いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

指揮官たちの特攻  城山三郎 著

2012年02月21日 | 小説
再び久しぶりの更新となってしまいました。この冬は全国各地で厳しい寒さが長く続きましたが、二月もあとわずか、ようやく時折春らしい陽射しを感じるようになりました。
さて、今回の記事は、城山三郎氏の「指揮官たちの特攻」です。
話は横道に反れますが、今年は日本の敗戦から67年目になります。戦争を体験した世代がずいぶん少なくなりました。私は戦争を知らない世代です。日本全体が敗戦後のまだ貧しかった時代から高度成長の時代へと変化していく中で、子供時代を過ごしました。幼いころ、両親や叔父叔母たちから戦争体験を聞きながら成長しました。でもそのころは空襲の話が多く、戦場の悲劇や軍隊の様子など、また何故戦争になったのかなどの歴史的背景を知ることになったのはずっと後になってからのことです。実は、当時戦場へ送られて生還した私の父も年明け早々亡くなりました。

先日、父の遺品の中に、父が復員後すぐに書いたと思われる回顧録や出征直前と復員直後の日記を見つけました。初めてそれを目にした私は、終戦の年19歳だった父の目に映った軍隊や戦地の記録を読み、若き日の父の姿の一部を知りました。その中にあった「軍隊とはそういうところだ。」というひとことがいつまでも脳裏に焼き付いていました。生前は、戦争体験をあまり多く語らなかった父でしたが、父もまた家族にこの体験を伝えようと思っていたのでしょうか。また、この「指揮官たちの特攻」に登場する関行男海軍大尉が出撃した昭和19年10月に父は出征し、中津留達夫海軍大尉が最後の特攻攻撃に飛び立った敗戦の日、昭和20年8月15日からさらに2週間近く後まで父が所属していた部隊の戦闘は終わっていなかったことも知りました。歳月を重ねたノートは手書きの地図などが一部リメイクされ、きれいに保管されていました。

話をもとに戻します。城山氏は昭和2年生まれ、戦争を体験し、書き残すべき責任を強く感じられていたのでしょう。城山氏の戦争に関するドキュメンタリー小説はこのブログの記事にも書いた「落日燃ゆ」をはじめ、いくつか読んだことがあります。どれも重みを感じるものばかりですが、これは「命」という観点から非常に考えさせれるものだと思います。

ここでは連合艦隊司令官山本五十六は開戦前からこの戦争の勝敗を察知していたことが書かれています。それでなくても多くの知識人や政治家、軍隊の上層部でも、結末は予測できていたようです。わかっていたからこそ、精神論だけで抵抗し続けた「特攻」はまさに自殺攻撃・・・・・。それを考えた日本軍の上官たちへの怒りと使命感に燃えて命を落とした若者たちへの切なさが胸をつきます。戦局が悪化すればするほど戦闘員として戦わなければならないと感じるほど若者たちが皇国日本に洗脳されていた時代でもあったようです。17歳で海軍に志願した城山氏もそのひとりであったようです。しかし4ヶ月後には敗戦、そこでは末期症状の軍隊の不条理さを知ることになりました。

特攻の攻撃には往路しかなく、当然復路の燃料も積んでいませんでした。

特攻は米軍にとってはたいへん脅威だったようですが、いったいどれだけの若者が命を落としたことでしょう。いくらお国のためと洗脳されていたとはいえ、このような結末は無念だったことでしょう。痛ましい限りです。
そしてまた敗戦後しばらくは遺族も生き残った人々もその家族もまた軍神どころか元軍人に対する世間の冷たい視線にもさらされることになったようです。


そしてさらにまた驚くべきことには、終戦の日、中津留大尉は終戦による出撃停止の命令を宇垣長官によって伏せられたまま、沖縄へ飛び立っていったということです。飛行機を操縦できない宇垣長官は戦争責任をとるために自らの死の旅に中都留大尉らを道連れにしたのです。今となっては真実はわかりませんが城山氏の推測によると、大分からの機中での伝声管とのやりとりか敵機も敵艦も全くないことから異常を感じた中都留は終戦を察知し、宇垣長官の命令に逆らって、米軍キャンプからわずかに外れた場所に突入したのではないかということのようです。人間中津留達夫氏の上官に対する最後の抵抗だったのでしょうか。

歳月は戦争の記録を風化させます。でも祖父母や親の世代から戦争の記憶を引き継いだ私たちはその証言を大切にし次の世代に語り継いでいく努力を怠ってはいけないと思いました。