いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

水曜の朝、午前三時

2007年01月18日 | 小説
 去年の夏、上野へ出かけた帰りに新幹線の中で読む本を探そうと御徒町駅近くの明正堂書店に入ったとき、文庫本の新刊コーナーで読書家としても知られる俳優の児玉清氏絶賛の文字が目に留まりました。本の題名は「水曜の朝、午前三時」。「あれっ?どこかで聞いたことある言葉!」サイモンとガーファンクルの曲に同名のものがありました。申し訳ないのですが、その時点ではまだ著者の蓮見圭一氏についてはよく知りませんでした。でも題名から連想する若き日の懐かしい思い出に揺さぶられ、児玉氏絶賛の本なら是非読んでみようと迷わず購入したのがこの本でした。

 最初に読んだのは東京ー京都間の3時間半のぶらっとこだまのグリーン車の中でした。私自身の70年代の記憶が次第に膨らんでいくの感じながら、物語の展開に夢中になっていました。読み終わってすぐに会った京都の友人に「これはとても良かった」と言って渡してしまったのですが、それから数ヶ月が過ぎて、急にまたあの懐かしさと感動を取り戻したくて再び同じ本を買ってしまいました。今度は地下鉄に乗って出かけるときに持ち歩くバックの中に入れて小刻みに読みながら、時間制限つきの70年代へのタイムスパイラルを楽しみました。

 1970年というと、当時高1だった私は夏休みに初めて東海道新幹線に乗って万博を見に大阪へ行きました。連日うだるような暑さの中、有名パビリオンはどこも入るのに長蛇の列、今思えば人が多かったことと、暑かったことだけが印象に残ってパビリオンで何を見たのかさっぱり覚えていません。かなり意気込んで行ったはずなのに・・最初は高度成長期の日本の、平和な時代のシンボルのように感じていた太陽の塔も、最後は暑さと疲労でぐったりしていた私にはニヒルなお化けのように見えてきました。ただ、コンパニオンの女性たちは、当時の私にはとても素敵に輝いて見えました。
 
 この本は昭和22年生まれの直美という女性が45歳の若さで脳腫瘍で亡くなり、娘に宛てたテープを聞きながら娘婿の僕がその軌跡を辿る形で展開します。彼女は今で言うトレンディなイメージを感じさせる女性で1970年の大阪万博のコンパニオンをしていた当時の恋愛を中心に彼女の半生が語られます。

 物語の中でオールド・ファッションド・ラブソングやボブ・デュラン、ジャニス・ジョプリンなど懐かしいメロディやミュージシャンの名前の文字を目にするたびに、不思議な臨場感を味わうことが出来るのはやはり世代が近いからでしょうか。でも何故か肝心のサイモンとガーファンクルの文字はありませんでした。

 私は夏の終わりに東京に戻った後、すぐにいろいろな東京の友人にもこの本を紹介しました。同世代というより少し年上の団塊の世代の人たちの反応は驚くほど早かったです。偉そうなことはいえませんが、ちょっと構成が甘いかなと素人の私が思うような部分も感じないではないのですが・・・。とにかく何故かとても心に響く本です。
 それはこの物語の核になる直美という女性の生き方が、団塊の世代やそれに続く1950年代生まれの世代の多くの女性たちが辿ってきた人生のもしもあの時こうだったらと思う時の何かを非常に巧みに言い当てているからではないでしょうか。
 短大や大学を卒業して就職しても結婚すると専業主婦になる人がほとんどだった時代。それに逆らう生き方をする女性に対する世間の風当たりはきつく、まず多くの女性が保守的な親との確執を経験し、結婚後は夫や夫の両親や親戚との葛藤を経験したことと思います。
 それよりもまずまだまだ古風な考え方が浸透していた時代ですから、新しい時代へ踏み出そうとする世の中の流れと自分自身の生き方への葛藤の日々を送っていたのかもしれません。
 
 思ったとおりに生きようとする直美はストレートで強い女性に感じますが当時の恋人が朝鮮人だと発覚すると、それを彼が隠していたことからあっけなくその恋を終わらせてしまいます。もし、それが現代のことなら国籍のバリアーは相対的にはずっと低くなっているように感じますから、小説の展開としては納得しがたいところですが、「ああ、このころはまだこういう問題も微妙だったかなあ」という思いが広がります。だから彼女は彼の面影をずっと持ち続けることになるのでしょうね。 

 彼女のテープは最後は「人生の宝探し」という言葉を使って結ばれています。「僕」はその後の様子を少し書いていますが・・・これは次第に湧き上がる感動に引きずられながら最後は穏やかな気持ちで完結する読み応えのある小説でした。