いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

ベトナム戦記 開高健著 を読んで

2007年06月26日 | その他
 この本には1964年末から1965年初頭にかけてのベトナムの様子が記されています。開高氏が週刊朝日に毎週送稿したルポタージュを帰国後まとめて出版したものです。

 今何故40年以上前のベトナムについての本を読んだのかというと、先日茅ケ崎市の開高健記念館へ行った時、彼の作家人生がこれをきっかけに大きく変わったことを知り興味を持ったからでした。それと私自身の中のベトナム戦争に関する意識の変遷の記憶を辿ってみたくもなりました。文庫本が販売されていたので早速読んでみました。

 この本が出版された当時の私はまだ小学生、ベトナム戦争をどう認識していたか記憶は定かではありません。とは言えベトナム戦争は、私自身が世界情勢についてもの心ついた頃から、最初の記憶に残る現在進行中の戦争でした。もちろんそれは私にも周囲の人々にとっても対岸の火事ではありましたが・・・。

 もともとはこの戦争は、南ベトナム政府軍と北ベトナムが支援する南ベトナム解放民族戦線(通称べトコン)との内戦でした。それがアメリカの軍事介入により資本主義勢力と北ベトナムを支援する共産主義勢力(中華人民共和国やソ連)が背後にある冷戦構造が浮き彫りになった戦争ともいえます。

 ベトナム戦争はこの本が出版された頃からさらに激化していきましたが、開高健氏は当時のベトナムを見て多くの警鐘をメッセージとして残しています。ベトナムとは何か、そしてますます泥沼にはまっていったアメリカを批判しています。
 「中国大陸におけるかつての日本の活動と全く同じことをアメリカは前線将兵の感嘆すべき忍耐や善意と無関係に続行しているように私には見える。ワシントンはまけることを嫌って夢中になっている。・・・」と続きます。また「この狂気はあの国の戦争の階段を一つのぼらせた。・・・公然たる開戦であり正面衝突である。ホーチミンの術策に長けた忍耐はいつまでつづくのだろう。・・・世界大戦は果たして起こらないと誰がいいきれるか?」


 1960年代後半、中学生になった私は新聞にも目を通すようになりましたがベトナムのことは、母が自身の太平洋戦争の東京での空襲体験を重ねてベトナムの庶民の人々のことを「毎日こわいだろうねえ。」と心配そうに話す言葉のほうが印象的でした。

 1970年代に入り、ベトナム情勢もさらに悪化していました。高校に入学した私は若い地理の教師に中学の時に納得のいかなかったベトナム戦争の行方についていろいろと質問をしました。
 その時の先生の答えは今となってはほとんど覚えていませんが、印象的だったのは徹底したアメリカ批判だったことです。(後にその先生がべ平連のメンバーであったことを知りましたが・・・)以後私はこの時の地理の先生の言葉に強く影響を受け、(何かの組織で活動することはありませんでしたが、)しばらくの間、反戦反米思想を追いかけることとなりました。
 また、そのころになるとアメリカ国内の反戦運動も相当活発になっていたことも感じていました。

 サイゴン陥落は大学の時、朝刊の一面の見出しを見て「ああこれでベトナム戦争が終わったんだ」と思ったことを覚えています。でもその頃はやはりまだ対岸の火事の延長線上でした。

 ベトナム戦争をさらに身近で感じるようになったのは1970年代後半、ベトナムからはずっと遠くのアメリカ大陸へ渡ってからです。
 そこにはボートピープルとよばれる私と同世代のベトナム難民の人々が大勢いました。ただ先祖代々ベトナム人というより共産主義を嫌って国を脱出した中国系の華僑と呼ばれる人々の子孫も多かったように記憶しています。

 教会の活動や現地の友人を通してベトナム難民の人々の中に次第に親しい友人もでき、戦禍をくぐり抜けてきた彼らの話を聞くようになりました。私は当時まだ赤ん坊だった我が子を抱きながら、同時期に同じころ新しい土地で生まれた子供を抱く同世代のベトナム難民の女性達に戦争の様子を聞いたことがあります。その壮絶さは当時まだ英語もたどたどしい表現でしたが、今まで学んだベトナムに関するどんな知識よりも印象に残りました。
 
 その後他の国へ転居した私はさらに多くのベトナムやカンボジア、ラオスからの難民の人々やアメリカ兵としてベトナムに渡り戦死した人の家族や実際に参戦経験を持つ人々とも出会うことになりました。

 そしてまた5年後に以前に出会った難民の人々に再会した時は新しい土地で逞しく生きていた姿が印象的でした。

 サイゴン陥落から32年、私はまだベトナムには行ったことがありませんが、今や観光ばかりでなく中国やインド同様、株などの日本人の新たな投資先として注目されるようになったベトナムです。社会の中心で働くベトナムの人々も現在の日本同様、次第に戦後生まれの世代の人々ばかりに代わっていくことでしょう。

 42年前に書かれた開高健氏のこの本はもう一度私の中のベトナムに関する記憶を呼び起こすと同時に現在のイラク情勢をめぐるアメリカや日本の対応への疑問も大きくするものでもありました。


 

「母への詫び状」 藤原咲子著 を読んで

2007年06月07日 | その他
 この世に生まれてきて母への感謝の気持ちのない人はほとんどいないと思います。でも人は人生の荒波に揉まれながら容赦なく襲いかかる外海の嵐の中で母への思いも大きく揺れ動くこともあるでしょう。嵐の去った後、静けさが訪れて静かに自分を見つめる時、この世に生を受けた感謝の気持ちと真っ先に結びつくのは(もちろん父の存在も重要ですが)母と答える人は多いかと思います。

 今回読んだ「母への詫び状」は、作家 新田次郎、藤原てい 氏の長女、そしてこのブログの以前の記事で紹介した「国家の品格」の著者藤原正彦氏の妹藤原咲子氏の著書です。

 何故この本を読んだかというと著者の名前と題名から受けた印象の強さからです。私の記憶の中には咲子さんのお母様の著書で敗戦下の満州から苦難の引揚げの様子を書かれた戦後の大ベストセラー「流れる星は生きている」を読んだ時の感動が今でも深く残っていたのが理由です。

 「流れる星は生きている」は今も全国各地の大きな本屋の文庫本のコーナーの片隅で目にすることが多いように思います。私がこれを初めて読んだのは、子育ての真っ最中で苦悩していた20年近く前のことです。当時私は8年半の海外生活に終止符を打って日本での生活を始めて間もない頃でした。日本の小学校に馴染めずストレスのためか慢性疾患に苦しむわが子と共に不安の日々を送っていました。

 満州で夫と引き裂かれた妻は三人の幼子(当時5歳、2歳、1ヶ月)を連れてまさに想像を絶する逃避行の末日本に生還します。その様子が、「流れる星は生きている」には克明に書かれていました。 本を読んでこれ以上涙が出た本は他にあるかしらと思えるほど、涙が止まらなかったのをよく覚えています。と同時に母として逞しく生きてきた姿にどれぼど感動し勇気づけられたことでしょう。

 その本の中に登場する「奇跡の赤ん坊」の咲子さんの半世紀を経た今の気持ちをちょっとのぞいてみたい衝動に駆られたというのも咲子さんの著書を読み始めた動機のひとつです。その反面藤原家の一面を覗くようで少し怖い気もしました。
 「流れる星は生きている」の中の「背中の咲子を犠牲にして二人の兄を生かす」「咲子はまだ生きている」という母の記述を読んだ12歳の咲子さんの心の葛藤があまりに大きかったと知ってしばらくの間私の気持ちは複雑でした。
 最後まで読み進むと心の軌跡を辿りながら今静かに老いたお母様と向き合う咲子さんの姿が目に浮かびます。
 
 私の母は今はもういません。20年前、癌と放射線治療の副作用の苦しみと戦いながらこの世を去っていきました。20年後の今の医学なら母の癌は救えたかもしれない・・・。母は娘の私に繰り返し繰り返し戦争の話を聞かせました。今思うと戦争を風化させてはいけないという母の必死の想いがあったのかもしれません。今はわずかな思い出をつなぎとめるために時折父に質問してもその頃はまだ母と出会ってもいなかった父の答えは頼りないものばかりです。

 たまに友人とのつかの間の贅沢なおしゃべりの時間を楽しむために銀座や表参道などのちょっとおしゃれな喫茶店に入った時など、中年の女性がひと目でお母様とわかる八十代九十代と思われる女性をいたわりながら昼下がりのひとときを静かに過ごされている光景を見かけます。そんな時、友人には申し訳ないのですがどうしても一瞬そんな母娘の姿に心を奪われてしまいます。