GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

イラワジ川とサガインの町(志賀・栗原喜久次)

2008年06月16日 | 戦争体験

   一、サガインヒルの寺山
   二、イラワジ川の會戦
   三、メークテーラの戦斗
   四、シヤン高原への道
   五、ペグー山系の山越え
   六、終戦の町マルタバン

 イラワジ川最大の橋かと思われる鉄橋、一粁にもをよぶ大きな流れ、向いはビルマの都マンダレーの町、見るからに戦災の跡のみ、隣は織物の町アマナプラの、当時烈輜重隊はサガインヒル山中に二ヶ中隊、少数のトラックと輓馬をたよりに駐屯して戦力の回復につとめていた。次第に英軍の追げきはげしさを増し、シュボウ飛行場方面に出動を命ぜられ、十日間程輸送の仕事、遂にサガインの町にも居られず、夜間を利してアバ方面に進出。こそこそイラワジ川の會戦となるが戦力なき会戦、守勢が主で見るべき攻勢はまれであった。
 其の頃上原曹長以下七、八名ラングーン兵器廠にトラックの受領のため出張。マンダレー街道を南下、一路夜の道をラングーンへ。パヤジーの兵器廠にて方面軍の虎の子の様な日産の新車五、六台を手に入れ、急ぎ前線にもどる。すでに会戦も終末で手の出し様も無き様子、イラワジ川を渡りし英軍の機械化部隊主砲の落下音、遠方には戦車のキャタビラの音さえ耳に入り来る。無燈火運転ならばと安心して弾薬を満載走行中、空より機銃掃射、ハンドルを捨て草原に伏して体は無事なれど、ラジエーターに命中す。其の場は走りぬき焼息で氣付く、夜明前草原の薮に車を押し込み日の出を待って二人で修理、プライヤーにて細管をつぶし水止の應急修理、夜道を利して水の補充をしつつ宿営地に着いたのは三日の後であった。
 次ぎの防ぎょ線はメークテーラ、飛行場も有り大陸の真中の廣々とした草原、予想以上に敵の進出が早くメークテーラの戦も敵のなすまま、其の先ラングーンに向ふ本道上も危険との通報あり。私の分隊は各車に十四、五名の患者をサジ附近にてのせ、シヤン洲に登るカローに向ふ本道に出るべく裏道を行進中、私の車の片方の後輪敵の地雷にかかる。早速スペヤタイヤ一本にて前進するが間も無く敵弾、至急トラックは低地に押し込み、患者もそのまま衛生兵にたのみ全員で軽機と小銃にて應戦、事なきを得たが一名の患者は戦死す。裏道の危険を感じてか、急いでカローの本道に出る。カロー迄の六十哩の坂道、上はシヤン高原、其の町は赤松茂る日本の春や秋の様な氣候、車上の患者を当地の陸軍病院に送り松林に宿営、次第にシヤン洲奥地にタウンジー、ロイコーと進み右に折れて山又山すでに其の先車の道は無く。有るは山道のみ、林の中にトラックは置き去り、全員歩行軍、行手は有名なペグー山系、けわしき山谷、命令ではモールメンに集結とか、山越は一ヶ月以上も要したと思ふ。
 烈部隊のみならず当時カローの病院、タウンジイ方面に居りし部隊なども同じ山道を同じ方行に行動せし事と、入院患者及び看護婦など、いかにしてあの山系をこえしかと今にして思ふ。さぞかし大きなぎせいの出し事と同情の念を深くす。特になやまされたのは竹林、毎日行けど進めど竹薮ばかり、穴無き竹、大きなトゲの有る竹、枝の方がさすがに長い竹、手の入るすき間も無き大きな株の竹、竹様々竹の子も同様、竹の子に兵隊の方が食われる程の数、平地に出てからはゴム林、其の頃昭和二十年のビルマの雨期来る、毎日が天幕たよりのゴム林の中の道を無言の転進、目的はモールメンの町、当時ラングーンをのがれた方面軍司令部がモールメン居り、其の警備として烈部隊を指令されしと聞く。
 モールメンの町はサルウイン川の川口の町、ビルマにては東の果、向いはマルタバンの町、サルウイン川両岸各地に烈は分散、任に着く。其のまま同地に於て八月の終戦となる。烈三十一師団輜重連隊はマルタバンの町にて其の声をきく。省みればかのソ満国境のノモンハン戦、ビルマに来てからのインパールの戦とて、又はイラワジ会戦、メークテーラの戦斗と重ねしが、一度として戦勝のためしなし。コヒマに於て一時有利な戦場を感じたのみ。なんと不運なめぐり合せかとつくづく思ふ。不利な戦ほど兵隊の苦労は多く、後退しながらの患者の後送、タンガをかたにする兵、きずを負いし上の兵は尚更で共に涙を流す余有さえなき有様、時には戦場よりもみじめな夜の山坂道、雨降る夜甚えしのびつつ居りし、マレー半島に近きマルタバンの町にて終戦を知り一度に落ちる涙、悔しさ、かなしさ、なさけなさ、遠く祖国をはなれてビルマの地で敗戦の報を、この人生に二度と出会ふ事はないであろう、あってならない惨状であった。時すぎて見しドラマ戦場にかける橋、クワイ川の谷間をほこりと共に歩いた私にはドラマはドラマで事實で共に思い出は深い。今はいかにと戦後の様子は後記とす。



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