いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか  日高義樹 著

2013年06月20日 | その他
人類が放射線を発見したのは1895年といわれています。レントゲンがX線を、ベクレルはウランが発するアルファ線をその後キュリー夫妻がラジウムを発見しました。20世紀に入って科学は急速に進歩し1930年代には核エネルギーが発見されました。それは非常に短期間のうちに原爆の開発へと進み、1945年には、アメリカで3つの原爆が作られました。ひとつ目は1945年7月にニューメキシコ州の砂漠で実験用として使われ、残りの二つは広島と長崎に投下されました。

「何故アメリカは日本に二発の原爆を落としたのか」という長い題名を目にした時、アメリカ在住のジャーナリストの日高氏は日本人に何を伝えたいのかちょっと興味を持ちました。

戦争を知らない世代の私が初めて広島と長崎の原爆について認識したのは小学生のころだったと思います。当時、まだ白黒だったテレビでNHKの特集番組を見ました。そのころは幼すぎて放射能とか核エネルギーという認識はなく、何かとてつもなく大きな爆弾が投下されて日本はもうこれ以上人々の命を犠牲にできないということで無条件降伏し、戦争が終わったという認識だけでした。母は東京大空襲の恐ろしさを繰り返し語り、戦地へ送られた経験を持つ父は当時はまだ戦争の話をほとんど語りませんでした。
私が中学、高校生のころは東西冷戦、ベトナム戦争の真っ最中、アメリカの次は、ソ連、イギリス、フランス、インド・・・・徐々に核兵器を持つ国々が出現しました。

最近になって沖縄に核が持ち込まれていた事実が明らかになってノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作元総理の非核三原則(もたず、つくらず、もちこませず)が真っ赤な嘘だったことが発覚したのは記憶に新しいところです。

さて、話を本題に戻します。
1945年4月12日、ルーズベルト大統領の死によって就任したトルーマン大統領は不人気であったといわれていますが「戦争をやめさせるために原爆投下を行い、多くのアメリカ人の命を救った。」と自らを宣伝し再選されたと言われています。この表向きの理由が戦後広くアメリカの人々の間で信じられ、原爆の正当性が語り継がれてきたようです。

「何故アメリカは日本に二発の原爆を落としたのか」
2~3年前、毎年来日しているアメリカ人の知人のAさんから、「トルーマン大統領が戦争を早く終わらせるために原爆を使用したというのはアメリカ国民に原爆使用の正当性をアピールするための表向きの理由で本当はそうではなかった」ということを聞いたことがありました。
「1945年7月には日本は降伏の意思を持っていたことを知っていたトルーマンは単にソ連にアメリカの威力を見せつけたかっただけだった。」といった内容だったと記憶しています。

原爆の開発を進めたのはルーズベルト大統領でしたが、1945年2月のヤルタ会談に出席したルーズベルトがその直後の4月に亡くなりました。当時副大統領だったトルーマンが就任し、その後ドイツが降伏、最終的に日本への原爆投下を決断しました。

日高氏はここでトルーマンの人間性について、そしてさらに踏み込んで白人が有色人種に対して持っている人種的偏見についても言及されています。事実、第2次大戦中の日系人の強制収容はその第一歩であったということです。

実際に私自身も1970年代後半から白人社会で生活してみて、当時、先に現地へ飛び込んで行った先輩の日本人たちから、またアジアやアフリカの有色人種の友人たちから人種差別の問題について嫌というほど聞かされたことがありました。つい最近でも白人社会で生活をした経験を持つ日本人の多くが何らかの形でこの人種的偏見が存在することを感じたことがあるようです。

この本を読み進めていくうちに指導者としてはふさわしくない人間が国の指導者になれば、時には重大な間違いを犯し、21世紀の現在なら人類すら滅ぼしかねないという恐ろしさを感じるようになりました。

日高氏はこの本の中でこんなことを言っています。
「1945年の日本の都市は焼き尽くされて、毎日大勢の市民が死んでいた。日本の降伏は目前だった。だがアメリカは兵器としての原爆の効果を実験するためもあって原爆投下を実施した。」さらに「この行為が人種的な偏見に基づいていたと批判されてもアメリカは反論できないだろう。」と言っています。

最後に日高氏は原発の問題や今後の日本がどうあるべきかを言及されていますが、この部分についていくつかは今の私は賛成できないので敢えてここでは書かないことにします。

ただ、21世紀の現在は2国間同志の問題もグローバルに絡み合っているかもしれないことが多いように思われます。でも、その調整に必要なのが、罪のない人々を巻き込むかもしれない武器であってはならないと思うのです。