ぴよぴよカウンセリング 心と身体と魂を繋ぐよろこび

理想のライフスタイルを確立するサポートを、自立を目指すあなたと共に、自らの学びと成長を現実的に達成して行く、今ここから。

人の存在価値

2004年11月25日 | 今感じる気持ち
自分の存在価値をどのように人から感じられているかが気になるときがある。
人間を価値で評価することは、私は嫌いだけど、
気が付けば、自分も評価されたいと感じていることに気が付く。

以前、男性から僕は君にとってどんな価値があるのか?と問われたことがある。
私としては、友達に価値なんて感じたことも考えたこともなかったので、
そんなふうに私に対して自分の存在を考えているその人が気持ち悪くなった。
それは、逆で考えると、私も彼に存在価値を評価されているということにつながるように感じたからだ。
失礼だと思った。

物質的には数の少ないものや、高価なものを価値のあるものと言えるかも知れない。
でも、その人にとって、なくてはならない存在のものも、価値があるといえる。
それが人間だっておかしくはない。
でも、私は不愉快に思えた。
なぜ、不愉快だったのだろう?

相手の気持ちがわからなかった。
なんで、そんなことを私に言ってくるのか。
価値があると思ってくれなければ、一緒にいれないと言われた。
そして消えてった。

今私が思うことは、あのときの私は、価値という言葉に何らかの偏見があって、
いろんな視点から考えることも見ることもできなかったのだろう。
彼は、相手に対して「特別に扱ってほしい」と思う気持ちが
価値とゆう評価をされることにつながっていたんだろう。
好きな人には特別に扱ってほしいものである。
そうだ、彼は私が女性として好きだったのだ。
そんなこともわからずに、私はたぶん彼を傷つけてしまったであろう。
自分が実際同じような経験をしてから気が付くことってものすごくある。
それが、学習なのだ。学習して認知する。
認知がかわれば、見方もかわる。

今ならなんとなくわかる。
「存在価値」という言葉を私自身も使うことがある。
人にとっての存知価値は、
相手に対して、私はここに居るよ!というメッセージではないだろうか?


うまくいえないけど、「存在価値」という言葉に深く何かを感じてしまう
今の私である。
これを卒業論文のテーマにしても十分いけるような気がする。
トランスパーソナル心理学の本を読むと、必ず出てくるこの言葉。

考えをまとめたいけど、今は無理そうだ。
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夢のフォーカシング

2004年11月14日 | ワーク、セラピー体験
教育分析を受けている先生からお誘いを受けて、セミナーへ行ってきた。
私の先生は多分野の勉強をしている。
私は先生が勉強している中でもフォーカシングに興味があって、
感覚やイメージを感じたりそれを形にしたりすることで自分の無意識を知ることが出来るこの技法を習得したいと感じている。
その、フォーカシングと夢分析の合体したような今日のセミナーのネーミングで、
かなり難しいセミナーなのではないだろうかと考えながら、勉強職の強いと思われる今日のセミナーに参加した。
しかし、想像していたよりもはるかに、講義は楽しかったし、解りやすかった。

講師は福岡大学の田村隆一先生。
ものすごく個性のある先生で、楽しい方だ。
あんな先生の講義なら大学でたのしく学べるだろうし、
彼のカウンセリングを受けてみたいとセミナーを聴きながら思った。

セミナーの内容は、午前は夢を題材としたフォーカシングの概要と技法の説明、
午後からは先生のセッションと、自分たちのグループセッションで、
10時から17時までみっちりのスケジュールだった。

夢のフォーカシングは、フォーカシングよりも、短時間でフェルトセンスをつかめるし、
クリアリングスペースを取る必要も無いのだ。
いたって簡単、シンプルなのだ。
私にはそうおもえた。
フォーカシングでは、まず自分の気にかかっている気持ちを見つける作業がある。
だけど、夢のフォーカシングでは夢がきっかけとなる題材なのだから
気づきも早いし、何より、イメージがもうすでに出来ている状態なのだ。
しっかり出来ているから、イメージ力が少ない人でもやりやすいだろうと思った。

フォーカシングでは、フォーカサーのみが自覚していたり、知っていればいい情報や気持ちが主なのだから、カウンセリングのようにカウンセラーがクライエントに起こった話の内容のすべてを把握する必要性は無い。
リスナーの質問に応じて、自分で感じて、変化するのはフォーカサー自身だ。
それを本人が感じられていれば、内容を話さなくてもいいし、極端な話嘘を話してもいいのだ。
これを、聴いたときは本当にお得な感じがしたし、気軽な気もした。
カウンセリングのように、守秘義務を気にすることなく、クライエントは話せるわけだ。
しかも、先生は一生懸命やらないとか、自分が楽しいめるように遊び感覚でやってくださいという。
笑いが私の中から出た。
フォーカサーが中心ではなく、自分が中心に感じたからだ。
カウンセリングを覆すこの技法はなんだ!?
ただ、カウンセリングの基礎的な知識は根底に必ずある。

夢は単に夢なのだ。
実際の出来事とは違う。
だからこそ、セッションをいきなり中断することも可能だ。
その架空の話の中に眠る自分の無意識に触れるきっかけとなるのが夢。
そのことに気が付けば、どんなセッションにも失敗は無いように思える。
リスナーは聴きたいことを聴いてもいいし、フォーカサーは言いたくなければ言わなくてもいいのだし、
リスナーの投げかけで、勝手にきもちが動いたりしても、その動いた内容はフォーカサーのもので、
リスナーはしらなくてもフォーカシングはすすんでいく。
夢だからこその投げかけがある。
ものすごく勉強になった。

セッションのとき、何度か自分の意見を言いたい衝動に駆られた。
話の詳しい内容がしりたいと感じた。
話したくなければ、話さなくていいですよ。
とか、言いながら、知りたい~~。とものすごく感じている自分に気がついた。
私のどの言葉にあなたのどの部分がどんな風に反応して、どこでどんな風に腑に落ちたのか、
知りたい、一緒に味わいたい~~とものすごく思った。

これが、カウンセリングとフォーカシングの一番の違いなのかなぁと
今日の私が一番思った部分だった。

技法は楽だけど、気持ちのもどかしさがある。
それにも慣れて、柔軟な気持ちでフォーカシングが出来るようになるには10年かかりました~。
って先生が言われていた。
そらそうかもしれないなぁ。

先生に今日出会えたことは私の中で何かへの気づきになっていると思う。
上手くはいえないけれど、そう思えた。

今日出会った人たち。
またひとつ、自分の道が出来た。

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ふと、思い当たった

2004年11月11日 | 今感じる気持ち
以前、同じ心理学の勉強をしている子が、優しさについて語っていた。
「人に対しての優しさとは・・・」みたいな内容で、結論がでないままだった。
今日、ふと思ったのは、自己満足でも「相手のためになる」と思えていればそれで優しさといえるのではないだろうか?と言うことだ。
相手にしてみれば、おせっかいに写るかもしれない。
でも、その人にしてみれば、相手のことを思っての行動なのだから、
良心からの行為だし、それでいいのではないだろうか。

カウンセラーとしての優しさはまた少し違った必要性も出てくる。
相手のために、わざと厳しい言葉を投げかけることもあるだろう。
でも、それは相手を傷つけるためではなく、その先の相手の気づきのため、
楽に生きられる人生の一歩になるようにという観点からの言葉なのだ。
「対決」これもまた優しさ。
優しさの定義は「愛」なくしては語れない。
と、今日ふと感じた。

まだまだ、浅い考えだとはおもうけど、
今日起こった私の心の声でした。
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色々な勉強

2004年11月08日 | 今感じる気持ち
心理学を勉強しだしてから、知ったことの多いことったらない。
心理学に関してだけではなく、色々な分野があって、色々なことをしている人がいる。
世間には私の知らないことがまだまだ一杯あるのだなぁと思い知らされる。
そのたびに、焦る気持ちに自分自身が押し潰されそうになっていた。

しかし、この頃の私は焦りをあまり感じない。
そのことを、今日はっきり感じた。
今出来ることと、出来ないことが自分で把握できているからなのだろうか?
これは、この前の添削で自分が学んだ気持ちだ。
人の添削をしながら、自分を学ぶ。
それが、人生を私が一歩づつ進んでいっている実感となっている。
毎日色々なことに気が付く。何かを学ぶ。

それが、自分を駆り立てる何かに繋がることもある。
それもまた大切なのだけど、出来ないことを味わうこともまた大切なのだ。
それが出来るようになったことが、今年一番の、私の成果ではないかと思う。

自分を評価するのはいいのか悪いのか、自分を無意識のうちに評価して、
他人と比べて、他人の価値観で自分を見たり、
今現在到底実現できないであろう高い目標を与えて、出来ない自分に×ばかり与えていた。
他人を冷静に心理学の目から添削することで、自分が見えることもある。

今居る自分の場所は、自分が築いてきた場所で、
存在していていいのだと、自分が心から安心できる場所である。
周りは、どんどん前に、新しい事に進んでいる。
私はもう少しゆっくり、自分が出来ることをまずやる。
人間は体力が基本なのだと改めて思う。心理学も例外ではないそうだ。
自分に力をつけて、そして、もっと磨いていける余裕が出来たら、
やりたいと思うことをやっていこう。
それだけの時間は、私にはまだ残っている。
人生の半分くらいしかまだ生きていないのだから、後の半分を今から生きることが出来る。
人間はどこからでもやり直しが利く。
例えば、それが死ぬ間際だったとしても、そこで気が付けた自分がすばらしいのだ。
そのための今までの人生だったと思えるだろう。

死ぬときに、生きててよかったって思いながら死にたい。
そう思えたらどんなに幸せだろう。
自分のずべてを認め、受け入れられ無い人生を過ごしてたとしても、
死ぬ間際にこころから受け止められたら、認められたら、
それでいいのではないかと思う。
これは極端な話だけれど、そんなことを最近感じている。



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アンパンマン

2004年11月07日 | 今感じる気持ち
今日、アンパンマンを見た。
子供はもう来年小学校なので、最近では見ることがなかったのだけど、
たまたまテレビでやっていたので見てしまった。

「見てしまった」と言う書き方をすると、
まるで見てはいけないものみたいな感じがしませんか?
実は私の中ではあまり見たくないマンガなのです。
それは、自分が大人気なく感じてしまうから。

アンパンマンの中にバイキンマンとドキンチャンという悪キャラが登場する。
そのキャラクターは悪役で、わりと可愛く描かれている。
ポケモンでいう、ロケット団のような存在・・・ちょっと違うけど。
まぁ、退治するとゆうよりは、やっつけろ~みたいなノリで、憎むべき存在のようには描かれていないのだ。
いい意味、いたずらが過ぎる天邪鬼な寂しがりやさん的キャラクターに
作者は作ったんだろうなぁと思う。
でも、私はそのキャラにとても怒りを覚えてしまう。
いたずらとはいえ、やることが酷すぎる。
子供番組なのに、真剣に腹が立ってしまうのだ。
そんな自分がちょっと、恥ずかしいとゆうか、大人気ないとうゆうか
あのマンガを見るたびに、腑に落ちない気持ちで一杯になるのだ。
出てくるキャラクターとかも、面白いけど、物語の内容がたまに嫌なときがある。
幼稚園児くらいの年齢の子供向け漫画だし、大ヒットしたマンガなのに、
私はあまり好きではない。
多分、私が今子供だったとしても好きではなかったともう。

基本的に漫画が大好きなので、今でも一日のうち毎日2時間以上はマンガを見ている。
昔のマンガから、現代のものまでいろいろあるけど、
アンパンマンはどうしても好きになれない。
親が見ないから、子供もめったに見ない。
だけど、不思議に子供はキャラクターのことをよく知っている。
どこで覚えるのだろう?

今は、NARUTOにはまっている^^

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言葉のニュアンス

2004年11月05日 | 今感じる気持ち
ふと口から出る言葉で、相手に与えてしまう印象はさまざまだ。
それを実感する出来事が今日あった。

何気なく使った言葉にも、自分の感情は必ず反映されている。
無意識のうちに言葉にこもってしまうのだ。
それは、私の場合、悪い感情が大半だ。
いい感情は言葉にしやすい。
○○なんか!迎えにいけない・・・って言い方をしてしまった私に対して、
帰ってきた交流は交叉的交流だった。

○○なんて大嫌い!の「なんて」と同様の意味がこもっていたと私は感じる。
相手にしてみれば、そういう言い方をされたものに対して、
それが私にとってどうでもいい存在のように聞こえてしまったのだろう。
そんな風に言おうと思ったわけではなかった。
でも、言葉で出てしまった。

でも、実際私の中に怒りは存在していた。
彼女に対して、腹立っていた。認めたくは無かったけれども
確かに存在していた気持ち。
だから、彼女に関連するすべてにあてつけたかったのかもしれない。腹立っていたのかもしれない。
もし、私が逆の立場でそんな風に言われたら、きっと悔しい気持ちになるだろう。
なんだよ!もう頼まないよ!って言ってしまったかもしれない。
彼女から、そういわれて自分の裏の感情に気がついた。
それで、やっと、繕ったとゆうか、冷静になったとゆうか・・・。
彼女のためにと思ってしたことが、評価してもらえなかったことの悔しさと、
自分も楽しみにしていたのに、没になってしまったことの残念さで
なんだか、報われない気持ちになってしまった。
私の気持ちも知らないで、早くから遊びに行く計画まで立てて、
かってに、予定変更して、一体何様よ!って思っていた。

朝からそんな風に始まった今日はなんだか一日ついていなかった。

夕方まで、やることが山積みでも、頭はすっきりせず、気持ちの整理もつかず、
朝の出来事は私の中でどの用に処理すればいいのかわからなかった。

でも、冷静に考えれば考えるほど、私のわがままな感情だなと思える。
参加することは、自分から入れてっていったことだし、
最初にメンバーとして加わっていた事ではなかった。
それに、いつも私のほうが仕事でお世話になっているのだから、
こんなときくらい、いいじゃん!って思えてきた。
そら、参加できたら楽しかったかもしれない。
でも、無理して参加したらメンバーに気を使わせてしまうのが目に見えている。
だから、断念したんだろ?いいやって思えたんだろ?って自分に聞いてみた。

偉かったじゃないの。いい選択をしたんだよ。
これで、日ごろの恩返しもできたんじゃないかい?って自分を誉めた。

夜、少しだけ話す機会があって、
相補的交流を持つことが出来た。

これで、今日の朝の出来事はちゃらになった。
明日は朝髪の毛を切って、昼から子守りだ。

がんばろう。
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添削仕事、一段落

2004年11月01日 | へにゃちょこカウンセリング日記
先月の第一週月曜日から4回にわたっての通信コースの添削作業が終了した。

学校の卒業テストを受けてから、幾日もたたない間に回ってきた仕事。
自分にほんとうにそれだけの力があるのか・・・ものすごく不安ではじめたこの仕事。
今までとはわけが違う、練習ではない。本当の意味でのお仕事なのだ。
スーパーバイズが付いている間、報酬はないけれど、確実にお金が発生しているのだから、と思うと気合が入った。

毎週送られてくる回答を、怖いと思いながらも楽しみにしていた。
生徒さんとのメールでのやり取りは、会って話すよりも難しい。
表情や、声のトーンもわからない。文章から読み取れる状況しかわからない。
だらか、いろいろなパターンをすべて書き出す必要性があった。

参考にしてねと渡された資料の回答例よりも、私は毎回3~4ページ多い返答となっていた。
最終は、倍近くの枚数となった。

初めての添削は、自分にとってとても気づきの多いものだった。
生徒と一緒に、自分への気づきもあり、また、今まで勉強してきた知識をフルに生かせる場なのだなぁって改めて感じた。
いろいろな分野の理論復習や、内容確認や・・・私が普段面倒くさくて省いてきた作業をまるであたりまえのようにこなせている自分が居た。
それは、とても嬉しい気づきでした。できるんだなぁわたしも。そう思えた一瞬でした。

生徒の回答と、私の内面は少し似ているようにも感じていた。
私は自分があまり好きではない。
でも、反動形成からか普段は自分が大好きで大切にしていると思っている。
教育分析で自分が新たに気が付いた自分は、潔癖なところがあって、世間の常識を守れない自分が許せなかったり、
やさしくない自分や、自分のために行動する自分を認められない。
他人がしても、いいじゃん!って思えることも、自分が同じ事をしたら、×をつけてしまう。
そんな私には、今回の添削は自分自身への添削とも言えたのではないか?と感じている。

SV修正を掛けられることなく、そのまま生徒に送ってもらえたことが何より嬉しかった。
教育分析の先生には何度か電話でアドバイスを受けた。
やっぱり、足りない目線がまだまだ私にはある。
今回、とっても勉強になった。
本当に有意義な一ヶ月でした。

休むひまも無く、今月また8日月曜日から次の添削は始まるのだった。^^;
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