写真の百科事典。
先日、妻の実家から息子が持って帰って来たモノ。
別に、息子のために義母が買ってくれたモノではなく、
ずっと実家の押し入れにあったモノだそうだ。
たぶん、妻か義兄が子どもの頃に買ってもらったもの
なのだろう。
・・・ということは、今から40年近く前の代物という
ことになる。
念のため、裏表紙を見てみた。
出版会社や印刷会社の名前とともに、そこにはこの事典が
印刷された年が記されてあった。
1968年。
つまり、今から43年前の事典だ。
さすがに中身は40年の時間を感じるデザインやレイアウト
だった。(イラストは手描き、文字は写植)
しかし、僕が目を奪われたのは、写真にも載せたその表紙である。
配色などに当時の流行であった、いわゆるサイケデリックな雰囲気が
感じられるが、しかしそれも今見ても、さほど気にならない。
何よりも、事典に掲載されてある様々なモノをピクトサイン的に
イラスト化してレイアウトしたそのセンス。事典の内容が一目で
分かるそのデザインに、僕は唸ってしまった。
別に斬新な手法なわけではない。
だが、手垢のついた表現になってしまうが、この表紙のデザインは、
今でも十分に通用するデザインなのではないだろうか。
仕事柄、僕も冊子やパンフレットのデザインをすることが多々ある。
そういう仕事をする時、必ず“表紙のデザイン”というモノと対峙する。
当たり前だが、表紙のない冊子やパンフレットなどないのだから。
そうすると、どうしてもゴチャゴチャと凝ったデザインにしようと
してしまう。
しかし、これは僕だけではないような気がする。
世の中にあふれる様々な印刷物の表紙を見ると、“これでもか!”という
ほど執念にも似た凝ったデザインに徹した表紙がなんと多いことか・・・。
時代の流れ、と言われればそれまでだが、はたして20年後、30年後に
それらの印刷物の表紙が、この事典のように誰かを唸らせるような作品として、
またデザインとして残るかどうか、疑問だ。(これは僕のデザインも含む)
たしかにデザインというモノは、時代と寄り添っていなければいけない
モノだと思う。それはある意味、デザインの宿命かもしれない。
しかしモノによっては、時代という概念を軽く飛び越え、この事典の表紙の
ように、いつの時代も通用するようなデザインもあるのだと思う。
ひと言でいえば、これも陳腐な表現だが、“普遍性”ということになるのだろうか。
この事典の表紙のデザインは、何も凝っていない。
ただただ、この本の特性を読み手に瞬時に理解できるように、極力シンプルな
デザインで表現しようとし、そしてそれに成功している。
僕が息子の隣で「お父さん、この表紙好きだなぁ・・・」と無意識のうちに独り言
のように呟いたら、息子が「うん、僕も好き」と言った。
43年前のデザインが、8歳の息子に通用したのである。
この事典の表紙を誰がデザインしたのか今では特定できないが、デザイナーにとって
これほど嬉しいことはないのではないだろうか。
時代を飛び越える普遍のデザイン。
いつか、自分にも創れる時が来るのだろうか。
それとも、今まで僕が創ったモノの中に、そういったデザインはすでにあるのだろうか。
分からない。
それはこれから先、ずっと先、それこそ僕が生きているかどうか分からないような
はるか未来にしか答えはないのだろう。
そんな先のことよりも、今を生きるのに精一杯だよ(笑)
先日、妻の実家から息子が持って帰って来たモノ。
別に、息子のために義母が買ってくれたモノではなく、
ずっと実家の押し入れにあったモノだそうだ。
たぶん、妻か義兄が子どもの頃に買ってもらったもの
なのだろう。
・・・ということは、今から40年近く前の代物という
ことになる。
念のため、裏表紙を見てみた。
出版会社や印刷会社の名前とともに、そこにはこの事典が
印刷された年が記されてあった。
1968年。
つまり、今から43年前の事典だ。
さすがに中身は40年の時間を感じるデザインやレイアウト
だった。(イラストは手描き、文字は写植)
しかし、僕が目を奪われたのは、写真にも載せたその表紙である。
配色などに当時の流行であった、いわゆるサイケデリックな雰囲気が
感じられるが、しかしそれも今見ても、さほど気にならない。
何よりも、事典に掲載されてある様々なモノをピクトサイン的に
イラスト化してレイアウトしたそのセンス。事典の内容が一目で
分かるそのデザインに、僕は唸ってしまった。
別に斬新な手法なわけではない。
だが、手垢のついた表現になってしまうが、この表紙のデザインは、
今でも十分に通用するデザインなのではないだろうか。
仕事柄、僕も冊子やパンフレットのデザインをすることが多々ある。
そういう仕事をする時、必ず“表紙のデザイン”というモノと対峙する。
当たり前だが、表紙のない冊子やパンフレットなどないのだから。
そうすると、どうしてもゴチャゴチャと凝ったデザインにしようと
してしまう。
しかし、これは僕だけではないような気がする。
世の中にあふれる様々な印刷物の表紙を見ると、“これでもか!”という
ほど執念にも似た凝ったデザインに徹した表紙がなんと多いことか・・・。
時代の流れ、と言われればそれまでだが、はたして20年後、30年後に
それらの印刷物の表紙が、この事典のように誰かを唸らせるような作品として、
またデザインとして残るかどうか、疑問だ。(これは僕のデザインも含む)
たしかにデザインというモノは、時代と寄り添っていなければいけない
モノだと思う。それはある意味、デザインの宿命かもしれない。
しかしモノによっては、時代という概念を軽く飛び越え、この事典の表紙の
ように、いつの時代も通用するようなデザインもあるのだと思う。
ひと言でいえば、これも陳腐な表現だが、“普遍性”ということになるのだろうか。
この事典の表紙のデザインは、何も凝っていない。
ただただ、この本の特性を読み手に瞬時に理解できるように、極力シンプルな
デザインで表現しようとし、そしてそれに成功している。
僕が息子の隣で「お父さん、この表紙好きだなぁ・・・」と無意識のうちに独り言
のように呟いたら、息子が「うん、僕も好き」と言った。
43年前のデザインが、8歳の息子に通用したのである。
この事典の表紙を誰がデザインしたのか今では特定できないが、デザイナーにとって
これほど嬉しいことはないのではないだろうか。
時代を飛び越える普遍のデザイン。
いつか、自分にも創れる時が来るのだろうか。
それとも、今まで僕が創ったモノの中に、そういったデザインはすでにあるのだろうか。
分からない。
それはこれから先、ずっと先、それこそ僕が生きているかどうか分からないような
はるか未来にしか答えはないのだろう。
そんな先のことよりも、今を生きるのに精一杯だよ(笑)