GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

北支より南方へ 荒波に七時間の漂流記(古里・軍曹・吉場雅美)

2008年07月28日 | 戦争体験

  髪と爪を故郷へ
 昭和十九年三月十五日、入隊以来満一ヶ年風土にも慣れた、我が懐しの北支派遣部隊を後に、懐慶の町を遠さけて、昼夜通して、三日間の転進、十八日山東省屈指の都青島に到着し、夏服を着装、寒風をついて二十日間行く先は何処へぞ、一向に知れない。四月八日、髪と爪を故郷へ送る。支那の春はまだ浅く揚柳の芽ゆるむ頃、私物は全部故郷に送れと命令は下った。戦々日ごと激化する中に、隊員一同はこれぞ最後かと髪や爪を手紙と共に包装した。燃ゆる希望を胸にして国家の干城として憧れていたが胸中圧迫するものがあった。そして青島を後に岸壁は次第に遠さけて行く。名残も惜しくいよいよ船団は黒潮をついて白波を引き、煌く星座は静かな海面を反照し、夜の潮風をついて十日満支国境山海関を通過、十一日鮮満国境安東通過、十三日朝鮮釜山港に到着、波止場の灯は若芽を冴えて寄せ来る波も美しく、その光景に包まれて、三日間滞在各部隊は次々に集結した。
 船倉内は兵器弾薬糧末を始め自動車等大小物資は揺蕩作業によって満積された。四月十六日、入隊時上陸したゆかりの深い町を出航半島民は日の丸の手旗を振って、胸にもえたつ愛国婦人会の名入れの白タスキに、男女青年団から小学生に至るまであの旗波に包まれ見送られた。感激歓喜は血にもえて、皇国日本茲にあり白いテープは次第に遠く波間に消えていった。これぞ永遠の別れと覚悟を定めて戦斗帽や小さなハンカチを大きく振ってさらば祖国よ栄えあれ。船行は再び始まった。三十五師団我が派遣軍は八隻の輸送船団に編成此の廻りを三隻の駆逐艦は前進し又後退して護衛してくれた。

  マニラの美観
 四月二十五日、我が船団は夕日をあびて空高く日章旗はひるがえり緑りの眺めも美しき台湾海峡を通過。二十六日午後九時二十分、船団の一隻はマニラ海峡に於て撃沈された。油を満載していたため爆発音と共に真夜の大海は火の海と化し千数百名一人残らず絶命した。護衛の海軍艦隊は之を攻撃深夜の静海を破った。夜明けと共に砲声も遠く絶えて、二十七日マニラに上陸した。市民の半数は日本人のようで感激も又新たに意気揚々と上陸した。流石に熱帯三伏の暑さ。照りつける太陽に酷しくやけて一日二回位強烈な雷雨がある。我が部隊は現地民に引卒され水浴場のシャワーにて汚体を流し身は清く生気に復した。故国日本は心に度々浮んで来る。立派な街路より比島を遠望。茂る青葉、緑の島々実に見事な美観である。五月一日都、マニラも残日にして出港密林の島づたいに航行は又も開始された。

  亜丁丸の最後
 我が部隊の乗船は亜丁丸といって三千トンの古々しい船である。船団中力も最低、時速八ノットで三千人の兵士が乗り組んでいる。伏して休養も取れず、いつも大半は甲板に居た艙内は狭く暑く大体一度は酔ってしまった。
 私は船員とひと時を話し合った。老船員はこう語った。「この船は大正三年製造されたもので高く翻えっている三角の旗は人間で申せば金鵄勲章だ海戦の度毎に手柄をたてて沈まない船だ」と激励してくれた。今や島一つ見えないセレベス海で深度七千米荒波高く、時正に零時十五分警報は鳴り出した連日の厳しい警報訓練と思った其の瞬間である。私は第二船倉内に於て、初山上等兵(川口)に下熱剤注射をしていた、刹那である。敵潜水艦は魚雷を発射。左側の護衛艦は素早く方向回転し弾丸をさけた。其の瞬間誇った我等の亜丁丸の先端に命中大きな振動がガクンと一発。これぞ最期か見るみるうちに船内は闇となった。煙の中に火薬のはねる音、硫黄のような臭い咽喉や眼鼻の刺激全く死闘につぐ死斗。助けてくれ、助けてくれ悲壮な誰かの声。中にはあわてるな、と大胆な叫びは暗をつく。戦友の異様な声は血ばしった。我も治療のうを片手に飛び出した勇士も無我夢中。爆風は身をさすように鳴り響いて来る。階段を我れ先にとよじ上る。私も二三段昇って一面に浸水して来る。なんと大混乱に振り落ちた。ああこれぞ最後かと思う瞬間少しの明るみより綱ハシゴが下っている。これぞ命の綱しっかと手はついたこれを頼りに甲板にと、よじ上った。既に甲板と海面は水平である。ザブンと一歩で海中に飛び込んだ。を後見ると船首は今や四十五度位に傾き先端の兵、ははや海中深く沈んでいる。教訓に従い先ず巻き込まれぬよう離船が肝要と全力で離れた。船尾は五十米以上も高く突っ立ち兵隊は成り下ってバラバラと落下する。不用物も落ちる遂に三分間亜丁丸の姿は荒波深く消え去ったのである。

  船長、船と運命を共にす
 折角海に入った兵も大きなウズ巻と共に引込まれる者実に悲惨なものであった。その時六本の青竹が機銃二丁縛られイカダ流れに浮いていた。ここにしっかりと抱き着いた。持ちよりの細引で体を、ゆるく結んだ。フカよけの赤い下帯を流して海面を見ると溺れゆく中に他の輸送船三隻も今や傾き沈まんとしている。我が駆逐艦は猛攻撃を開始した。沈み行く中の一隻丁海丸は航行は全く途絶され船長はボートや救命具を海中に下し乗組員全員救助した。三十分後である船長自からこの船に火をつけ船と共に海中に没す。この責任感実に皇国日本の鍛えた大和魂の現われであろう。こうして、この絶海に惜しくも四隻の船団を失なったのであった。この一帯に戦士は波広く散って上っては下り下っては返り死体は次第に広範囲に増えて来た。生き残った戦友達は点々と固まり海難を逃れんと奮励している。この時こそ仇は陸だ、と敵愾心を持たずには居られなかった。我等の固まりは長少尉(朝鮮)以下二十数名波にもまれ食は全部吐出し海面次第に蒼白、全く悪戦苦闘に強度に鳴り響く爆雷に遂に波にもまれて七時間。日も水平線に沈み捜索著しく困難疲労つきた。この時八千トン級の輸送船より数本の麻縄やハシゴが下った併し持つ事さえ出来ず、疲労こんぱいその極に達し、やっとの事で救助船にと引き揚げられた。南方暖海ならず。骨まで冷え込んで来た。救助隊は豆電池で深夜まで捜索に当っていた模様である。救われた兵も一枚の毛布に数名伏して一夜は遂に一睡も出来ず、不安な夜を送ったのである。

  郷土の戦友とあう
 船団は夜明けと共に航行開始、荒れ狂った海面には多くの不用物が散乱。この中に離ればなれの二人の戦友は、かすかに手を動かし合図をしたようだ。二度と返えらぬ人生の若き世代を若き力で良く頑張ったが、先急ぐ船団は停止の影もなく悲壮な二人に次から、つぎにと麻ヒモを放つもいつこう届かない。鼻先の縄輪も取る意気もなく心の叫びは良くわかるがその尊い人命もいたし方なく、遂にわめく彼は真綿の浮袋にガックリ精と根はつきたのである。甲板の兵士は叫び合ったが、むせぶ涙をこらえて遂に曉の深海に消えていった。溺れゆく友よ、永遠にさようなら。我も左胸部打撲は強度だが衛生兵の任務は重く傷者の看護に気力で当った。この時である。幼な友達の千野元君と出合った。君もやられたか、俺もボカ沈だ。と丁海丸の最後を語るも二、三分惜しくも唯、一言共に元気で頑張ろう。と右に左に後姿を見送った。暫らくすると今度は勝田の杉田松夫君と対面、彼は非常に元気一杯で三分程話し合った。吉田の好田年一君、栗原進一君等も航行中の船団に居るとの事だ。杉田君は語ったが、四人とも南国の土と化し悲しき運命に終ったのである。

  五月九日ハルマヘラ島上陸
 四国ほどの島でハルマヘラの「ワシレ」に上陸。我が飛行場も完備され、三年前より海軍陸戦隊もかなり居る模様。陸海空皇軍力はいよいよ充実南端には多数の土人もいた。
 並木に植林された椰子やバナナ等道路両端に無数にあった。アタップや大樹の影に素朴な楽器をもって日本民謡等音楽に乗せて流れ来る唄声も聞いた。体力回復も束の間二十二日間にして又も転進武装整備したのである。

  五月二十七日西部ニューギニヤソロン島に上陸
 環境は世界一悪いとの話、赤道越えて何百里二十七日夜間雨の中での上陸である。三隻の船はやっとの事で岸に着いた岸通りには半年前に上陸した友軍が道路を作ってくれた。丸太を並べた悪道である。物資揚陸作業は夜通し密林にと運搬した。けものも住まない無人島である。この島の生命は五十五日だと乱れとぶ情報に生き残る同期生は三十六名になり生きる気力唯一念にもえた。

  北岸作戦の死闘
 昭和十九年八月十五日終戦一ヶ月前の事である。北岸作戦の出動命令は出た。皆兵器弾薬食糧等五十キロ以上の物資を携帯私も薬剤糧秣を四十キロ程背負い、新地名武勇山の大樹の下に集結した。岩村部隊長は命令を下した。戦場はサンサポールを拠点に六十里、ジャングルを伐採し第一機関銃中隊より更に前進、四ヶ中隊二百八十五名は花と桜の合言葉に発した。湿地に橋をかけ又ドブに入り道なき道を伐開し一ヶ月近く九月十三日疲れきって敵陣地に到着遂に食糧は全部つきて敵陣糧秣確保に突入の時目前に迫る。準備万端の敵陣は次第に近くなって来る。

  二十六才の部隊長壮烈な戦死 深夜の突撃岩村中佐の最後
 各兵士は手留弾を抱き機関銃隊を先頭に広範囲に散開。部隊長は軍刀の指揮に入った。寝耳の敵陣も気づいたらしく光々たる電灯が消えて又輝いた。隊長は電気を打て、命令一下各中隊長は距離三百打て、一勢に発射撃剣も鋭く敵陣中忽ち暗黒遂に三時間位で陥落万才の声天高く響いた。完備の兵舎に傷兵を運び多数治療した。生気養う八日間、罐詰等好き程食べた綿羊の舌入かん詰が何千とあるのに驚いた。久し振りに満腹感を覚ゆ併し敵機連日来襲、十日後敵反撃情報入るや艦砲射撃は次第に集中し、我が軍素早く密林に後退唯呆然自失虚脱の数時間、筆記難きあり。敵戦車次第に接近隊長再度攻撃に「てき弾筒」の反攻破竹の勢い弾丸雨中を前進、遂に岩村部隊長は突撃命令発声、この時である。隊長の大腿部貫通し衛生兵前へ号令は出た。我等は佐藤軍医の指揮で仮り包帯、担架の隊長は進めと軍刀のきらめき、くつせずすると又も両腕に貫通銃創全くダルマ姿の部隊長はまだ進め、三度胸部貫通銃創により天皇陛下万才と正に軍神の如く壮烈な戦死を遂げ二階級上進中佐となったのである。

  ああ戦友よ
 先頭部隊はいよいよ敵陣四十米に突入その瞬間火煙を砲射され一面火の海を浴びて八割の兵力は枕を並べ無残にも戦死を遂げられたのであった。そして、二ヶ月余り姿バラバラで山越え谷渡り敵の目をさけ裸一貫衰えて我が隊に到着バッタリ倒れ遂に高熱を発し三ヶ月の療養生活に入った。残留者もマラリヤ、脚気、皮膚病、栄養失調等に一個中隊四名も六名も一日に病死して行く悲愴な姿、髪も殆どなくなり我が生死は刻一刻と運命の日を待った。そして昼尚暗きジャングルの中に白木の墓標は日一日と増えて行く。あわれに誰もあの大海に船と共に散りたかった。と合言葉の如く申された。死の寸前には又、何か食べたいと言う。最後、平和建設の日を誓って永遠に別れ行くあまたの兵士に今や声なき戦友よ、遂に我が同期兵六十七名は残るは私唯一人全員若き人生の春にして祖国のために五尺の身は永遠に帰らぬ南方の露と化し今や声なき戦友に対し真の平和を祈るものである。
 食と戦った苦難についても泣けるものが多いが紙面の都合上あら筋にて失礼いたします。二十一年(1946)五月二十七日復員。

     嵐山町報道207号(1970年9月25日)「終戦二十五周年記念特集号」掲載



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