GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

静かなサルウイン川の流れ(志賀・栗原喜久次)

2008年06月16日 | 戦争体験

 タイ国境に程近きサルウイン川のほとりモールメンの對岸マルタバンの町に連隊集結、宿営地せし折遂に終戦となる。しかし正式な命令もなきまま二、三日は指揮の混乱をまねき、自由行動に近き有様となる。我が分隊員も一人無断外出、小舟の中にて現地人に殺害を受け兵器被服等取られあわれな姿を引取に行きし事もあり。さんざん苦労の末多くの友を失い、其の上敗戦とは意氣消沈、中には声を上げて男泣きする者も有り。二、三日して中隊全員一堂に集めて隊長より正式な終戦命令と今後の行動についてきびしき訓示あり。これよりは一名のぎせいもなき様全員元気な体で日本に復員出来る様重々の注意。二、三のを点々と移動、烈部隊はピリンに最終的の集結地が決し、車輌部隊であり乍ら一台の車もなく歩行軍。以前ロイコウにて山道に入る折、道ばたの山中に置き去りのまく。ピリンに着きしが民家に宿営は許されず、毎日が中隊ごとの住い作り、幸に当時兵器勤務隊より配ぞくの下士官以下六、七名の木工兵などの専門者が居り大いに助かる。
 盛岡の佐藤、種子嶋の春村、金沢の石井君等諸氏一週間位で住居も出来、そこにて武装解除。なつかしき手塩にかけた小銃など一切取上げと。一銭の小使も残さず引上げ無一文。残るは栄養不良の体のみ、今後三年はがんばれとの事、復員迄のめはな【?】。
 負けし身のつらさ、食糧調達も出来ず、英軍からも支給されず、少々の手持きり、一日二食、オカユ一食、飯盆フタ一ぱい、ドラム缶にて牛の頭をゆでしが、ひらいた目玉のきびわるさ目にうかぶ。
 当時同師団通信隊に同郷の初雁さん見付けて共におどろく。
 間もなく英軍の作業に出る様になり、次第に食糧の支給もあり、日曜などは体操、野球など、又演藝なども始まり少々落付を取りもどした感あり。以上はかりの収容所、今度は本物。
 第一回目のタトン収容所、三、四段の有支鉄線を張りめぐらした廣々とした草原、又宿舎の工築、次の日より近所の山に材料の運船作業、一方はゴム林にかこまれた鉄道もあり、各師団入りみだれ海軍部隊も居り、またかのビルマの立琴になりしもこの辺ではないかと思われる。やはり英軍作業の土方が多い。休日は野球、演藝等あり、割合と氣楽な生活の毎日であった。心細いのは無一文、何一つ買い食も出来ないかごの鳥、ちえが無いばっかりに、一向に日時は不明のまま二回目収容所、鉄道にて行先不明のまま着きしところ、ビルマ中央に近きマンダレー行き本道沿線パヤジイの町、今度は住居も有り一安心。せまい割には人数は大分多い。そこにて二、三ヶ月か、連隊はラングーンに移動となる。いよいよ復員近しと感ずさにあらず、石黒中尉以下中隊で十名、英軍輸送隊要員としてメークテーラ行を命ぜられ連隊と別行動となり南北に。私等は北方に百三十八連隊より派遣の三名と計十三名メークテーラに向ふ。
 メークテーラに於て英自動廠より貨車五台位受領、一つの小隊となり、各方面より集まりて中隊となり、ラシオ雲南方面に宿営して一ヶ月余、又シヤン洲方面にも一月位、原住民に米の輸送(ハンガーオプションとかいふ名前)。作業終って二度とメークテーラ日本人キャンプ村、そこには烈の歩兵部隊五八、百二十四連隊、一三八連隊、他に二、三の部隊、昭和二十二年(1947)の四月中迄輜重の石黒小隊として御世話になる。百三十八連隊などと共にラングーン港にて上船、大文丸の人となる。
 途中シンガポールにて小休、一路本国、佐世保港着、上陸。旧海兵団宿舎四、五日の復員事務、五月十二日復員、早岐の駅にて汽車に、軍用列車とは名ばかり、のせぬ筈の一般の人でぎっしり、負けし兵は尚更小さく、乞食の様な兵隊の荷物も重々紛失する仕末。つかれてやっとの思いでかへる兵士のひざの上にモンペで腰下す人、手荷物を無音で置く婦人など居り、男性は入り来る人は見かける事はない。人の心、町の様子、意外の変化におどろく。

    現役 昭和十四年(1939)三月一日入営
       満洲奉天関東軍
       自動車四連隊四四七部隊四中隊ノ四
    召集 昭和十八年(1943)九月廿日東部十七目黒輜重
       入隊同年十月東京発ビルマ派遣
       ビルマ方面軍第十五軍烈部隊
       三十一師団輜重隊三中隊三分隊



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