今年は源氏物語千年紀、京都駅周辺や四条河原町などの京都市の繁華街を歩くとこのポスターをよく目にします。
瀬戸内寂聴さんの源氏物語の現代語訳完成から約十年、多くの人に読まれ、源氏物語のブームが起こったと言われています。わかり易い文章で書かれた現代文は、古文のわからない人でも親しみ易く読みやすいものです。但し、この物語は何しろとても長いので完読は大変ですが・・・。実は私も以前3巻読んだところで挫折、あらすじは巷に氾濫しているので、手っ取り早いそちらの方ばかり読んで、そのうち本文の続きを読もうと思いながら今日に至っています。
先日、源氏物語の好きな友人から瀬戸内寂聴さんが源氏物語を解説しているNHKのテレビ番組があると聞いて初回から先週までの分を録画したものを見ました。
その番組の中で紹介されていたのがこの「藤壺」です。寂聴さんは、光源氏の父桐壺帝の妃藤壺と光源氏の逢瀬を想像して、源氏物語の中の題名だけ伝えられていて本文のない幻の帖「輝く日の宮」を「藤壺」と題して小説にされました。
寂聴さんはこの小説を現代文と古文の両方で書かれています。
寂聴さんは、紫式部はこの帖を実際には書いたけれど内容が禁忌にふれるので彼女のパトロン藤原道長か一条天皇に削除を命じられたのではと推測されています。でもこの点については私個人は紫式部はあえて書かなかったと思いたいところです。
「かかやく日の宮。このまきもとよりなし」これは紫式部自身の演出である方がいいかも・・・。
若い頃、与謝野晶子の源氏物語現代語訳の一部やあらすじを読んだ時、最初のうちは光源氏をはじめ、宮中の人々の倫理観にびっくりしました。光源氏は現代だったらとんでもなくふしだらな男です。でも、やがて当時宮中で詠まれた多くの和歌や歴史的背景、平安貴族の婚姻関係のあり方を学ぶにつれ、ちょっと考え方が変わってきました。この物語は多くの登場人物の恋の情熱や嫉妬や苦悩、また、光源氏の現実離れした人間性、当時の人々の宗教観などが見事に織り込まれています。千年も長きにわたって人々の心を捉えてきたことが次第に納得できるようになりました。
源氏物語の存在が確認されてからちょうど千年後の現在、源氏物語の現代語訳者としてどうしても書きたかったという「藤壺」を読んで寂聴さんの情熱をちょっと感じました。現代文の方は思いのほか生々しく、私は瀬戸内源氏の一部として受け入れます。源氏物語の原文の冒頭の部分の美しくリズミカルな響きが強く印象に残っている私には句読点や括弧に少し違和感はありますが、古文の方がいいと思いました。
そのうち源氏物語の原文にも挑戦してみたくなりました。