いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

わたしを離さないで  カズオ・イシグロ 著  土屋政雄 訳

2010年11月11日 | 小説
現実のことではないはずなのにとても考えさせられる小説でした。

日本生まれの英国籍作家カズオ・イシグロ氏のことはアマゾンで他の本を検索した時、お薦めの本の中にあって、偶然知りました。以後、機会があれば一度読んでみようと思っていましたが、これが朝日新聞ゼロ年代の50冊に選出され、解説よりも先に日本語版の表紙の絵が最初に目にとまりました。「無機質なカセットテープ」・・・イシグロ氏は私と同じ世代です。インターネットも携帯電話もなかった時代、ラジカセやウォークマンが登場して、レコードに変わり持ち運びに便利な機器として、大流行しました。しかし、今となっては、我が家のどこかにわずか数本眠っているだけとなってしまった懐かしいものです。それも本当に音がでるかどうか・・・。

それはともかく、この表紙のカセットテープの絵に魅かれた私はこれがこの物語のどんな部分に関係しているかも全くわからないまま、解説の中のクローンという言葉を目にした途端、怖いもの見たさの好奇心にも誘われ、思わず購入を決めました。映画化もされたそうで、日本では来年上映の予定だそうです。唯、映画となるとイメージがどうかなあ・・という感じでもありますが・・・。


さて、この日本語訳はたいへん読みやすく、すぐに読んでしまいましたが、その後どうしても原文も読みたくなって英語版も購入しました。アマゾンなどで英語版も簡単に購入できますし、英文も難しい表現が少ないので、英語に抵抗のない方にはこちらもお薦めです。

この物語の主人公キャシー(Kathy)はクローン人間です。親友のトミー(Tommy)とルース(Ruth)も同じで彼らはヘールシャム(Hailsham)という施設で育ちました。物語はキャシーの回想によって始まります。それはあまりにもどこにでもいそうな普通の子供たちの話なのですが、彼らの運命は最初から決められていて、子供を持つことはできないばかりか、年老いるまで生きることはありません。一人ひとりが提供という使命を担い、それを果たすと終わりで、その先はありません。たとえクローン人間であっても、一人の人間としてのこころは普通の人間と同じで喜びや哀しみの感情も同じです。

ここでは敢えて詳細は書きませんが、カセットテープの話も切なさを誘います。

現在の科学はこうした人間を作り出すことが可能なところまで進歩したということのなのですが、現実には倫理的にクローン人間の研究は禁止されているものと信じています。

ただ、これがもしも・・・と考えるとまさに不気味な話です。
体外受精のベビー第一号がこの世に誕生したのが1979年、その後代理母による出産なども可能になりました。わが国では代理母は禁止されていますが、それを認めている国もあります。

クローン羊の誕生は90年代だったでしょうか。
遺伝子が解明されて、遺伝子組み換えの植物などは各地で栽培され飼料などに使われるようになりました。遺伝子組み換え人間は倫理上、禁止されていますが、もし登場したらこれもたいへんなことになるでしょう。

こうした時代背景は、私の人生に重なるところがあるだけに、この小説は臨場感があります。
そして、最後は悲しい余韻が残ります。

人生とは何か。
科学とは何か。
人間が平等であるとはどういうことなのか。

この小説は人間の重い課題を暗示していると思いました。

富嶽百景 太宰治 著

2010年11月01日 | 小説
砂上の楼閣をつくるような先の見えない忙しさに読書もうつろな日々でしたが、先日久しぶりに我が家に戻って部屋を片付けているうちに数年前に購入したニンテンドーのDSが出てきました。今年2010年は本の革命の年と言われ、アマゾンの「Kindle」や アップルのタブレットPC「iPad」など電子書籍のブームが到来しました。去年までの私なら、かなり簡単に飛びついたかもしれないと思いましたが・・・。今年は、そんな電子書籍による読書を楽しめる時間がちょっと・・・。というわけで、店頭でほんの少しお試しをしただけで終わってしまいました。

久しぶりに手にしたDSを充電してみると「あら、まだちゃんと動くじゃないの!」
文学全集はたった百冊だけど今の私には充分!昔読んだ本だって内容はかなり忘れてるし・・・。

というわけで何気なくこの太宰治の「富嶽百景」を選んで読み始めました。

最初にこれを読んだのは十代の半ばころでした。今から〇十年前、当時の私は青森県北津軽郡金木村(現在の青森県五所川原市)の太宰治の生家「斜陽館」を見に行ったり、太宰治の小説の背景となった土地をあちこち訪ねたりするほどの太宰ファンでしたが、これはそれほど好きな小説とはいえませんでした。今読み返しても、何かとても健康的な文章で、人間失格や斜陽に見られる太宰治独特の純粋無垢な若者の心をえぐるような鋭さは感じられません。でもそれは逆に今の疲れきった私が読み返すのにちょうどいいような癒し系の題材であるように思われました。結婚も決め、太宰がもっとも健全だと、周りから見てもそう思われていた時期の作品なので、安定感があるとでもいうのでしょうか。

私の故郷は晴れた日には富士山を眺めることができるところですから、富士と聞くと自然に懐かしさを感じます。特に海外生活をしていた頃はテレビや写真の前に釘付けになったこともありました。姿はもちろん美しいと思いますが、高さも日本一で皆が注目する山ですから初冠雪だなんだかんだですぐマスコミにも登場します。テレビの画面に富士山が登場して、レポーターが「ほら、こんなにきれいです。」とかなんとか言ったりして・・・・。そうなるともう太宰の富嶽百景くらいの捉え方の富士がちょうどいいなんて思い始めたりします。

今や太宰治の名言ともなった「富士には月見草がよく似合う」の月見草は本当は待宵草だとかいろいろ言われているようですが、私はそんなことはどうでもいいかなと思います。

太宰は御坂峠からの富士について「あまりにおあつらえむきの富士である」「まるで、風呂屋のペンキ画だ」「どうにも註文どほりの景色で、私は恥ずかしくてならなかった」という評価していますがそれも受け流しながら、「『月見草!』と指さした老婆」と「富士山と立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすくっと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合ふ」という表現も「ふうん、そんなんだ!」という感じで素直に受け止めながら一気に読み進めてしまいました。

そんな風にじっくりと富士を鑑賞する時間が欲しいなあ・・・。

人には邪魔されずに自分で納得しながら美しいと感じられる景色を眺める時間も時には持ちたいものです。



さて、これはちょっと蛇足ですが、この作品は約70年前に書かれたのもので、当時の完全な口語体に近い形で書かれています。今は死後になりつつある当時使われていた言葉が何箇所か出てくるのでこの作品が書かれてから30年後、40年後に読んだ時には気づかなかった日本語の変遷とでもいうのでしょうか。70年の時の流れが感じられ、その点もとても興味深かったです。