いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

グレート・ギャツビー  スコット・フィッツジェラルド著  村上春樹 訳

2013年10月29日 | 小説
村上春樹氏訳の「グレート・ギャツビー」を読みました。映画も上映されているとのことでしたがまず原作を読んでみようと思ったからです。読み終えてみると、村上氏の訳が昔の小説なのにとても現代風な言葉遣いで読みやすいからか、フィッツジェラルド氏の原作の文章力がすぐれているのか(原文を読んでいないのでわかりませんが)、たぶん両方だと思いますが、情景や心理描写の表現力の巧みさに魅せられました。そのうち映画を見ることがあるかもしれませんが、しばらくの間は小説のイメージを大事にしておこうかなという気持ちになりました。

さて、この小説の舞台は1922年のニューヨーク、ロングアイランドです。ウエストエッグとイーストエッグという架空の地名が出てきます。イーストエッグはスコット・フィッツジェラルド氏自身が住んでいたこともある高級住宅地グレートネックがモデルのようです。

物語はニック・キャラウェイという中西部出身の29歳(途中で30歳になる)の青年の語りで展開します。ニックは大学卒業後第一次世界大戦に参戦し、終戦後しばらくしてから証券関係の仕事に就くためにニューヨークへやってきます。

ジェイ・ギャツビーはニックがウエストエッグに借りた家の隣人です。第一次世界大戦で活躍し、終戦後は無一文から富を築き、広大な敷地に建つ豪邸に住んでいました。

そして小さな湾を隔てた対岸にイーストエッグがありニックの大学時代の知り合いのトムとその妻デイジー(ニックの遠い親戚)が住んでいました。

ギャツビー、トムとデイジー、ニックとゴルファーのジョーダン・ベイカー、トムの愛人のマートル・ウィルソンとその夫を中心に展開する日々の生活の歯車が、ある日実に驚くべきタイミングではずれてしまいます。そして、実にあっけなくすべては終わります。

ギャツビーは当時アメリカで施行されていた禁酒法など無縁であるかのごとく、派手なパーティを繰り返し、彼の邸宅には毎回大勢の人々が押し寄せていました。そんなギャツビーでしたが実はとても純粋でひとつの夢を膨らませていました。デイジーを愛していたのです。

この小説の中心人物のように当時のニューヨークで車を所有したり、使用人を雇ったりできる裕福な暮らしが可能な人々がどのくらいの割合だったのかわかりませんが、華麗な暮らしを思い起こさせるアメリカンドリームの象徴的なイメージは人々を魅了します。
但し、登場人物はそれぞれかなり自己中心的です。

デイジーとギャツビーは、かつては恋人同士でしたが戦争(と社会的階級・・・つまりデイジーが上流階級の娘だという事実)が二人を引き裂きます。歳月は流れ、デイジーは富裕階級のトムと結婚します。やがて富を手に入れたギャツビーはデイジーの家の対岸の豪邸に住み、デイジーを迎える夢を膨らませます。ニックの助けを借りてデイジーに再会したギャツビーは、デイジーに長年の思いを伝えます。ある日、ギャツビーはトムの前でデイジーに自分の元へ来るように迫ります。驚くデイジーでしたが、トムとの間に娘まで生まれた今、トムとの結婚を解消してまでギャツビーのもとへ走ることには気持ちが揺れ動くばかりで決断はできません。一方のトムも愛人マートルがいながら、愛しているのはデイジーだと言います。

あとは見事というべき偶然を組み立てた作者に感心するばかりです。

デイジーがギャツビーの車を運転しているときに、突然飛び出してきたトムの愛人マートルをはね、即死させてしまいます。翌日、ギャツビーはマートルの夫に射殺されました。トムとデイジーは当日のうちに仲直りし、ギャツビーの結末を知らずに旅に出てしまいます。マートルの夫は妻を引き殺したのも妻の愛人もギャツビーと決めつけていました。
世間ではこれで事件は解決したことになります。

真相を知るニックはトムとデイジーの二人のことを思慮を欠いた人間と批判します。
亡くなったギャツビーに最後まで付き添って世話をした友人はニックだけで他の人々はまるで手のひらを返したように遠ざかってしまいました。そして最後にニックは、彼と同様に事件の真実の多くを知っていると思われるジョーダン・ベイカーにも別れを告げ、ニューヨークを離れます。

非情のようにも思えますが、ここでミスベイカーが人間的に成長するか堕落するかの岐路に立たされているということを感じます。彼女もプライドが高くわがままな娘ですがここでは他の登場人物を引き立たせる役割を果たした人物の一人と考えます。

さて、ここで若い読者だったら、デイジーとトムのことをどう思うのでしょうか?彼らはたいへんにしたたかです。ギャツビーを食い物にした張本人たちです。
彼らが引き起こした混乱の後始末をニックたちにさせて逃げたのは確かなのですが、第3者から見て彼らがどんなにずるくても、彼らにとって最良の方法を即座にやってのけたというのがポイントです。
私はデイジーのような女性は苦手ですが、感心はします。最も有利な生き方を選ぶ能力はすごいです。自分の心に正直な生き方をしようとしたらこんな早業は普通はできないでしょう。
逆にいえば人間とは多少ずるくなければ裕福な生活を維持することは難しいってことでしょうか?純粋で思いやりの深い人ほどお金はたまりにくく出来ているのが世の中なのかもしれませんからね。

ギャツビーの心はまっすぐでしたが、短期間に大金を得た方法についてはあまりはっきりしません。悪徳的部分も匂わせています。

ニックは律儀だと思います。はかなくも打ち砕かれたギャツビーの夢の跡には訪れる人もなく、伸び放題になった庭の芝生を見てニューヨークをあとにします。

徒に分けつる道の厳しさよ 夢も命も散りにけるかな
                    (ニックの気持ちを思って・・・糸遊)

ニューヨークに限らず大都会というのは昔も今も人々の夢と涙とそして命をも無情に運命の渦の中に吸い込む大きな力を備えているのかもしれません。そこには醜い塵芥を巻き込んだ広大な渦がありその渦の中を器用にすり抜けた者だけが富と名声を得られるのでしょうか?それは21世紀になった今も変わらないような気がします。

小さいおうち   中島京子 著

2013年10月01日 | 小説
「年齢を重ねると一年が短く感じられるようになる」と年配の方からよく伺いますが、私も最近そう感じるようになりました。とりわけ暑かった今年の夏も今となっては駆け足で通り過ぎてしまったような気がします。

さて、今回は中島京子さんの「小さいおうち」です。久しぶりにふらっと立ち寄った書店で目に留まったのは、ファンタスティックな絵とオレンジ色の表紙、そして帯に山田洋次監督映画化決定の文字、・・・急に読んでみたくなりました。

時代は昭和の初めです。今なら家政婦さんというのでしょうか。当時は住み込みの女中さんを雇っている家も多かったようです。山形から上京して女中奉公に出たタキさんは若くて美しい奥様に仕えます。この奥様が再婚した時、タキさんもいっしょに新しい旦那さまのもとへついていきました。物語はタキさんの回想録という形で展開します。

時代はやがて戦争へと向かっていくのですが、庶民の(といってもちょっと裕福な)人々の暮しは戦争末期を除いてのんびりした印象です。

奥様のちょっとした恋愛事件をきっかけにタキさんの女中としての真価が問われる訳ですが、解はあるような、ないような・・・最後の場面の展開が絶妙です。

表紙の帯の反対側に「読み終えた時、きっと誰かと語り合いたくなる」とありました。その言葉通り、今回私が最初にこの本の話をしたのは同世代の友人ではなく義母でした。

主人公のタキさんは私の義母や今は亡き実母よりほんの少し年上のようですが、同じ世代です。義母は女中さんが何人もいるようなかなり裕福な家庭に育ちました。そしていちばん年齢の近い(若い)ねえやと仲良くしていたそうです。そのねえやは広島の人で戦争が始まってから故郷へ帰り、しばらく文通をしていたそうですが、終戦後は音信不通になってしまったので、おそらく原爆の犠牲になったのではないかということでした。

戦前は女中さんを雇っているうちが多かったようです。私が子供のころ(昭和30~40年代)までは近所に女中さんのいる家庭もあったような気がします。そのころはお手伝いさんと呼ばれていましたが、家事手伝いは花嫁修業のうちみたいな感じで工場などに就職せずにお手伝いさんになる人もありました。義母は、「女中さんには能力が必要で、良い女中さんに出会うことはその家にとって幸運なことだった」とも言っていました。

タキさんが最初に奉公した小説家の先生から聞いたイギリスの女中の寓話がこの物語の展開のポイントでもあります。

また、先月2020年の東京オリンピック開催が決まった後、義母とオリンピックの話をしました。義母が思わず「東京オリンピックが決まったの、ホントはこれで3回目ね」と言って、1940年(昭和15年)に開催が決まっていながら戦争の為、実現しなかった話を始めました。

実はこのタキさんの回想録にもまぼろしの東京オリンピックの話が出てきます。
東京オリンピックが決まった時の当時の様子は義母とタキさんの話が重なる部分が多く、ちょっと微笑ましくもありました。

この話には何とも言えないぬくもりが感じられます。それはちょっと切ないながらもなんとなくほっとするような読後感でもありました。

そして義母も早速この本を読み始めたそうです。