いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

坊っちゃん  夏目漱石 著

2013年09月20日 | 小説
先日の台風18号は日本列島各地に大きな傷跡を残して去って行きました。今のところは秒単位の警報以外ほとんど予知が不可能な地震と違って、台風については強さや大きさ、雨雲の様子や進路の予測はかなりできるようになりました。でも、だからと言って災害を減らすことはできてもなくすことは困難なのが現実です。人間が自然に太刀打ちしようと考えても無駄だと天が嘲笑っているのでしょうか?

台風18号の後は晴天が続き、昨夜は中秋の名月、久しぶりに昨日と今日はつかの間の休息日なので、ゆっくりお月見をしました。

それから昨日になって、もう一つ思いだしたのは、子規忌、わずか34年の生涯で近代文学に大きな影響を残した明治を代表する文学者正岡子規の命日です。

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」・・・俳句というと芭蕉の「古池や・・」よりこの句がまず最初に浮かびます。多分俳句とは何かよくわからない小学生のころから誰かが口ずさんでいたのを覚えていたからかもしれません。後にわかったことですが、この子規の名句は、子規が病気で療養中に生活などの面倒をみたこともあるという東大予備門以来の親友夏目漱石の句「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の返礼として作られた句だそうです。

さて、前置きが長くなりましたが今回は 夏目漱石の「坊っちゃん」です。大変有名な小説です。「坊っちゃん」は漱石が子規の没後10年くらいしてから発表したものです。子規の訃報をロンドンへ留学中に知った漱石は自らも精神的な病と闘っている時でした。10年近い歳月を経て、子規への追悼の思いも込められて書かれた作品でもあると知り、急にまた読み返してみました。若い時には読んだ記憶がありましたが、それ以来じっくり読んだことはありませんでした。「坊っちゃん」は有名ですから、さまざまな折に小説に登場するエピソードを繰り返し聞いていた為、改めて読もうという気にはなれなかったからでしたが、幸いわが家の任天堂のDSを充電したらしっかり機能してくれたのでお月見の後は日本文学全集の中にあった「坊っちゃん」を読み始めました。そうしたら夜中までやめられなくなって一気に読んでしまいました。漱石の他の作品に比べたら物語も比較的単純で江戸っ子の坊っちゃんが松山の中学校で数学の教師として働いている間のわずか1ヶ月の間のことなのですが、文章の軽快さと面白さには敬服です。

今回改めて感じたのは坊っちゃんのべらめえ調の江戸言葉と「・・・な、もし」に代表される松山の方言が絶妙に組み込まれていて、登場人物の方言に興味をそそられることです。
聞くところによると正岡子規と同郷で俳句文芸誌「ほととぎす」を引き継いだ高浜虚子に「坊っちゃん」の中の松山弁を添削してもらったとか。
「坊っちゃん」は何回も映画化されたりドラマになったりしているようですが「坊っちゃん」の面白みは何と言っても漱石の文章表現にあると思います。

ところで、マドンナという単語ですが、坊っちゃんにも出てきますが、「わが淑女」という意味で、有名な言葉です。最近では「マドンナ」と聞くとアメリカのシンガーソングライターの「マドンナ」が浮かびますが、若いころは「坊っちゃん」で使われて有名になった言葉くらいに思っていました。でも実際に読んでみると「マドンナ」本人の影は薄く、赤シャツがうらなりの許嫁を奪おうと権力を笠にあれこれ駆使していることに坊っちゃんが一人腹を立てていることがわかります。
うらなりの本心は人が良すぎて最後までよくわかりません。

坊っちゃんにとって心の安らぎとなる女性は最初から最後まで「ばあや」の「清」なのがなんともいじらしく微笑ましくもあります。

ところで蛇足ですが、今これを書いているうちにもうひとつマドンナという言葉で浮かんでくるものがありました。映画「男はつらいよ」の寅さんです。全作品に毎回、マドンナ役が登場しましたね。この映画でも寅さんの口上で絶妙な江戸っ子言葉が登場します。寅さんの口上は主役の渥美清さんが戦後のアメ横周辺の闇市で働いていたころ覚えた言葉と聞いていますが、早口でまくしたてる江戸言葉の軽快さは見たり聞いたりしているものに小気味良さを感じさせてくれます。

坊っちゃんと寅さんを一緒にしたら漱石先生に失礼なのかもしれませんが、何だか全く違う背景なのに二人とも江戸っ子だし無鉄砲なところや義理人情に弱いところなど共通点がたくさんあるような気がしてきました。

 漱石を読みて夜更かす子規忌かな (糸遊)

ギフト   日明恩 著

2013年09月12日 | 小説
暑かった夏も終わり、あちこちで秋の気配を感じるようになりました。2020年の東京オリンピックの開催が決まり、何となく景気も上向きそうな期待が広がっています。原発事故の汚染水問題も心配は尽きないし、国家財政の債務残高の多さや巨大地震の危険など、何だか大丈夫かなあという懸念は払しょくできませんが、とりあえず、しばらくこの歓迎ムードを静観しようかなという気持ちになりました。

さて、今回は日明恩さんの「ギフト」です。普段ミステリーはあまり読まない私ですが、先月末、人生の大先輩として尊敬する古希を迎えたばかりの方のお一人からこの本の話を伺いました。表紙のイラストを見た時、若い人たちに人気がありそうな本のイメージだったので何となく違和感もあって少し驚いたのですが・・・数日後、その方とは全く面識のない友人が「日明さんのこの本、涙が止まらないくらい感動的!」と言って、成仏出来ずにこの世に留まっている幽霊の話を延々と始めたので、びっくり・・・。もしかしたらこれも何かの縁かもしれないと、急に興味が湧いてきて早速読んでみました。

非科学的なことは、原則、信じない(信じたくない?)私です。感情抜きで考えれば人間の死は60兆個の細胞の死、あらゆる生命体の死は細胞の死と割り切っています(本当は割りきろうと自分自身に言い聞かせているのかもしれません)。でも、現実には肉親の死や親しかった人々の死に直面してみるとそんな簡単な話ではすまされない割り切れなさがいつまでもつきまとうということを何度も体験してきました。

「ギフト」は死者が見えるという特殊な能力を持った少年と元刑事の話です。この本の中にも出てきますが以前「シックスセンス」という映画を見たことがあったので、作者もそこに大きなヒントがあったのかなと思わないでもなかったのですが、現実的ではない作り話と知りながら、軽快な文章にけっこう引き込まれてしまいます。ギフトの意味は最後まで読み進めると分かりますが私はこのストーリーそのものよりも、家族の絆、人間の切なさや物悲しさ、科学が発達したとはいえ、それだけでは割り切れない運命の糸のようなつながりや偶然性を考え直していました。

話は少し反れますが、死後も成仏できずにこの世にさまよっている幽霊の話は今までに何度か聞いたことがあります。でも幽霊と出会った人は少ないようです。幽霊を見たと主張する人には、幽霊を見た人と亡くなった人との関係が心の奥深くに無意識に絡み合っていて妄想や幻覚となって現れたからなのではないかという気がしています。ですから、深層心理学や超心理学の世界で物事を考えればまんざら嘘の話とは言い難い気がします。因果があるかないかは受け止められる人がどう考えるかで変わってくるのではないかということです。

ところで、人間は眠っている時、つまり意識レベルが低い時に夢を見ることがあります。私も亡くなった両親や祖母と夢の中で出会うことがあります。覚醒しているときはほとんど意識しなかったことが夢の中に登場して以来、急に落ち着かない気分になることもあります。

今から15年くらい前のことですが、朝方の浅い眠りの中で久しぶりに亡くなった母の夢を見ました。どんより曇った冬の日でした。その日の午前10時ころ私は近くのスーパーへ自転車に乗って買い物にいきました。その時、今まで一度も経験したことがないことが起きました。金属の自転車の鍵が折れたのです。スーパー近くの自転車屋で自転車の鍵を新しいのに付け替えてもらって、家に帰るとすぐ、実家から電話があり、父が脳梗塞で倒れたということでした。(幸いその時は2週間程で退院し、後遺症もわずかでしたが・・・。)

また、数年前、Mさんという親戚の人が亡くなった日の朝方、我が家の掛け時計が(壁の劣化で留め金がはずれたのですが)床に落ちて壊れました。Mさんが亡くなったという知らせを聞いたのは時計が落ちてまもなくしてからでしたがとても驚きました。

これらは本当に起きた話です。共時性とでもいうのでしょうか?
妹に話したところ、「それは単なる偶然にすぎない」と馬鹿にされましたが、私にはその他にも小さなことですが似たような関連性が思い当たることがいくつかあります。でも、普段の生活ではやはり妹の意見の方が正しいのだろうと思い、あまり深くは考えないようにしてきました。共時性にこだわるのは非科学的な気がするからです。

また、夢の世界では、現実では起こらないような恐怖や快楽の中に陥るようなこともあります。かかりつけの医師から認知症と診断を下されている義父は比較的しっかりしている時は家族の人々を認識することができて、話もできるのですが、周期的に、今日は何月何日なのか自分自身がどこにいるのかなどがはっきり分からなくなります。時々妄想という症状が出て、遠い昔の記憶の中の自分になりきっていることがあります。加齢による認知症や精神疾患による妄想や幻覚は家族にとっては大変な難しい対応に迫られる病状です。でも誰にでも起こりうるものであり、潜在意識の向こう側との出会いであるような気もします。

だからこそ読者の深層心理学的な潜在意識をちょっと刺激しながら、普通の人が見えない物が見えたり聞こえない物が聞こえたりする超能力を持った人間が苦しみながらもその超能力を駆使して事件を解決していく物語は、魅力的なのかもしれません。
この本が幅広い世代に受け入れられる理由はたぶん随所にちりばめられた登場人物たちの思いやりに心を打たれるからかもしれません。