一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
最初から。
この世には正しいといえる答えはその人それぞれで何通りも存在します。
そうです。曼荼羅の世界です。
あの曼荼羅には如来から菩薩、天女から人を食う鬼までえがかれています。でもすべてを宇宙をあらわす世界として肯定しているのです。
つまり誰かにとってとても憎い相手も神仏の目線からすれば愛おしい我が子になります。
これはなかなか信仰心のある人は理解しがたいでしょう。何故なら信仰熱心な方ほど自分のみを肯定する、自分のみが神仏に近いとする考えに陥りやすいからです。
つまりすべては五十歩百歩だった。つまり変わらなかった。
はじめから増えもせず、減りもせず。無くなりもせず、生まれず。
すべては在った。最初から。
手塚治虫の「火の鳥」を読むと登場人物はすべて何かしらのジレンマをもってこの世で生きています。
つまり不完全。ブッタのような存在は稀でこの世の不条理から抜け出られないでいます。
そしてあの世へと旅立っていく。不老不死を手に入れてもまるで苦しみから抜け出ることができない。
さて、この世とあの世はつながっていてこの世で幸せになれなければあの世で幸せになるはずがないというのが真言宗の考え方です。
真言宗の僧侶にしろ幸せな人はどのくらいいるのだろう。
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