いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

瑠璃色の石   津村節子 著

2009年07月28日 | 小説
これは前々回の記事の「プリズンの満月」の著者吉村昭氏の夫人津村節子氏の自伝的小説です。お二人とも私の親の世代の方ですがこの小説の紹介文を読んだ時、姑が「私たちの世代は皆青春を戦争に奪われてしまった。」と言っていたことを思い出しました。

戦争を知らない子供たちと言われた私の世代ですが、戦後の混乱の中で必死に新しい時代を築いてきた親の世代の若き日のひとコマを垣間見るような思いで読み始めました。


戦争が終わって向学心旺盛な主人公育子(津村氏と夫の吉村氏と思われる圭介以外の文学関係者はほとんど実名で登場します。)は学習院短期大学に入学します。

話は横道にそれますが、実はこの辺までは時々買い物帰りに立ち寄るカフェ〇〇〇〇で読み始めました。神奈川県は条例で喫茶店やレストランの分煙が進んでいて煙草を吸わない私はいつも禁煙コーナーへ座ります。でもその日は良い席が空いていなかったので喫煙席のいちばん端に座りました。喫煙席と言っても最近は煙草を吸わない人が多く灰皿をテーブルに置いている人が近くにいなかったからです。

しばらくして、隣に座った二十代半ばくらいの若い女性が食事が終わった途端、煙草を吸い始めました。一見してスタイルもセンスもいい知的な感じの素敵な女性です。その時読んでいたこの小説の育子と同じくらいの年齢です。今の津村さんから見れば孫の世代くらいでしょうか。(でも・・・、煙草は吸って欲しくないなあ・・・これから子供を産むことになるかもしれない若い女性は特にねえ・・・。)煙草の煙がすうっと私の方へ漂ってきたとき余計な老婆心が湧き上がってきたのを感じたので、私は静かに席を立って出て行きました。「触らぬ神に祟りなし」まあ不快なものは見ないに限るってところでしょうか。たまにはおせっかいなうるさばあさんになってもよかったかもしれないのですが・・。

さて、そうやって中断された読書でしたが今度は家でハイフェッツの演奏するチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴きながらこの本の続きを読み始めました。

私は時々音楽を聴きながら読書をすることがあります。テーマが重いときは聴きません。でも大抵はポピュラー・・。例えば小池真理子さんの本のときは最初ビートルズを聴いていました。そして途中でサイモンとガーファンクルにしました。題名のバッハの曲は読み終わってから聴いてみましたが・・・。小説のイメージとは少し違いました。

ハイフェッツは20世紀に活躍した偉大なヴァイオリニストです。音楽に関しては全く素人の私でも「あれっ?」と思うようなかなり個性的な演奏が印象的です。1901年、ロシア帝国領ビルナ (現在のリトアニアの首都) にユダヤ人として生まれました。ロシア革命を避けるため、そのままアメリカ在住の道を選び1987年にロサンゼルスで死去しています。

激動の20世紀を生きたハイフェッツの演奏と何故か戦後の新しい時代を切り開いてきた津村さんの自伝的小説が私の中で不思議な調和を作り出していました。

小説を書きながら結婚、出産、理解のある夫とは言え、自分の意志を貫く育子の力強さに敬服します。そして4回も芥川賞にノミネートされながらも一度も受賞しなかった圭介(吉村昭)の焦燥感。(物語はここで終わっていますが実際にはその後、妻の津村節子氏の方が受賞します。)圭介との葛藤の日々が切なくもあり、また今や偉大な作家となって多くの優れた作品を世に送り出した吉村昭氏のとても人間的な一面を見るようでもありました。

そしてまたこの作品では私にとっても若き日に夢中になった作家の名前が次々に登場します。
三島由紀夫、丹羽文雄、・・・吉行淳之介・・・等等。
若き日の寂聴さん(瀬戸内晴美)の名前も・・・。
何だか戦後の日本の文壇で活躍した人々の背景の一部を見るような思いでもありました。

そして題名と同じ「瑠璃色の石」の贈り物の部分はほんの数行なのですが、読んでいて胸が熱くなる思いがしました。

朗読者  ベルンハルト・シュリンク 著  松永美穂 訳

2009年07月24日 | 小説
これは先月、日本でも公開された映画「愛を読むひと」の原作です。公開前に雑誌か何かに出ていたこの映画の案内を読んだ時、映画を見る前に原作を先に読んでみたいと思いました。

しばらく忘れていましたが、先日、偶然書店で見つけて購入しました。

人間の「愛」というテーマの背景にナチスと戦後のドイツの問題が折り込まれていて、もう一つの大きなテーマになっています。

原作はドイツ語です。訳者によるあとがきでは、Der Vorleserというドイツ語の男性単数形名詞の原題を「朗読する男」ではなく、英語訳のThe Reader から「朗読者」としたことが書かれていました。この話のテーマを思うとこのちょっとした言語的ニュアンスの違いも注目すべき点かと思います。そして次に登場人物の感情の細やかさに注意しながらあとがきにあったお勧めどおり二度読んでみました。

最初は15歳の少年と母親のような年齢の女性との恋物語に普通はありえないと思えるような展開だと思いながらその奥に潜む何か悲劇的な漂いへの好奇心をそそられ読み進めるうちに、「ああこれも戦争・・・しかも後に戦争犯罪人となった人に関係する話なんだ」と思いながら、先日読んだばかりの(前回の記事に書いた吉村昭氏の)「プリズンの満月」のことを思い出していました。

ドイツもまた不条理な運命に翻弄された人々がいたことを改めて思い知らされるものでもありました。但しこの話は連合国が裁いたものではなく、ドイツ人がドイツ人の戦争犯罪を裁いた「アウシュヴィッツ裁判」(1963~65年)に関係したものですが・・・。

強制収容所でのユダヤ人に対する不当な扱いや大量虐殺は世界中に散った生存者の人々の証言から今やまぎれもない事実として歴史に刻まれ、認識されています。戦後はその加害者とされる人々が戦争犯罪人として裁かれ刑に服することとなりました。

ミヒャエルは法廷でハンナと再会します。

当時彼を法廷へ連れて行ったゼミの教授は言います。

「被告人たちをご覧なさい・・・当時の自分は人を殺してもよかったんだ、本気で考えている人はいないものですよ。」
ミヒャエルの新たな苦悩はこの再会の時点から始まります。

被告人となったハンナはある時法廷で裁判長に向かって尋ねます。

「あなただったら、何をしましたか?」

彼はつまらない答えしかできませんでした。

本当は悪人なんてどこにもいなくて善良な人々が戦争の恐怖や無知からいつのまにか加害者に仕立てられてしまっていたかもしれないのです。
ハンナは満足な教育を受けなかったために罪を否定することができませんでした。彼女は自分の境遇を知られたくないという彼女のプライドが邪魔をして他の被告人たちのように罪を軽くすることができませんでした。


二度目に読んだ時、久しぶりに海外のいい本に出会えた気がしました。人間としての大きな課題が投げかけられています。

でも一言で言えばとても残酷な話だなとも思いました。
それは社会、つまり「戦争」という意味と「愛」という意味の両方においてです。

ハンナが刑務所にいた18年の間に主人公のミヒャエルのとった行動は考えた故とはいえ私には残酷だと感じられます。

ミヒャエルは朗読したテープをハンナに送り届けます。つまり彼は彼の愛を送り続けます。でもハンナが手紙を書けるようになってもそれはずっと変わりません。ハンナに会いに行くこともしませんでした。

ハンナが出獄することが決まってようやくミヒャエルが会いに行ったとき、彼女はミヒャエルの周りにいた老いた人々と同じ匂いが漂う老婆になっていました。最初にここまで読んだ時、私はハンナの次の行動を予測し、その通りになってしまったことに複雑な思いを感じました。

ミヒャエルには悲しい結果が待っていました。

その後のミヒャエルと刑務所の所長さんとの会話を読みながら、所長さんの怒りが私には手に取るようにわかりました。女性の所長さんはミヒャエルを見てハンナの微妙な気持ちを感じたのでしょう。
このあたりは何気ないようで原作者の絶妙なテクニックだと思います。

これは2つの大きなテーマが複雑に絡み合いながら、人間の持つ悲しさを私の心の中に深く刻み込んでいくものでした。

プリズンの満月 吉村昭著

2009年07月21日 | 小説
今日は重いテーマの小説です。作家吉村昭氏は私の親と同世代の方ですが、以前から私の好きな作家の一人です。歴史上の重要な事件を取り上げた作品が多くその冷静な語り口に深く考えさせらることが多いように思います。どちらかと言えば私自身少しエネルギーが上向きの時でないと気持ちが沈んでしまうこともありますが・・。

これはかつて戦犯と呼ばれていた人々が収容されていた巣鴨プリズンの刑務官だった人が、跡地に建設された高層ビル(池袋のサンシャインシティ)建設の警備を指揮するという運命と出会い、その心の軌跡と葛藤を描いたものです。

今まで第二次世界大戦についての兵士や一般の人々の話はずいぶん読みましたが、敗戦国の日本人が同国人の戦争犯罪の刑の執行を行うという状況の話は初めてでした。フィクションとは言え、歴史上実際にそれは執行されたわけですから、これもまた戦争ゆえ誰かが追わなければならなかった運命とでもいうのでしょうか・・。

今となっては戦犯という定義さえかなり曖昧で、強引で急ぎすぎた裁判によって命を落とした人々も多かったことが次第に明らかになってきました。単に敗戦国だったから・・・? 極限状態に置かれた人間としての立場は考慮されることはほとんどなかったということでしょうか。

この小説にも出てきますが「戦犯として絞首刑の宣告を受けた者の中には、撃墜されたB29からパラシュート降下した米軍飛行士を処刑した者が多く含まれている。」とあります。それは俘虜の扱いについての国際法規に違反した行為として罪を科せられたということでしたが、実際には死が確定したような傷を追った米兵を苦しみから逃れさせようとして介錯した日本兵の心を連合国側は理解のしようがなかったのでしょう。

それは厖大な戦争に関する事柄の本当に小さな部分に過ぎない事実かもしれませんが、東京裁判の判決の強引さが滲み出ているようにさえ思えます。

「勝てば官軍負ければ賊軍」終わってしまえば唯それだけで、当時の一般の人々は生きることに必死だったのでしょうか。

主人公の鶴岡もまた家族を養い、生きることに精一杯であったが故に、刑務官として働くうちに次第に見えてくる他の刑務所とは違う戦犯とされた人々の人間性や刑の不条理さに苦悩します。また、警備の米兵との板ばさみになりながら日本人としての誇りを保とうとする姿勢が痛々しい部分もあります。


私が子供のころ、学校教育の現場ではどの先生も異口同音に「戦争は悪」みたいな
調子で「日本が馬鹿な戦争をしたのは、軍隊が悪かったから。」というような意味のことを繰り返し話していました。母は戦争の恐怖や戦中戦後の苦労話を何度もしてくれましたが、「何がどう悪かったのか。何故戦争になったのか。」については「歴史をよく勉強しなさい。本をたくさん読みなさい。」と言うだけでした。本当に明確な答えは未だに闇の中です。

歴史を学ぶうちに次第に見えてくるものもあるし、時代と共に明らかになったことが出てきて世の中の一般的な考え方に変化を感じることもあります。


池袋のサンシャインシティが巣鴨プリズンの跡地に建てられたのをいつ知ったかはよく覚えていませんが首都圏へ生活の拠点を移してからは、そこは今では年に2~3度は訪れる場所となりました。
華やかな専門店が並ぶ商業施設、オフィス、ホテル(プリンスホテル)水族館、レジャー施設、展示ホール・・・その他いろいろあります。
その横のほとんどの人が気がつかないほどの小さな公園に「永久平和を願って」と書かれた石碑があり、その地にはかつて第二次大戦後の極東国際軍事裁判の被告人とされた戦争犯罪人が収容され、裁判の判決後、刑が執行されたことでも知られる巣鴨プリズンが存在したことがわかります。

この小説は、主人公鶴岡の冷静な目が刑務官の苦悩と東京裁判の不条理さを浮き彫りにしています。

そしてまた、これは私たちが戦争について考えなければならないときに注目すべき点を追加するものであるかもしれません。

無伴奏 小池真理子著

2009年07月17日 | 小説
先日、関東甲信越地方は梅雨明けが発表されました。ここ数日の猛暑にこれから始まる夏本番の暑さが思いやられるところでしたが、今朝はどんよりした梅雨空に逆戻り。何だか少しほっとしたような気分です。

さて、今日の本は小池真理子氏の「無伴奏」です。ずいぶん以前から小池さんの本は友人のひとりから薦められていたのですが、ミステリー小説が多いと聞いていたので迷っていました。ですから今までは雑誌のエッセイなどを読んだだけでした。

これはそういう意味ではちょっと雰囲気が違いますね。確かにミステリーっぽいところもありますが、青春小説という方が合っています。

時代設定からすると主人公は私より3年先輩ってことになりますが、ほぼ同世代のちょっとだけ先輩の女性が体験した学園紛争やデモなどの描写が懐かしくもあり、私の中の記憶をくすぐられるような感覚でもありました。

この本は先日偶然立ち寄った書店の集英社文庫のナツイチシリーズの中に並べられていました。友人お薦めの小説とは違ったのですが一応集英社のお薦めってことなら「ハズレではないかな」くらいの気持ちでページも開かずに裏表紙だけ見てすぐレジに向かいました。

蛇足ですが、ナツイチシリーズにはミツバチかなんかのストラップがおまけについてきます。ボーっとしている私に書店の人が「お客さ~ん!そこのかごの中からひとつもっていってください。」と言うのでひとつとってバックに入れました。でもそのときは何だかよくわからず、後で家に戻ってから飴かと思って袋を開けたらストラップだと認識した次第でしたが・・・。

さて、この小説は1969年から70年の仙台が舞台となっていますが、仙台は私自身にとっても思い出に残っている都市です。

著者の小池さんが仙台に滞在していた時から5年後の1975年の夏、当時大学生だった私は、まさにこの小説の主人公響子みたいな・・・一緒にいるといつも奇抜なことに遭遇するように感じられてしまう同じ大学の友人と一緒に東北地方を旅していました。

その時、立ち寄った場所のひとつが仙台だったのです。学生の貧乏旅行でしたから、仙台市内はひたすらよく歩きました。

その時滞在したユースホステルのおじさんからの早朝散歩の誘いで、同じ場所に滞在中だった数名の学生達と共に市内の主な観光地の他に東北大学のキャンパスの中を歩いて廻りました。この本を読み進めるうちに「ああ、ここも数年前は学園紛争の渦の中に飲み込まれていたのかなあ」と思いながら歩いた当時のことが甦ってきました。

その時の仙台は真夏の早朝の陽射しが爽やかで、東北一の都市の威厳も感じられました。

響子=小池真理子みたいな錯覚に陥りそうになりながら、「ビートルズでなくロールリングストーンズとバッハかあ~。私ならサイモンとガーファンクルやカーペンターズとモーツアルトだなあ」なんて思いながら・・・いつのまにか中断できすに一気に最後まで読んでしまいました。

恋愛のねじれた関係がいわゆる普通のケースとは違うのだけれど、最後の驚くべき大事件も結末は案外さりげなく、結構読者の余韻は軽くなるところまで持ち上げてくれてから終わります。

若き日のタイムスパイラルを楽しむにはリラックスタイムにお薦めの本かなと思いました。