いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

ごめんあそばせ 独断日本史

2007年07月24日 | その他
 歴史小説の大御所ともいうべき杉本苑子、永井路子両氏の六十代の頃の対談集です。歴史好きにはこたえられない一冊かもしれません。

 教科書には出てこない日本史に対する解釈の興味深い一面が次々に登場します。663年の白村江の敗戦の後、唐や新羅から2000人ぐらいの人々がきて律令制度を押し付けたという話ーそれは当に現在の日本国憲法が戦後の占領下の中で作られたのと似たようなもの??なるほど、そんな風にも考えられるのかなあという感じです。
 天智天皇はすっかりハイカラ好み(唐風)になって改革路線を進めようとしますが、弟の大海人皇子(天武天皇)は抵抗勢力でした。壬申の乱は単に皇位継承争いにとどまらなかったようですが・・・。その後の蘇我系女帝と藤原氏との関係などは日本史の教科書には登場しない話でしょう。

 そこで私もちょっと脱線して、謎の多い万葉歌人額田王の歌を万葉集などから拾い読みしてみました。 なるほど彼女はこの時代の変化の目まぐるしさを謎かけ風に詠んでいらっしゃるのかと改めて考えさせられます。

 話は変わって 平安な不安朝400年。読んでいる方も「あら、そうなの?」という調子で現代風にバッサリ切り込まれた雰囲気でした。
 清盛は白河のご落胤という説・・・本当のところはどうだか知りませんが、何だか信じた方が面白いことだけは確かです。
 
 お二人の大御所様方が、信長、秀吉、家康を男性としてどうかと切り込む部分・・「やっぱりね!私も同感!」 日本史上切り離して考えることが出来ない3人の英雄たちについての解釈についても思わず苦笑でした。

 十代二十代の頃の私がもしこんな本を読んだらきっと片っ端から鵜呑みにして歴史上の人物の性格に対するイメージを作っていったかもしれません。でも今の私なら、なるほどこう考えると面白いかもね。という調子で読み進めることができる本でした。
 何だか超特急で古代から明治初期までの日本史上の人物像を追いかけた新解釈ダイジェスト的感覚もありますが、最後まで興味深く読み進めることができました。

歴史をかえた誤訳 鳥飼玖美子著

2007年07月11日 | その他
とても興味深い本でした。

「訳す]という行為は外国語から日本語でなくても、実は多くの人が日常生活の中でよく経験することです。大人から子供へ方言から標準語へなどいろいろです。でもそれが2つの文化、2つの言語間となるとなかなか生易しいことではありません。最近は自動翻訳機など出てきて一見便利そうですが、今のところはまだすぐ限界を感じます。
グーグルやヤフーの翻訳機能を使って英字新聞の記事を訳させてみたことがありますが、訳された日本語はかなり難解で直接英文を読んだ方がましだとすぐ思ってしまいました。

 この本はいくつかの外交の舞台で誤訳によって生じた問題とその後のどう解釈されているかなどまた訳すという行為の持つ重要性についても書かれています。
 原爆投下はたった一語の誤訳が原因だったという説。ポツダム宣言が発表された時、当時の鈴木貫太郎首相は記者会見で黙殺という言葉を使ってしまいました。それがリジェクトー拒否と訳されてしまったそうです。黙殺とはどう訳すべきだったのでしょうか。rejectなのか ignoreなのか。確かに違うように感じます。もっとも後にignoreとした日本側の訳を連合国側がrejectと解釈して書き換えたとされているそうですが・・・。今ならやはりノーコメントと訳すでしょうか?・・それぞれの国の文化と言葉の関係、そして当時の国際力学を考えるとなんとも言い難いところです。
 日本語の熟語、比喩表現その他ちょっとしたニュアンスを公式の場で伝えるのは本当に大変だと思います。2国の文化を熟知していなければならないからです。
 また訳すという作業そのものは同じですが、通訳と翻訳との性格の違いについての説明もわかりやすく書かれています。

 話は横道にそれますが、鳥飼さんが通訳としてテレビなどに出演されていたころ、私はまだ子供で英語もよくわかりませんでした。今聞いたばかりの私の知らない言語をあっという間にわかりやすい日本語に訳されている姿にあこがれていました。
 書店でこの本を手に取って見た途端、通訳をされていた頃の鳥飼さんのことを思い出して急に読んでみたくなりました。
 
 私は翻訳や通訳を職業にしたことはありません。(未だに英語以外の外国語はドイツ語と中国語の挨拶文程度を少し覚えただけで、ほとんど読み書きコミュニケーションは不能に近い状況です。)とりあえず数々の失敗を重ねながらも(ホントに私達の世代の学校教育の英語は役立たずで最悪だと思いましたが・・・)何とか理解可能になった英語(まだまだわからないことだらけですが・・)では、ごく身近な身内や知人・友人の為に、英文の手紙や記事を訳したり、観光のお付き合いなどで、日本語から英語へ、英語から日本語へ訳したりする作業を随分経験しました。でもあとで間違いに気づくとしばらくの間なんとなく気分が晴れません。

 最近はテレビや講演会などの通訳の間違いに気づくこともしばしばありますが、この作業が如何に大変かを考えるとまあそう解釈しても問題ないかなと思って大抵は気にしないことにしています。でも、たまには「それは違う。ちょっとまずいかも・・」と思うことも・・・。またCEOが外国人の場合の外資系企業の株主総会では通訳が、わざとなのか?些細なことだからなのか?難しいからなのか?省略してすべてを訳していないと感じることもあります。 

 この本には故意の誤訳や通訳者の倫理についても書かれています。そしてまた訳す以前の発信者の言語の文章そのものに間違いがある場合もあるわけです。これでは自動翻訳機では訳せません。それを組みとって伝えたい人の意志を通訳するのは人間だから出来る技だということも印象的でした。


 
 

 

 

博士の愛した数式  小川洋子著

2007年07月05日 | 小説
 先日、友人の一人に「何か面白い本ない?」と聞かれて、(彼女はフィクション派だったので)「もしまだ読んでなかったら、博士の愛した数式かな」と答えました。そして家に帰って久しぶりに読み返して見ました。

 この本を最初に読んだのはもう1年半位前のことです。題名にちょっと魅かれて手にとって見ました。最後の方を開くと解説文を書かれたのは藤原正彦先生でした。小川洋子さんがこの小説を書かれる前に藤原正彦先生のところへ取材に行かれたことを知ってもっと興味を持ちました。以前このブログの記事にも書いた藤原正彦先生の「国家の品格」は当時出版されていたかどうか覚えていませんが・・。私はこの小説の方を先に読みました。しばらくすると本屋の文庫や新書の新刊コーナーには藤原先生の本が次々並んでちょっと驚きました。

 さて、話をもとに戻します。この小説の何だか少しロマンチックなイメージの題名と、文学と数学の組み合わせに興味を持ちました。設定からすると現実にありそうでやはり絶対にありえないという感じもしないではないのですが・・。数式がファンタスチックなイメージを膨らませ、ちょっと切なくもあり、また、ふと心温まるような展開です。

 当時映画化もされていました。映画の評判もいいようですが、寺尾聡さんの博士役のイメージが私が小川洋子さんの文章から受けた博士のイメージと随分と違っていたので、(寺尾さんは素敵な俳優だと思いますが・・)本のイメージをしばらく温めていたくて映画はまだ見ていません。何しろこの小説の最初の方の説明に「64歳の元大学教師・・・、ひどい猫背のために160cmほどしかない身長がますます小さく見え・・」とあったとので以後ずっとこのイメージを持ち続けてしまったものですから。寺尾さんの博士役はちょっとかっこ良すぎるのではと思ってしまって・・・。

 博士は数学の博士号を持っていますが、47歳の時に巻き込まれた交通事故のために脳にダメージを受けて記憶が1975年で停止し、以後80分しか新しい記憶を留めておくことができなくなってしまったという人です。物語は、博士に√(ルート)というニックネームを付けられた少年の母(語り手の私)が家政婦として雇われていくところから展開します。

シングルマザーで家政婦である語り手の私は息子を連れて博士の家に通うようになります。

新しい家政婦さん その息子10歳 √
 
記憶しておくことが出来ない博士は自分の体に貼り付けているメモに書き加えます。

 日頃、ご無沙汰している数学も 小説の中は中学生にも充分理解できる範囲なので気楽に楽しみながら読むことができます。
素数は美しいという博士。余談ですが十代の頃私は素数が嫌いでした。受験番号が素数でないことを念じてから、送られてきた受験票の封筒を開けたものでした。割り切れる方が何だかすっきり合格するような錯覚に見舞われていたからです。でも、これを読むと単純にも素数に個性を感じたりしてしまいます。

 数々のハプニングに見舞われながら、切なくも微笑ましくもある三人。最後は思いがけず博士の過去も知ってしまう語り手の私と博士と√の三人の間で出来上がっていく三角形のイメージが次第に広がっていきました。