ひろむしの知りたがり日記

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木村政彦と大山倍達 (2) ─ “柔道の鬼”に憧れた“空手バカ”

2014年09月21日 | 日記
『空手バカ一代』では大山倍達と木村政彦の出会いは、目白御殿を追われて貧乏のどん底に陥っていた倍達が、質屋帰りにたまたま家の近所でやっていたプロ柔道の興行に立ち寄り、木村の闘いぶりに自分と同じ恵まれぬ真の強者の姿を見て、感動のあまり控え室を訪れたことに始まります。
昭和25(1950)年に旗揚げしたプロ柔道は、わずか8ヵ月で頓挫してしまいますので、その間の出来事ということになります。感動的なシーンですが、実際に2人が知り合ったのはそれよりずっと以前、木村がまだ拓殖大学の学生だった頃でした。

倍達は幼い頃、すでに柔道界の新星として活躍していた若き日の木村の写真や記事を雑誌などで見て、「木村政彦のように強くなりたい!」と憧れていました(大山倍達著『大山倍達、世界制覇の道』)。
いわゆる“大山倍達伝説”によれば、倍達は山梨航空技術学校を卒業後、上京して拓殖大学に入ったことになっています。彼自身も、木村に近づきたくて、拓大司政科に入学したと語っています。
ところが、倍達が拓大に在籍していたという正式な記録はありません。戦後の混乱で紛失してしまった可能性も否定はできませんが、木村と倍達が同窓の先輩後輩の間柄だったかどうかは、定かではないのです。

倍達の自叙伝『大山倍達、世界制覇の道』

木村と倍達の邂逅の場は拓大ではなく、義方会であったようです。
京都に本部のある義方会は、もともとは柔道の道場でしたが、創設者の福島清三郎が教えていた立命館大学で空手部主将の山口剛玄と知遇を得て、空手部門が創設されました。そこで山口とともに指導に当っていたのが、倍達の青春時代に多大な影響を与えたソウ・ネイチュウです。

ソウは祖国朝鮮の独立を目指す民族運動家でもあり、倍達は渡日する以前に彼と出会い、日本・中国・満州の大同団結を唱える石原莞爾<いしわらかんじ>の東亜連盟思想を知らされ、剛柔流空手を学びました。そして、日本に来てからもソウを頼り、義方会道場に隣接して建てられた外国人留学生のための寮、協和塾(塾頭はソウ・ネイチュウ)に住み込みます。
一方の木村は、師の牛島辰熊が福島と親交があり、前回書いたように自分の修行に空手を取り入れていたので、松濤館流の船越義珍のほか、義方会東京支部へ指導に来るソウからも剛柔流を学びました。また逆に木村が京都本部で指導することもあり、そんな縁で、木村と倍達は巡り会います。

義方会を作った福島は、ソウを空手部門の指導者や協和塾の塾頭にするだけあって、やはり石原莞爾の思想に傾倒し、東亜連盟活動に協力していました。京都の義方会本部道場の前に、「東亜連盟関西支部」という看板を出すほどの入れ込みようでした。
牛島もやはり石原に私淑し、太平洋戦争末期に戦いを止めるため、東條英機首相(陸軍大臣・内務大臣を兼任)の暗殺を企てた際も、当時山形に隠棲していた石原のもとに承諾を得に行っています。

『大山倍達正伝』はソウと倍達の関係を詳述

思想家としての一面を持つ師牛島に対して、弟子の木村は無邪気にひたすら強さのみを追い求め、脇目もふらず稽古に励んでいました。それが木村を空前絶後、史上最強の柔道家にしたのは確かですが、反面、柔道以外の世間的なことにはどうしようもなく疎い、“柔道バカ”にしてしまったのかもしれません。
他方、その半生を描いたマンガのタイトルに“空手バカ”の称を掲げた倍達は、その実、早くから民族運動に携わり、世の中の酸いも辛いも味わい尽くした苦労人でした。彼は、虚実入り混じった“伝説”のベールを身にまといながら、巨大な極真帝国を築き上げていきます。
そのような世渡りの才を持たない木村は、プロ柔道の旗揚げにも失敗し、プロレスに転向するも、倍達と同じ朝鮮半島出身のレスラー力道山との日本一を賭けた試合に騙し討ちを受けて敗れ、失意のうちに残りの人生を送ることになります。

倍達が初めてアメリカに遠征した時、ハワイで会った力道山にこうアドバイスされたといいます。
「アメリカ人は格闘技の勝者など、誰も羨ましがったりはせん。彼等が敬意をはらうのは、金を持っている者だけさ。たとえ、試合相手の足の裏をなめてでも、まず金儲けを考えることだよ」(前掲書)

プロモーターとしての才能に長け、己を売り込むことに貪欲な力道山と倍達の間には、ある意味、相通じる部分があったといえましょう。しかし、倍達の胸の内には、そんな自分に対する嫌悪感が潜んでいたのかもしれません。なぜなら、彼が空手修行を始めたそもそもの動機は、木村の柔道と同じく、どこまでも強さを追究したいという熱い思いだったからです。
そんな自身の二重性を天秤にかけた結果、倍達は木村VS力道山戦では同郷の力道山ではなく、木村側に付きます。そして木村が敗れた際には怒りのあまり、その場で力道山に闘いを挑んでさえいるのです。

それほどまでに強く結ばれた、木村政彦と大山倍達の絆とは、一体どのようなものだったのでしょうか?


【参考文献】
木村修著『『空手バカ一代』の研究』アスペクト、1997年
梶原一騎原作、つのだじろう漫画『空手バカ一代』(文庫版・第5巻)講談社、1999年
大山倍達著『大山倍達、世界制覇の道』角川書店、2002年
小島一志・塚本佳子著『大山倍達正伝』新潮社、2006年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上)』新潮社、2014年

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