いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

花芯 瀬戸内寂聴 著

2010年03月30日 | 小説
これは学生時代からの長いお付き合いの友人Bさんのお薦めの小説のひとつでした。先日、自由が丘の古本屋で偶然見つけたので、早速購入、帰宅してから読みました。

その後、Bさんと再会したとき、すぐこの本の話をしました。



私 「寂聴さんの『花芯』、読んだわよ。もう50年位前、寂聴さんはこの小説で一時文壇から干されてしまったそうだけど、どこがだめなのか全然わからない。そういえば津村節子さんも瀬戸内さんの『花芯』は少しも変なところはないって書いていたような気がする。」

Bさん「そうでしょう!私も同じ意見よ。少しも変なところなんてないと思うけど・・・。男にだらしのない女の話だからかなあ?子宮って言葉は確かにたくさん出てくるけど・・・」

私 「谷崎潤一郎の『痴人の愛』読んだでしょ?あれだって主人公の妻はひどく男にだらしがなくて、たいへんな女なんだけど、男性の視点で書かれたあの小説はよくて、瀬戸内さんのが駄目って変ね。」

Bさん「女が書いたからね。当時はまだタブーだったのかしらねえ~。時代を感じるわねえ~。今ならもっと表現がどぎついのも芥川賞だってとってるじゃん!」

私「時代背景が私の親よりちょっと上くらいの人の話でしょう。日本中がまだ貧しかった戦後まもなくのわりには物質的には普通よりずっと豊かな感じの人々が登場して、心がズタズタになっていく様子が切ない感じね。でも構成や発想がすごい!」

Bさん「そうね!さすが寂聴さん!うまいわよねえ! でも、ホントはね、わたし、最初にこれを読んだ時は若かったからびっくりしたわよ。だって、寂聴さんって、子供を婚家に残して、離婚して作家になって有名になって、それから中年になったら突然出家しちゃって・・・。ちょうどそのころだったから」

私 「ふうん。そうなんだ!わたしは、寂聴さんの出家は知ってたけどプライベートな部分は知らなかったの。帰国してしばらくしてからかな。婦人雑誌か何かで読んだ気がする。たぶん源氏物語の訳本を出版したころね。若い頃、小説は少し読んだけどね。」

Bさん「でも、これは私小説じゃないんだって。当時みんなに私小説だって言われて憤慨したって寂聴さん誰かとの対談で言ってた。」

私 「津村さんの小説だってそうみたいだけど私小説と言ったって現実のある部分がヒントになってるだけでホントのことを書いているわけじゃないでしょ。」

Bさん「まあそうだけど、小説家の恋人や夫や妻はたいへんね。どっかで必ず材料にされちゃうね。有名な作家になればなるほど恋人や家族もたいへんってわけね。」



という雰囲気でBさんとの会話はしばらく続いたわけですが、若いときの恋愛やその他のいろいろな人間関係を振り返る年齢になった私からみると、これは決して艶かしいとかどぎついというのではなく、どこか物寂しい人生の警告めいたものが含まれているような感じさえ受けました。


玩具  津村節子 著

2010年03月26日 | 小説
前回の記事に書いた去年の芥川賞の受賞作「終の住処」を読んでから過去の芥川賞の受賞作をいくつか読んでみました。その中でちょっと印象に残ったのが、1965年度の上半期の受賞作津村節子氏の「玩具」です。多分以前に読んだことがあるような気もしましたが、短編なので内容も忘れていました。

改めて読み返してみると時代の流れを感じました。

今からちょうど45年前の作品です。作家志望の我儘な夫志郎に翻弄されながらも必死で生きていく妻春子の妊娠中、出産の直前までの心理状態が描かれています。

はっきり言って「何これ? りっぱなDVの夫じゃないの?!」今の時代ならそうとれなくもないような内容もありますが、短編なのでまるでテレビドラマを見ているかのように私は引きつけられました。

時代背景は、昭和30年頃、戦争をくぐり抜け、戦後の混乱の中で生き抜いてきた人々が新しい時代の家庭を築こうとしている時期でした。

主人公春子の夫は作家志望という特殊性はありますが、実は変わっているようだけどけっこうに巷にあふれていたような感じもする夫でもあります。核家族の大黒柱としての威厳は若い夫には重荷なのかと思わせるような、家庭を息抜きの場のように我儘に振舞う夫に妻はひたすら耐えて、家庭を守るために自分自身の精神をコントールする工夫をしていることが感じられます。私の母の世代の女性たちの若き日の葛藤を見るような思いでもありますが私たちや若い人たちの世代も本質的にあまり変わってない部分も多いような気もします。

唯、「瑠璃色の石」や「重い歳月」など津村節子氏の他の作品を読んだことのある私としては
「ああこれも私小説のジャンル」なのかなということが感じられますが、主人公「春子」は、中でももっとも「かわいい女性」のようにも感じられます。

かわいい女性と言うのは男性から見てという意味です。

確かにその後の芥川賞の受賞作品の中に登場する女性像は(男性像もですが・・・)確実に変化していっているような気がします。

つまり、男性から見たら、あまりかわいくない?女性へ・・・。

生活に優先順位をつけて自分を大切にする現代の風潮が小説やドラマの世界にも確実に広がっていっているような気もします。


何だか、「玩具」は同じ「夫婦」とか「家庭」を軸にしていながら前回の磯崎憲一郎氏の「終の住処」の対極にあるような印象すら受けます。磯崎氏の方は男性の視点から描いたものですが、この主人公の妻と女性の視点から描いた津村氏の「玩具」の春子に半世紀近い歳月・・つまり2世代近い時代の変化を感じました。

妻だけでなく夫の振舞い方にもです。

でも本質的には変わっていないかもしれない人間の(夫も妻の方も両者の)我儘さがどちらの小説にも実にさりげなく描かれていて、時々約半世紀の歳月がふっとなくなるような感じになる部分もあって、そのあたりが興味深く、でもちょっと複雑な気持ちになりながら読みました。


所詮人間はどんな葛藤があろうと人と関わらなくては生きてはいけないのですから・・・。

家族はその第一歩ということを感じます。


終の住処   磯崎憲一郎 著

2010年03月18日 | 小説
去年上半期の芥川賞の受賞作です。

新聞の報道を見たとき、題名からくるイメージと受賞者磯崎氏のまだ四十代という年齢にちょっと違和感を感じましたがそのうち機会があったら読んでみようかなくらいの印象でしばらく忘れていました。

先日実家へ行った時リビングルームの片隅に積み重ねられた雑誌の中の去年の文芸春秋9月号の芥川賞発表の文字が目に止まりました。手にとって見ていると「もういらないから、持って帰っていいよ。」と言う父の声。

ママレードを作ろうと庭の夏みかんを獲って詰めた大きな布袋に無造作に文芸春秋を放り込んで持ち帰って読みました。

さて、本題に入ります。

はっきり言って、「この主人公にはついていけない。」これが第一印象です。なんだか空恐ろしいような・・・。最初から半ばあきらめたような結婚、11年間も妻と口をきかない男、ただ心の隙間を埋めるためだけのような(でもなんとなく虚ろな)浮気、何かを悟ったかもしれないけれどかなり開き直った和解・・・。それからちょっとマザコン。

主人公は見かけも格好いいエリートサラリーマンなのだろうということが想像できます。そしてたぶん一見女性にも優しい・・・。でも思い込みも激しい自信過剰な淋しい男。


唯、現実にもそんな主人公に近い人間はたくさんいるのかなあと考えてしまいます。彼の妻にも同情できません。


「優しい男はちょっと不格好な奴くらいの方が信用できるよ。格好いい男は特に要注意ね。けっこう自信過剰だから・・・。正直な人間かどうかしっかり見なさい。」

そういえば、ずっと昔、私がまだ結婚する前、こんなことを言ったおばちゃんがいましたっけ・・・。今の私は、若い女性たちにこんなこといえるかなあ・・・。

次第に私はこの小説の中で唯一感情移入できる人物は、ひょっとすると主人公の母親かもしれないと思うようになってきました。手の届かなくなったニヒルな息子を遠くからいつも心配している母・・・。

最後は妻のもとに帰っていく主人公ですが、「えっ?それだけ?」という形で終わります。
そして最初から夫に何も期待していなかったかとっくに諦めきって生きてきた妻の姿を思い、思わず苦笑してしまいました。

夫婦なんて多かれ少なかれギクシャクしたところはあるでしょうけれど確かに歳月の重みは大きいかもしれません。


でも、ねえ~。ちょっとギクシャクした余韻の残る小説でした。

納棺夫日記  青木新門 著

2010年03月09日 | その他
先日、去年話題になった映画「おくりびと」を見ました。二度目です。最初に見た時、率直に「いい映画だなあ」と思ったので、もう一度見たくなり、DVDで見ました。何だか急に原作も読んでみたくなり早速購入して読みました。映画とずいぶん雰囲気は違いますが、ここしばらく、「忙しい!」を連発し、バタバタと動き回っていた私には、とても静かな気持ちに導かれるような貴重な読書の時間となりました。

これは、去年、アカデミー賞の外国語映画賞を受賞して話題になった映画「おくりびと」の原作と言われています。(但し、『ウィキペディア(Wikipedia)』には、「1996年、本木雅弘が『納棺夫日記』を読んで感銘を受け、青木の自宅を訪問し、一旦は本木を主演とすることを条件に映画化を許可するものの、映画の脚本の結末が小説と異なることを理由に、映画の原作とすることを拒否する。映画『おくりびと』は、青木の意向により『納棺夫日記』を原作として製作していない。」とあります。)

「納棺夫」とは、永らく冠婚葬祭会社で死者を棺に納める仕事に従事した著者の造語なのだそうです。

第一章を読み始めるとすぐにこの本の主題とは直接関係ありませんが、私の好きな作家の一人「吉村昭」氏と妻の「津村節子」氏の名前が出てきます。これもまた何かもう一つ別の発見をしたような気持ちになりながら読み進めていきました。何故なら、青木氏は、吉村夫妻の一言で小説家を志望したことで、結果的には、納棺の仕事へ導かれる道を作ることになってしまったかもしれないからです。

喫茶店を経営する傍ら小説家を目指していた青木氏は、店の経営に失敗し、大きな負債をかかえます。我が子の為に、生きていくために 湯灌、納棺の仕事に携わることになった青木氏はやがて周囲の偏見や差別に見舞われます。

(映画ではモックンが演じるオーケストラのチェロ奏者が運営資金に困ったオーナーから、オーケストラ解散を言い渡され失職し、納棺の仕事に就くところからストーリーが展開します。)

葬儀社から呼ばれると集まった死者の家族と親族の前で、死んだ人に化粧をし、絹の白帷子を着せて棺に納める仕事・・・。妻にまでけがらわしいと叫ばれてしまいます。

この本では古代から日本に根付くハレやケガレについての考え方が、丁寧に説明されています。そしてやがて厳かな人間の生と死の根源へ導かれていくような気がします。

偏見から尊敬へ・・・

第三章の「ひかりといのち」の不思議な光については、印象的です。

率直に言って余計な修飾語を並べるより、第一印象はひと言「きれいな文章だなあ。」と思いました。それは決して汚いことが書いてないとか、きれいごとばかり並べてあるとかそういうものではありません。

死者を見つめながら生を見つめていくといつもは忘れているとても大切なものが見えてくるような・・・。

もう二十年以上前のことですが、母が亡くなった時、私は棺に納められた母に最後の口紅をさしました。癌の苦しみから開放された母は何だかとても穏やかな顔をしていました。

この世に生きる私たちにとって、近い親族の死は、痛切です。


時空を超えてずうっと昔の大切な忘れ物を取り返しにいくいような・・・。とても静かな余韻が広がる読後感でした。










半島へ、ふたたび  蓮池薫 著

2010年03月05日 | その他
先日、友人のひとりYさんが「今、これ読んでるの」と言ってこの本を見せてくれました。

その後、前回の記事に書いた「孤将」をアマゾンで購入した私のもとへアマゾンからこの本のお薦めメールが来て、Yさんのことを思い出しました。そこで早速、この本と蓮池さんが訳された「私たちの幸せな時間」「ハル 哲学する犬」などを続けて読みました。

蓮池さんの文章はとてもわかりやすく読みやすかったです。

蓮池 薫氏は1957年生まれで、1978年7月31日、中央大学法学部3年在学中に当時交際していた女性とともに、新潟県柏崎市の海岸で北朝鮮工作員に拉致され、24年間、北朝鮮での生活を余儀なくされた方です。2002年10月15日帰国後、新潟産業大学で韓国語の非常勤講師・嘱託職員として勤務するかたわら、中央大学に復学し、2005年に『孤将』で翻訳家としてデビュー。その後次々に訳本を出版しながら大学も卒業。現在は、新潟産業大学国際センター特任講師。新潟産業大学専任講師をされながら翻訳活動をされているそうです。


24年間の北朝鮮での過酷な生活の記述はそれほど多くはありませんが、たいへんな苦労をされていたことが感じられます。また蓮池さんの置かれた環境に対する柔軟性と力強さのようなものが伝わってきます。

前半の第一部は韓国旅行が中心で、後半の第二部は翻訳の仕事につくまでの道のりとその後、これからへの模索です。

第一部の後半の「韓国と北朝鮮が、古朝鮮、三国時代から継承されてきた同じ伝統文化の根を持つ、一つの民族であることも改めて認識した。」という文章が印象的でした。

今から10年以上前ですが私自身がソウルへ行ったときのことも思い出しながら、興味深く読みました。ツアーではなかったので、出発前のにわか勉強とは言え、ハングルもかなり勉強していったつもりでしたが、ソウルの街を歩き始めると中国と違って看板は本当にハングル文字ばかり、せっかく来たバスの行き先を読んでいるうちにバスが行ってしまうようなありさまで、かなりの珍道中・・・。反日感情を感じることはなく、人々は観光客の私には親切でした。そして「街並みも人々の雰囲気も中国よりもずっと日本に似ている!」・・・そんな印象でした。
日韓の歴史的背景を思えば、複雑な気持ちにもなりますが、「ああやはりお隣の国なんだ!」というのが実感でした。

サッカーの日韓のW杯共同開催や「冬のソナタ」などから始まった日本の韓流ブーム、さらにインターネットの充実などで韓国の情報もずいぶん身近になりました。でも南北の問題やまだ解決しない拉致問題などを考えると複雑です。


さて、第二部は翻訳家蓮池薫氏誕生のエピソードとその後ですが、最終ページの「北朝鮮に奪われた24年を取り戻すために」に凝縮された蓮池さんの想いがこめられているような気がしました。

そしてまた、私自身もいろいろな国へ行ってみた経験上、特に感じるのは、文化の違いは確かにあるけれど一人ひとりの人間については、民族や人種に違いがあるのではなく、どの国にもいろいろなタイプの人がいるということかなあと思います。

プライドも肩書きもすべて背景を取り去ってしまえば人間の心の本質的な感情に国境はないように思います。


最後に蓮池さん翻訳、孔枝泳さん作の「私たちの幸せな時間」は、とても感動的な話です。器用に生きることができなかった人間の悲しさが余韻となって残ります。そこには大きな問題提起が含まれていますが・・・。

幸せな時間・・・・・!? それは心の持ちようでも違ってくるでしょうけれど・・・。


24年間の北朝鮮での生活を余儀なくされた蓮池さんのこの「半島へふたたび」には本当にいろいろな想いが詰まっていることを改めて感じました。