とはそういうところだ。」というひとことがいつまでも脳裏に焼き付いていました。生前は、戦争体験をあまり多く語らなかった父でしたが、父もまた家族にこの体験を伝えようと思っていたのでしょうか。また、この「指揮官たちの特攻」に登場する関行男海軍大尉が出撃した昭和19年10月に父は出征し、中津留達夫海軍大尉が最後の特攻攻撃に飛び立った敗戦の日、昭和20年8月15日からさらに2週間近く後まで父が所属していた部隊の戦闘は終わっていなかったことも知りました。歳月を重ねたノートは手書きの地図などが一部リメイクされ、きれいに保管されていました。

話をもとに戻します。城山氏は昭和2年生まれ、戦争を体験し、書き残すべき責任を強く感じられていたのでしょう。城山氏の戦争に関するドキュメンタリー小説はこのブログの記事にも書いた「落日燃ゆ」をはじめ、いくつか読んだことがあります。どれも重みを感じるものばかりですが、これは「命」という観点から非常に考えさせれるものだと思います。

ここでは連合艦隊司令官山本五十六は開戦前からこの戦争の勝敗を察知していたことが書かれています。それでなくても多くの知識人や政治家、軍隊の上層部でも、結末は予測できていたようです。わかっていたからこそ、精神論だけで抵抗し続けた「特攻」はまさに自殺攻撃・・・・・。それを考えた日本軍の上官たちへの怒りと使命感に燃えて命を落とした若者たちへの切なさが胸をつきます。戦局が悪化すればするほど戦闘員として戦わなければならないと感じるほど若者たちが皇国日本に洗脳されていた時代でもあったようです。17歳で海軍に志願した城山氏もそのひとりであったようです。しかし4ヶ月後には敗戦、そこでは末期症状の軍隊の不条理さを知ることになりました。

特攻の攻撃には往路しかなく、当然復路の燃料も積んでいませんでした。

特攻は米軍にとってはたいへん脅威だったようですが、いったいどれだけの若者が命を落としたことでしょう。いくらお国のためと洗脳されていたとはいえ、このような結末は無念だったことでしょう。痛ましい限りです。
そしてまた敗戦後しばらくは遺族も生き残った人々もその家族もまた軍神どころか元軍人に対する世間の冷たい視線にもさらされることになったようです。


そしてさらにまた驚くべきことには、終戦の日、中津留大尉は終戦による出撃停止の命令を宇垣長官によって伏せられたまま、沖縄へ飛び立っていったということです。飛行機を操縦できない宇垣長官は戦争責任をとるために自らの死の旅に中都留大尉らを道連れにしたのです。今となっては真実はわかりませんが城山氏の推測によると、大分からの機中での伝声管とのやりとりか敵機も敵艦も全くないことから異常を感じた中都留は終戦を察知し、宇垣長官の命令に逆らって、米軍キャンプからわずかに外れた場所に突入したのではないかということのようです。人間中津留達夫氏の上官に対する最後の抵抗だったのでしょうか。

歳月は戦争の記録を風化させます。でも祖父母や親の世代から戦争の記憶を引き継いだ私たちはその証言を大切にし次の世代に語り継いでいく努力を怠ってはいけないと思いました。

紅梅  津村節子 著

2011年11月29日 | 小説
急に思い立ってPCを立ち上げましたが、すいぶん久しぶりの更新となってしまいました。

時の流れの早さに驚きながらも精神的均衡と疲労回復に心がけていると、季節の変化を堪能している暇もなく、インターネットの記事を読みながら秋も深まってしまっていることを実感します。そういえば今年の南関東の特に海岸沿いの地域の紅葉はあまり綺麗とは言えませんね。9月の台風の塩害や天候不順が原因と言われているそうですが〜。

今日の記事は津村節子氏の「紅梅」です。津村氏の夫吉村昭氏の闘病生活を私小説化したものです。吉村昭氏は私の好きな作家の一人です。特に歴史小説が好きでした。もちろん津村氏の小説も好きでしたが私は長い間このお二人が夫婦であることを知りませんでした。津村氏の夫婦の機微を綴った小説を読むうち私は吉村氏の作品の背景にあるものを想像してみるようになっていました。と同時に夫を支えながら自らも小説を書き、子供を育て上げた津村氏をたいへん敬服するようになりました。

私は5年ほど前から家族の介護と向き合っています。津村氏も吉村氏も私の両親よりほんの少し年下ですがほぼ同世代、戦争と戦後の混乱の中を生き抜いてこられたお二人の生き方に触れることは私の親の時代の背景を別の角度から見るようでもありました。ですからとても興味があり、どんな小さな断片でもいいから私が向き合う今の環境へのヒントがないかと・・・・たぶんそんな気持ちからこの本を手に取ったように思います。

それは偉大な作家というよりごく普通の闘病生活のようでもあり、私自身の身内をめぐる家族の者たちの葛藤に重なるようでもありました。

育子(小説形式なので育子を主人公に書かれています。)は夫の最後の言葉を聞きとることができませんでした。育子の夫の最後の振る舞いは育子の余生へ大きな問いを残します。こんな日が私にも訪れるのでしょうか?それとも私が先でしょうか?いずれにしてもその日はまだ何十年か先であって欲しいと思いながら私は、癌の闘病生活を送っていた母との最後の会話は「じゃあ、明日また来るからね。」「ありがとう、また明日ね」・・・だったことを思い出しました。その晩、母は病状が急変して亡くなりました。もう25年近く前のことです。

日本人男性の平均寿命をはるかに越えた父は何度か危篤状態に陥るほどの病を乗り越え今静かに余生を送っています。但し、生きるために介護が必要な身になってしまいました。義父母もまたそれぞれが私の父と同様の状況で現在に至っています。

医学の進歩に驚かされるとと共に、長寿社会を作り上げた現在の平和な社会もやはり驚くべきことなのかもしれません。
でも、「しあわせとは何か?」という問いかけの確固たる答えにつながるものでもなさそうです。

津村氏の思いからは飛躍してしまったかもしれません。

しかし、これは家族とは何か〜人間の尊厳とは何かを改めて考えさせられる本でもありました。