GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

阿賀野川のほとり(千手堂・陸軍少尉・浅見覚堂)

2008年07月28日 | 戦争体験

  敗戦後に新潟へ転属
 七月十日から始まった見習士官の教育も終りに近づいていた八月十五日、終戦の玉音放送は千葉県習志野の宿舎前に整列して聞いた。よくはききとれなかったけれど戦争がこれで終ったことを知った涙が頬を伝って流れた。八王子の聯隊本部にその夕方帰り聯隊長に帰隊の報告をすませ翌朝すでに転属の決定していた新潟市の照空中隊に向った。
 終戦になってから軍服を着て歩くことのなんと肩身のせまく感ぜられたことであろうか。敗戦の責任を問はれているような身のちぢむ思いをこれからしばらくつづけるのである。新潟市外の浜辺の村の分隊生活をきりあげて阿賀野川の堤の下の隊長位置に集結したのは、八月も終りの頃であったろうか。
 中隊全員の集結と共に私はそこから三百メートルばかり離れた大きな寺院の本堂に百人ほどの兵士ととまることになった。
 広い本堂も兵士と荷物で埋まっていた。そこに集った兵士の中には半月ばかり一緒に暮らした顔なじみの兵士は一人もみあたらなかった。

  週番士官が分隊長をなぐる
 九月七日に中隊全員帰郷することときまった六日の午後、各集合所に酒がくばられ、夫々別れの宴を開くことになった。
 その日の夕方のことである。十坪ばかりの中隊事務室には電灯が点いていたが、外はまだ顔のわかる明るさであった。週番士官の遠山少尉が点呼から帰って来て、「点呼をとったがあつまりが悪いので、浅見少尉、君のところの増田分隊長をなぐってしまった。あの分隊長なら、なぐったおれの気持も、わかってもらえると思ったからな」困ったことが起きた、そう思っていた時電灯が消え、何かが投げこまれ、あたって音をたてた。
 遠山少尉は私より先任の士官ではあるが彼が幹部候補生の時、私は軍曹で助教として手をとって教えた親しい仲であった。
 私は入口に出た。入口までつめかけた兵士たちで入口の戸に私は押しつけられて動けなかった。一人の兵士が私の頬をなぐった。
 それはうちの隊長殿ではないか、後からどなる声がとび、勢よくなぐったものの、あとをつづくものはなく、自分のところの隊長とあっては面目をつぶし、いくども頭を下げてあやまっていた。
 めあてが私でなかったらしく、私を押しつけていた兵士たちはいつのまにかいなくなり、只、分隊の矢内兵長が一人残り、分隊長殿がなぐられてしまったと、私にだきついて泣いていた。
 遠山少尉は週番士官ではなかったのを自ら最後の週番士官を買って出たものであった。なぐられた分隊長はどこにどうしているのか兵長はくやしがって泣き、分隊の兵士たちはどうしているのであろうか。
 私も又どうしてよいかわからなかった。私をなぐった兵士たちは遠山少尉を探していたのであったろうか。

  兵士隊が不穏な空気
 暗くなって遠山少尉がどこにもいないということがささやかれ、それが私たち事務室に集った者に伝わった時には、遠山少尉が新潟憲兵隊に中隊の秘密を知らせに行ったらしいという内容のものになっていた。
 すぐ追いかけて連れて来るようにとの隊長の言葉で、A軍曹運転の発電車の助手席に乗り、軍曹と二人で憲兵隊の前まで行って見たが遠山少尉の姿はなかった。憲兵隊へ行くには自転車か徒歩より外なく、少尉は来ていないということで急ぎ帰隊した。
 遠山少尉は中隊の広場の中央に独りでいたのである。遠山少尉の心配もなくなった頃、兵士の一団が丸太棒を持って指揮小隊長をぶちころせと叫びながら、こちらにおしよせてくるという知らせが入った。席にいた某准尉が「寺と他の一ケ所の兵士たちに不穏な空気があったので、私と曹長の二人で手わけしてゆき、一緒に酒を飲んで、何んとかして事のないようにと思って努力してみたのです。浅見少尉殿に出かける前に、行って来ますと申しあげたのは、実はこうしたことを防ぎたかったからなのです。」と私に言うのである。
 転属して来て日も浅く終戦後に任官した私より年は若くても先任将校として遠山少尉の外に山田少尉がいた。年の功で私が頼りにされたのであろうか。
 准尉と曹長にはすでに兵士の不穏なあ空気がわかっていたのであり私も知っていると考えていたのであろうか。もし将校たちが、このことを知っていたならば、帰郷前夜の点呼には別の方法を考えたであろう。点呼をとっただけであったらまだよかったのかもしれない。
 遠山少尉の点呼に出た分隊長をなぐったことが、点呼に出なかった兵士たちに伝はり、准尉たちの恐れていたことが、思いもよらぬところから起きてしまったのである。

  激昂した兵を説得
 指揮小隊長をぶちころせ!
 隊長と准尉と曹長と私と四人、私の記憶には四人だけしか残っていないしなんとか静めようと話しあった。私の宿舎であった寺院は国道の向う側にあり国道を左に五〇米もゆけば阿賀野川であった。
 国道の真中で私は寺院の方から歩いて来た兵士の集団と向いあった。私には、私を一つなぐらせたために一人の上等兵を軍法会議にまわしてしまった、悲しい想い出がある。上官に暴行をやらせてはならない、暴行をやった者は必ず処罰されねばならないから。この二つの決意が私にはあった。
 私は、兵士たちの前に立ちふさがり、終戦になったけれども軍の規律は守らねばならぬこと、上官に対する暴行は、軍法会議にかけられて処罰されるということを、私は私が幹部候補生時代に直面した事件をそのまま話をし、帰郷を目前にしながら一時の激情にかられて上官に暴行を加え、帰るべき時に帰れなかったならばどうするのか、切に自重を望むということを、一生懸命に説いてみた。
 その時、大勢の中から、この場を私たちにまかせて下さいと、古い兵士たち数人が、私に呼びかけてくれた。私はほっとして、彼らに後をまかせ、隊長にさわぎの終ったことを報告することが出来たのである。
 あのさわぎのあとのことは私の記憶にない。しかし、埼玉県人として私は矢内兵長一人しか知らなかったが、このさわぎの翌日十三人の埼玉県人が私を中心に集り、帰郷後の再会を約束して、名簿を十三通作って分けあったことはなつかしい想い出である。
 私に呼びかけて呉れた古参兵は勿論この人等だったのである。

     嵐山町報道207号(1970年9月25日)「終戦二十五周年記念特集号掲載



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