いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

源氏物語にひたる  とっておき京都vol.11

2008年09月26日 | 雑誌
 先日、3ヶ月ぶりに京都へ行ってきました。首都圏に比べると京都の方がいくらか暑いようにも思われましたが、もうすっかり秋の雰囲気です。

 今回はちょっと趣向を変えて、「とっておき京都」という雑誌の紹介です。

 いつもはあれこれ用事を片付けるだけで終わってしまう京都滞在ですが、今回は久しぶりに観光でもと思っているところでしたので手頃な本かなと思って購入しました。源氏物語限定のガイドブック+αってところですが読み物としても興味深い記事が多かったです。



 今年は源氏物語の存在が確認されてからちょうど1000年ということで京都では源氏物語がちょっとしたブームになっているようです。

「あなかしこ このわたり わかむらさきや候」
     (このあたりに若紫はおられますか)

藤原公任が戯れで投げかけたこの言葉が「紫式部日記」寛弘五年霜月一日の条に出てくることから今年2008年11月1日を源氏物語千年紀とするそうです。

 源氏物語54帖をたとえ訳本でもすべて読むのはなかなか大変ですが、源氏物語の雰囲気を味わいながら京都観光にはふさわしい一冊かと思いました。またそればかりでなく源氏物語の登場人物についても詳しい解説がありますので、これからこの膨大な古典に挑戦するにあたっての手引きにもなるかと思います。

10年ほど前に源氏物語の訳本を出版された瀬戸内寂聴氏を始め、何人かの方々のこの物語に関連したエッセイが興味深いです。

千年の時を経て、能や絵巻物、陶器や和菓子、和服やインテリアなどにまで奥行きが広がった源氏物語の世界を古典には素人の人にも手短に感じることのできる一冊かなと思いました。




時が滲む朝  楊逸(ヤンイー)著

2008年09月04日 | 小説
いつのまにかもう9月、我が家の近くでは日中はつくつくぼうし、夜はこおろぎがさかんに鳴いています。北京オリンピックの熱狂の後は、ゲリラ豪雨、そして福田首相の辞任。 安倍氏につづいてまた「お坊ちゃま首相」が政権を投げ出した形になって、今回は驚きと言うより「やっぱりダメなの?」という印象でした。小泉政権が後継者育成システムを兼ねていた派閥を壊したあと人材育成に失敗したという見方もあるようですが・・・。

政治の世界だけでなく「何か既存の組織を新しく変えようとすると問題があるから改革をするといっているにも関わらず、必ず古い勢力が反対する」それが人間社会なのかなと思ってしまいます。

強大な共産党政権の下にある中国でも抑圧の中から立ち上がろうとする人々や海外メディアの動きを完全にコントロールすることはできず、新旧の勢力のかけひきがいつも感じられるような気がします。


さて、今回は今年度前半の芥川賞の受賞作で、中国での民主化運動に関わった人々の姿をテーマにした在日中国人の楊逸(ヤンイー)氏の「時が滲む朝」(ときがにじむあさ)です。日本語が母国語でない外国人としては初めての芥川賞と聞いてちょっと興味を持ちましたので、文芸春秋9月号に掲載されていたこの作品を早速を読んでみました。
受賞の背景にある選評やインタビューなどは無視して真っ先にこの作品を読んだ時、何かとてもエネルギッシュなものを感じました。

読み始めてすぐ、昭和40年代の日本の大学紛争を思い起こされるような気持ちになりました。大学紛争の嵐は過ぎ去った後、大学に入学した私でしたが、まだあちこちで残党がくすぶっていたような時代でした。そんな私には、全共闘の学生たちのシュプレヒコールが中国の民主化運動の人々の叫びと重なって、何だかちょっと気恥ずかしいような気持ちにもなっていきました。

文学については素人の私にもいくつか違和感がある日本語の表現を感じましたが、楊逸さんの気魄のようなものが強く感じられて、熱中してしまいました。文中に散りばめられた漢詩や日本人が余り使わないような漢語表現が面白かったです。

物語は中国で1989年に起こった天安門事件の前年から21世紀の扉を将に開こうとするところで終わります。主人公浩遠の中国の民主化運動への思いとその変遷の様子が描かれています。


一読した後、選考委員の先生方の評を読むとどれもそれなりに納得できるように思いましたが私は次の作品をさらに期待したいと思いました。


天安門事件からもう19年の歳月が流れました。日本でも大きく報道されましたがそれは中国の民主化を求めてデモを行った学生や市民が政府の戦車部隊によって弾圧され多くの犠牲者が出た事件でした。

事件から8年後の1997年8月、私は初めてこの天安門広場へ行きました。何事もなかったかのような静寂をとりもどした真夏の太陽が照りつける広場は何メートル毎かに立つ警備員の他はのんびりと行き交う国内外の観光客のみ、広大な広場を歩きながら映像で見た事件のことを考えていました。

楊逸氏のこの作品は、そんな私の記憶を呼び起こさせるとともに中国の当時の学生たちがあの事件をどう見ていたのか、そしてまたそれぞれの人生を歩みながら年を重ねていく中でどんな心の変遷を辿っていったのか、その一部を感じることが出来たように思いました。

ただ、終わり方は「えっ!これでおしまいなの?」という感じでもありました。
もう少し先を書いて欲しいような・・・。最後のふるさとに関する記述と終わり方はやはり少しだけひっかかりました。数日後もう一度最後のページを読み返してみると「やはり、これが無難なのかな。」と思えてきました。日本という異文化の中で生きる主人公浩遠をちょっと応援したくなるような、そんな微妙な思いが湧き上がったところで終了しています。

ですから、私はこの作品の題名「時が滲む朝(ときがにじむあさ)」の読みの朝を古典的に「あした」と読ませてみたいような気がしました。
読者のその微妙な自由度こそが日本語の特徴のひとつではないでしょうか。