いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

下流志向   内田 樹 著

2009年10月22日 | その他
この本は何故、日本の子供たちは勉強を、若者たちは仕事を、しなくなったのかについて分析されています。

日本は欧米諸国に比べて教育費にお金がかかり過ぎるし、最近の景気低迷を受けて、新政権も高校の授業料の無償化について検討しているようですが・・・。肝心の子供たちに学習意欲がなかったらいくら枠組みをよくしたってこの国を背負っていく次の世代に希望が持てません。まず環境を整えれば子供の意識も変わっていくだろうという意見もあるようですが、この本を読むとそれほど生易しい問題ではないように思われます。

戦争の苦労を体験した親たちに育てられた私たちの世代とその後に続く世代が育てた子供たちや若者たちの現実を改めて突きつけられたような感じです。

この本の著者の内田先生の論理を100%受け入れられるかどうかは微妙ですが、確かにそうだと頷ける部分が多く感じられました。

「何のために勉強するの?」

「何のために働くの?」

最近、インターネットでも、その他のマスコミでもこの問いかけによく出会います。

「等価交換」・・・この本でもっとも印象に残った言葉です。

私たちはその価値を知らない商品は普通は買いません。十分な商品情報を持って適切な商品を選択できるものが賢い消費主体とされます。

「ひらがなを習うことにどんな意味があるのですか?」こんな質問が出てきたら普通の大人ならびっくり!!私たちはそんなこと考えて文字を学んだことはなかったからです。でも・・・今はホントにその辺からぐらついてきたのでしょうか??

超少子化の結果、子供は家庭の中で家事労働を覚える以前に両親や祖父母からこづかいをもらい、消費することを覚えます。

まず消費主体として人生をスタートした子供たちは以後自分の前に差し出されたものを「商品」として捉えるのです。ということは嫌なものは買わないということにもなります。

それでも押し付けられる時、(つまり通常の貨幣が通用しない時)
子供たちは不快という貨幣で教師の提供する教育サービスと等価交換しようとすると言うものです。

起立 礼 着席

ずっと以前から続いている日本の授業の挨拶ですが、だらけた姿勢で立ち上がり、いやいや礼をし、のろのろ着席・・・授業中私語は延々続く・・・のだそうです。
でもこれは、私たちの時代にもあった光景でした。中学や高校時代、面白くない授業でみんなに嫌われている教師の授業はクラスで団結してこのような反抗を試みたことは何度もありました。唯、教師に一喝されれば仕方なくやり直し、以後私語は慎みました。当時は未熟な教師でも一応、生徒との関係はその程度に保たれていたように思います。

「年々、子供の授業態度が悪くなっていく」と教師をしている私の友人たちが異口同音に投げかける言葉です。

どうして今のような授業マナーが定着したのでしょうか??

ここには「捨て値で未来を売り払う子供たちを大量に生み出してしまった社会ができてしまった過程」に対するなるほどと納得したくなる理由が述べられています。

義務教育による勉強は私たちの頃からつまらないものがたくさんありましたから、
意欲がわかないときもたくさんあったと思います。

でも、学ぶと言うことはもともと人間の本能的な欲求であると思います。

ただ、泣くだけだった赤ん坊が2歳くらいまでにはいくつかの単語を話し、3、4歳では文章を話し、5、6歳くらいになると会話がしっかりできるようになります。両親や周りの人々の言葉を必死で学んで獲得した言語です。

私たちが子供のころ、これは何故学ぶのかいちいち考えたことがあったでしょうか?
子供の学びと言うのは理由なんて考えないで学べるものは何でも吸収する、どのように役立つかは後でわかるものであったような気がします。


この本の中に「大学教育の場にシラバスというジョブディスクリプション(学びの行程を最後まで一望できるように教師が講義の前に作成するもの)を持ち込んだことは教育の自殺行為である。」という部分があります。確かに私が学生の頃、そんなものはありませんでした。

 ああそうか・・・これも等価交換かあ・・・

あとでちょっと調べてみましたが、現在はほとんどの大学で採用され、講義を担当する教師たちは毎年大学の事務にこれを提出し、学生はそれを見て受講する講義を決定するのだそうです。


さて、もうひとつのポイントは「自分のことは自分で決める」という「自己決定権」の固執です。インフォームドコンセントににより患者が治療法を選択するつまり自己決定する方法などは大人の世界は、これが当たり前になってきています。

それなら出世より、自由を大切にする??若者だって同じ論理です。
でも本当はどうなんでしょう??
自己決定はよいことであるという社会はすべての人が責任逃れをしている社会ともいえるのではないでしょうか。

最後まで読み進めると学ばない子供たち、働かない若者たちは必ずしも自分の意思ではなく、大きな社会の力に押しつぶされているということを感じます。(内田先生はイデオロギーに誘導されているという表現をされていますが・・・)

経済成長の副産物なのでしょうか。

これは先日立ち寄った京都市の〇〇書店の文庫売上げNO.1のコーナーに置かれているのを見て思わず、購入しました。その後首都圏に戻ってからはまだゆっくり書店へ行っていないのでわかりませんが、関東ではどうなんでしょう??

この本は社会への大きな警鐘であると思いました。

智恵子飛ぶ 津村節子著

2009年10月21日 | 小説
これは高村光太郎の妻智恵子がモデルです。涙なしでは読めない、巻末の解説の川西政明氏の言葉を借りて言えばまさに「津村氏が渾身をもって書ききっている」感動の一冊です。

智恵子は、両親が福島県安達郡油井村の清酒「花霞」を醸造する酒造家の長沼家に夫婦で養子に入り、そこで資産家の長女として育ちました。

女に学問は必要ないとする両親を説得し1903年、智恵子は福島高等女学校を学業成績一番で卒業。さらに日本女子大へ進みます。在学中から油絵に興味を持つようになり、1907年に大学を卒業した後は、画家として東京で過ごします。智恵子25歳の1911年に女子大の上級生平塚明子(らいてう)によって創刊された雑誌『青鞜』の表紙絵を描くなど、若き女性芸術家として世間に注目されていきます。

そのころ、智恵子は光太郎と出会い、1914年(28歳)に結婚。といっても籍など無意味と考えていた二人は智恵子が精神を病み始める1933年まで入籍はしませんでした。

結婚後の生活は、金銭的に苦しく、裕福な家庭に育った智恵子でしたが貧乏でも愛する光太郎の為に一生懸命尽くします。そして何よりも自ら画家としての希望も捨てられず、貧しさや次々に起こる実家の不幸(実父の死、長沼家の破産、一家離散など)や病気(湿性肋膜炎)などにより精神的にも肉体的にも疲れ果てていきます。次第に統合失調症(ここでは分裂病と記述されています。)の兆候が現れ、1932年7月大量の睡眠薬を飲み自殺を図ります。幸い光太郎がすぐ気づいて処置をしたため未遂に終わりますが、病気の症状は悪化するばかりでした。智恵子は1935年に東京・品川のゼームス坂病院に入院しますが、その時病室で多数の紙絵を製作します。そこで光太郎は、芸術家としての智恵子が油絵ではどうしても克服できなかった見事な配色、構図の面白さ、造型の確かさ、生活観あふれる楽しさを紙絵に見出し感動します。しかし病魔は次第に彼女の体を蝕み、1938年10月5日、肺結核のため息をひきとりました。

明治末期、平塚らいてうらと共に時代の最先端を歩いていた智恵子は、高村光太郎との運命の出会いによって、愛する光太郎に尽くすことと自らの芸術に精進するとことの両立に苦しみます。それはまた、光太郎の才能がすぐれていればいるほど智恵子は光太郎に尽くし、困窮生活に耐えます。

光太郎は愛する智恵子を歌った数多くの詩を残しています。それはどれも智恵子への深い愛情が滲み出ています。

でも・・・。
敢えて、そこで私は、前回のブログの記事にも書いた信田さよ子さんの本を読んだばかりの私は、智恵子の苦しみの原因は光太郎の優れた才能以上の何かを感じます。

光太郎は智恵子を愛しながらも「君は僕のもの。だから僕についてくる」という智恵子への大いなる期待と依存は否定できないと思われるからです。

明治の人だから??いえ、それは今でもあまり変わらないようには思いますが・・・。光太郎は芸術家としてあまりにもすぐれて超越していたため智恵子は尊敬する夫光太郎に愚痴一つこぼさず尽くします。

あとがきで津村さんは「同じ屋根の下に棲む芸術家夫婦の力が拮抗していればもっとも近くにライバルを置くことになる。不均衡であれば、力のある者は無意識のうちに力弱き者を圧してしまう。」と書かれています。

智恵子は光太郎の才能に尊敬を抱けば抱くほど自分の能力に対する絶望感が深まっていったようです。

でも光太郎はなかなかわからないのです。自分流で智恵子を深く愛していたからでしょうか。

あんなすばらしい詩や彫刻を残していながら、そんな智恵子の苦しみを病魔に冒される前に救ってやれなかったなんて・・・。

津村さんは光太郎を少しも悪く書いていません。智恵子にしても純粋な一途な愛の姿を書ききっています。

でも、私はこの話から光太郎の心遣いの不器用さを感じます。
精一杯生きているはずが・・・どうして・・・??

光太郎の苦悩も深まって生きます。光太郎は智恵子が精神を病んだ理由をいろいろ考えますが、家族のことなどに考えをめぐらし結構迂回しています。唯、津村さんは、その点を女性として本能的に見抜いているようにさえ思われ、読者である私にもそれが伝わってきます。


私事ですが、この話は、私にとっては身近な人が智恵子と似たような状態に陥って行く様子を見ていた経験があるので、とても身につまされます。当時の私にはどうすることもできませんでした。彼女もまたとても純粋な人でした。屈折した過去を持つ彼女の夫を母のような優しさを持って愛し、精一杯尽くしているように思われました。
でも・・彼女の夫も自ら苦悩しながらも、彼女の病気をあれこれ科学的に分析するばかりで自分の世界だけに生き、肝心なことになかなか気づかなかったようでした。

夫が妻を所有物ではなくひとりの人間として見るということはだれでもできるような簡単なことではないのでしょうか。


もし光太郎が凡人だったらきっと智恵子は光太郎と結婚しなかっただろうし、智恵子も精神を病むことはなかったのかもしれません。


狂気の智恵子を見てもう人間であることをやめた智恵子と歌う光太郎・・・


  値《あ》ひがたき智恵子

智恵子は見えないものを見、
聞えないものを聞く。

智恵子は行けないところへ行き、
出来ないことを為《す》る。

智恵子は現身《うつしみ》のわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦がれる。

智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。



芸術家夫婦の壮絶な結婚生活でした。

この本を読んだ後、智恵子の死後、光太郎が世に出した「智恵子抄」を読み返しました。光太郎のひたむきな智恵子への愛と叫びが心に響きます。

光太郎の詩に感動する傍ら、やはり津村さんの小説の中の智恵子には女性の細やかな視点が見事にちりばめられていると思いました。

選ばれる男たち 女たちの夢のゆくえ 信田さよ子著

2009年10月19日 | その他
以前友人の一人から信田さよ子さんのブログ(信田さよ子blog ブックマークをクリックしてみてください。)のことを教えて頂き、時々拝見していました。その著書紹介の中でちょっと興味をそそられて購入したのがこの本です。

著者の信田さよ子さんは原宿カウンセリングセンターの所長さんです。カウンセラーとしての経験を基にDVなど家族の問題についての著書も多く、また全国各地で講演活動などもされていらっしゃるようです。

この本は中高年の・・著者の言葉を借りて言えばアラカン(アラウンド還暦)の女性たちの結婚観、男性観が述べられています。それはアラカン世代に続く1950年代に生まれた女性たちにとってもほとんど変わらないかもしれません。


戦後、学校教育の現場ではずっと男女平等を教えられてきましたが、なんだか多くの女性たちが抱える悩みは本質的にあまり変わっていないことに改めて気づかされたような気がします。

それはとても簡単なことなのですが、ずっと続いてきた男尊女卑という社会構造の中で育った多くの男性たちは、わからないか、わかろうとしないようです。あるいは本音はわかりたくない・・・・のでしょうか。


第一章は夢の男を求めて奔走するSST(しみ・しわ・たるみ)のアラカン(アラウンド還暦)のおばさまたち・・・まあ私にとってはこれからの私自身の手本か反面教師になるかもしれないお姉さまたちなのですが・・・
ヨン様に夢中になったところで現実の夫たちにはそれほど害はなし・・・でもそのミーハー的なパワーは凄まじく、男性報道陣にも呆れられる始末なのです。

なんでこんな記述が長いの??と最初は思いました。
確かにヨン様や〇〇王子様たちはイケメンで美しい男かも知れません。私と同世代や年下の友人にも彼らのファンは何人もいます。でも私はミーハー的に夢中になるエネルギーが今のところ全く出てこないのでSSTのお姉さまたちの行動はいつも複雑な気持ちで眺めていました。

でもこの一見退屈に思えた第一章が実はとても重要で、第二章以降を読み進めるうちにこの現象の謎が解けていくような気がしました。


さて第二章は深刻な第三章へのステップでもあります。私たちの世代も余変わりませんが、アラカンの人々の青春時代、女性たちが理想とする女性像は男性が理想とする女性像と大きな違いはなく、男性からみたらかわいい女であり、結婚はその延長線上にあり、結婚後はかわいい妻であることがしあわせをつかむ条件だと考えていたように思います。

もちろん、当時は高学歴の女性たちも同様で、多くの場合、結婚してもずっと同じ仕事を続けられる人はごくわずかでした。だからこそ「結婚は人生最大のギャンブル」とまで言われたのです。

以前このブログで柴田翔の「されどわれらが日々」について書いたことがありますが、あの小説に登場する1960年代の節子は大卒で社会に出ていく能力も持ち合わせていましたが、自分の気持ちに正直になりすぎて悩みます。でも当時の男性も節子を生意気だとは思わなかったでしょう。柴田氏は節子をかわいい女性として描いているからです。

一方男性たちは学生時代のいわゆる就職活動のころから、実はしっかり男社会の基礎の中に組み込まれ、その後長年企業社会の中で働きながら身につけてきた信念を家庭の中に引きずり込み女性たちの結婚生活の理想をぶち壊していきました。

夫たちが「家族は妻子を養っている自分のためにあるのだから家族は自分に都合よく回るべきであり余計なエネルギーを割く必要はない」と考えたらどうなるでしょう?

夫たちは会社の不快を家庭で不機嫌という表現で撒き散らしました。家庭はあたかも彼らの解放区であるかのようにふるまう夫たちがどれほど多いことでしょうか。

おばさんたちの王子様への情熱は彼女たちの夫たちの信念へのレジスタンスなのだそうです。


さて後半はいたって真剣にこの本に向き合わされることになります。

DVという言葉が世間で広く知られるようになったのは最近のことです。ここでは内容は省略しますが、第三章のA子さんやB子さんの事例は言葉をなくすほど深刻です。男性の読者ならどう感じるでしょうか。

でも女性の読者の多くはそれなりに共感できるのではないかと思います。
細かいところはわからないのでなんともいえませんが「ここまでひどい状態によく耐えてきたなあ」と感じるA子さんやB子さんがアクションを起こしたことについては「よくやった!!」と感じます。おそらく同じような悩みを抱える女性たちを勇気づけることだからです。


さて、ここでDV加害者プログラムにも関わってこられた信田さんが加害者側の言い分について書かれている部分があります。

多くの加害者が深い被害者意識を抱いているという記述が言いようのない複雑な感情に私を引き込みました。

自分では全く正しいと思っていることに妻は従わないどころか時には戒律を破った理由を正当化したりする彼らは信じられないと憤慨する・・・

だから暴力を奮うの??

殺人犯が殺人を犯す時自分の正当性を説明するでしょうか。

相手が妻だから・・彼らは妻への大いなる期待と依存を当然と考えているからなのです。

「妻なんだから言わなくてもわかるだろう」

ああこれくらいはどの夫も言うだろうということは想像できます。そして彼らは自らが持つ権力性についても自覚がないのです。

夫婦がお互いに人間として認め合う「君は僕と同じ人間だが、君を思い通りにはできない。」つまり「完全なる所有ではない」ということをアラカンのあるいはそれに続く1950年代生まれの男性たちはどう認識し、家庭で妻と向き合っていけるでしょうか。

ヨン様や王子たちあるいは草食系の男子・・・彼らは結婚という制度の枠外に位置し、あくまでも夢の男にすぎません。

私の友人たちの中で少し親しくなると夫の悪口を言わない人はほとんどいません。
(もっとも男性たちだってどこかで妻の悪口を言っているのでしょうけれど・・・。)

30年余の結婚生活を過ごしてきて、自らの結婚を「幸せな結婚ができてよかった」と胸をはっていう友人はほんのわずかです。その彼女たちだって他に家族の問題をかかえていないわけではありません。


男尊女卑の社会構造と生物学的力関係がDVと無関係だとは思いません。DVは人種や民族を問わず世界各地で存在すると言われています。今世界各地の女性たちがこの問題と向き合おうとし始めました。

苦しかった過去、忘れたい過去を背負った人々だからこそ「所有物ではなく妻をひとりの人間として認めて欲しい!」女性たちの叫び声が響いてくるような気がします。

これは夫婦のあり方を考える意味でもたいへん意義ある一冊であると思いました。


紫禁城 入江曜子著

2009年10月05日 | その他
現在故宮博物院となっている北京の紫禁城は、明朝三代永楽帝の造営だそうですが、現在の形はそのほとんどが清朝の時代とのこと。この本は1644年に始まる清朝の歴史に沿って解説されています。

先日加藤徹氏の「西太后」を読んだ直後でしたので、西太后やその周辺の時代について入江曜子氏のやや異なる視点も興味深いものでした。

清王朝の栄枯盛衰、歴代の皇帝と共にその多くは薄幸ともいえる皇后や側室たち・・・また少数派の満州民族が漢民族にどう君臨したか等々・・・。

また、ほんのわずかですが、終章の芥川と魯迅についての記述が印象的です。

日本の天皇に関しては古くから信じるかどうかは別として万世一系といわれてきましたが中国では「天使は天の命によって天子となるので、天子に徳がなくなれば天の命は他の人に下るー天命が革まり天子の姓が易(か)わる」とされ、王朝の交代が起こってきました。

紫禁城の入口とも言える天安門は天子である皇帝が天の受託をうけたことを象徴する場・・・「天と地をつなぐ場」とされてきました。

中国が清から中華民国へそして中華人民共和国へ移り変わり、紫禁城すなわち故宮は博物館となりました。


1989年6月4日、民主化を求めるデモ隊と軍や警察とが衝突して多数の死傷者を出した天安門事件は記憶に新しいところですが、やがてまた天安門広場は北京有数の観光名所として、盛大な式典の場として広く世界に紹介されています。

もう十年以上以前のことですが初めて故宮へ行ったとき、その厖大さに驚きました。その佇まいはなんともいえない威厳を感じます。


2009年10月1日、中国は第60回目の“国慶節”を迎えました。言い代えれば中華人民共和国が還暦を迎えたってことでしょうか。(もっとも正確には10月1日は中華人民共和国中央人民政府が成立した日で実際の中華人民共和国の成立した日は1949年9月21日のようですが・・・。)

日本でも中国の盛大な国慶節の様子が報道されていました。このとき久しぶりにテレビでニュース番組などをじっくり見た私はかつて見た天安門広場の光景と映画ラストエンペラーなどで見た皇帝就任の式典の様子を思い浮かべていました。日本の報道陣は皆ここからマイクを持ってあれこれ様子を伝えていましたから。

北京オリンピック開催も成功し、もうすぐGDPで日本を抜き米国に次ぐ世界第2位の経済大国となることがほぼ確実な中国・・・・。この本を読み終わったばかりの私は「ああそうか!今は胡錦濤の時代なんだ!!」 そんな想いが浮かんできました。

   天安門は天子である皇帝が天の受託をうけたことを象徴する場
                   ・・・天と地をつなぐ場

もちろん、現在は「天の受託って何?」という感じの世の中になったのかもしれません。中国も日本も政治経済その他いろいろ実にギクシャクしたものをたくさん抱えている世の中でもありますから・・。でも、ふっと雑念を振り払って、向き合ってみると人の心を動かす建物と歴史の威厳は健在そうです。