GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

喜びの日(むさし台・中島時次) 1995年

2008年09月14日 | 戦争体験

 今から40数年前、私の体験したソ聯抑留生活は3年8ケ月、苦しみの中での3年8ケ月は長かった。連行当時から書き綴る事は文才のない私には到底出来る事ではない。抑留生活の締めくくりとも言うべき帰国に至る最后部分を書いて見たいと思う。ひと口にシベリア抑留と言われているが、シベリアとは沿海州を指すよび名である。日本人抑留者の居た地域はシベリアにかぎったわけではない。遠くはヨーロッパ近辺までも行っていたのである。現に私が抑留生活を送ったカザフスタンは中央アジアである。今でこそカザフスタンはオリンピック等の活躍で誰一人知らぬ者はない。当時カザフスタンはソ聯領で一共和国だった。ずっと南に下った所に首都アルマアタがある。この辺は綿花の生産の盛んな地域でもある。我々の所はそれより北西にかなり遠く位置する。ペトロパヴロスクがシベリア鉄道の分岐点でそこから鉄道で3日ばかりカザフスタンへ入った所にカラガンダと言う地方にしてはかなり大きな街がある。ここはソ聯の第3の炭坑都市であってそこから10数キロもはなれた我々の所からもボタ山がいくつも見える。とにかく我々の居た所は見渡すかぎりの草原でその中にポツンポツンと人家が点在すると言った様なひどい所であった。立木は一本もなく殺風景この上ない地域であった。かなりの高地らしく何時も風が吹いている。無風状態の日は年間を通じて1週間か10日位しかないだろう。この風が冬ともなると一変して悪魔となる。天気が良くても氷点下30度にもなる。加えて風である。身体に感じる温度は、零下40度にもなってしまう。一度だが零下42度を体験した事がある。これは寒暖計の温度でその時風速20m近い風が吹いていた。この時に肌に感じた温度は零下62度と聞いた。まさに殺人的な寒さである。これに雪でも加われば大変な事になる。気温が低いのと風が強いので雪は灰の様に細かく風にとばされて風通りの良い所は地面が出ている。反対に障害物のある所は雪の山になってしまう。そんな状態の中で我々はひどい体験をしている。
 その朝何時も通り7時に衛門前に整列した。冬の7時は真暗である。今日は雲っていたが、天気が良ければ満天の星の筈だ。守衛所に大きい寒暖計が下っている。現在の気温は零下25度。この辺では当り前の寒さだが相変らず風が強い。一面の雪だが風が強いのであまり積らない。やがて出発する。顔にあたる風は寒いと言う表現は通用しない。ビリビリと痛い。強風が粉雪を舞い上げる。お互いが顔を見ながら歩く。鼻が凍傷になるからである。鼻は感覚がにぶいから気付かない中に凍傷になっている場合が多い。用意に防寒帽の中からボロ切れを巻く。はく息が上にあがりマツ毛が凍りついて目がふさがってしまう。不吉な予感がしたがまさかブラン(吹雪のひどいもの)が来るとは思わなかった。道程半分もすぎた頃雪が降って来た。灰の様な雪である。現場に着く頃になるとますますひどくなって強風が粉雪を吹きまわしとても前が見えない。ソ聯兵は危ないからラーゲル(収容所)へ引返すと言う。ラーゲルに向って出発した。前を歩く人の背中が見えない。思い切りかがんで前の人の足元を見て歩く、地表から30cm位までは割り風が弱いので前の人の足が見える。もし前の人を見失えば盲目同然となって方向がまるっきりわからなくなってどこへ行ってしまうかわからない。それにこの寒さである。死を待つだけだ。必死の思いでやっとラーゲルに着く。落伍者がないのが幸いだった。どこをどう歩いたのか40分位で帰れるのに2時間近くもかかってしまった。
 この辺の夏はどうかと言うと割とすごしやすい。気温は日本と同じ様に30度からになる。但し湿度がひどいのでカラッとした暑さである。一寸家の中へ入るとクーラーの部屋と変りない。それなりに夜はぐっと冷え込む。カザフスタンには昔から住んでいる民族が居る。我々はカザックと呼んでいた。有色人種で肌も日本人と同じか少し黒い、髪も黒い。彼等は独自の言葉を持つ。ソ聯兵の中にも沢山いる。彼等同志ではカザック語でしゃべる。ロシア人や我々と話す時はロシア語だ。カザック語はモンゴル語によく似ている。このあたりにはラクダもいる。彼等がよく小荷物を乗せて引いているのを見る。この辺のラクダはコブが一つしかない。
 さて、重労働、空腹、殺人的寒さに明け暮れた抑留生活も4年目となった。たしか今年は昭和24年(1949)の筈である。14才で軍属を志願し渡満してから6年、私も20才となった。まさかこの年が復員の年になろうとは夢にも思わなかった。その8月も押しつまったある朝、その頃我々は12分所に移っていた。本部から営内司令が来て、今から名前をよばれる者は作業に出ないで9時迄に衛門前に集合との事であった。よばれたのは20名位と記憶している。何も荷物はないので定められた時間に衛門前に集合する。すると収容所長が通訳を連れてやって来た。ここの所長は小柄だがズングリ太った少佐だ。大変日本人には好意的な人物だった。彼はにこにこしながら君達はこれから日本へ帰る為第6分所に移動すると言う。我々はまたかと思った。何故なら、何時もラーゲルを移動のたびに同じ事を言われだまされつづけて来たのだ。でも命令では仕方ない。9時に衛門前に集合した。やがて迎えのトラックが来た。自動小銃を持ったソ聯兵が2名荷台に乗っていて早く乗れと言う。やがて我々は車上の人となってカラガンダへ出発した。草原の中の道をひどい土ぼこりを上げて走る。どの位走ったろうか。第6分所の衛門に着いた。所長はダモイ(帰る)と言ったが我々はとても信用出来ない。それがあくる日になって真実性を持たせる様な事になった。新品の衣服が支給されたのである。それに抑留以来始めて金をくれた。一人40ルーブル位だったろうか。考えて見ると帰国を前にした我々日本人の対ソ感情を和らげる為の配慮とも思えるのである。金が有ると物が買える。当り前の事だがもう3年8ヶ月も金を持った事はない。久しぶりに物を買う喜びを味わった。第6分所の中に小さなマガヂン(売店)がある。空腹の毎日である我々は食物を求めてマガヂンへ行った。ここは民間人がやっている。入って見ると棚に白パンがズラリと並んでいる。我々が日常食べている黒パンはひどいものだ。まるで比べものにならない。どこのスーパーにも並んでいる食パンと何等変らないがスライスしないでそのままだ。一斤買って帰る。かぶりつく、実に旨い。忽ちの中に一斤平らげてしまった。作業に出されないから帰国も本当なのかも知れない。又あくる日もマガヂンへ行く。又白パンを買った。中をキョロキョロ見ているとアメ玉があった。目方を計って賣ってくれる。煙草も不足しているので買う事にした。我々に支給される煙草はキザミ煙草で新聞紙などを切って巻いて吸う。店に並べてあるのは全部巻煙草で両切煙草とパピロスと2種類ある。パピロスとは吸口付煙草の意味で吸口がうんと長い。寒い地方であるだけに厚い。手袋をしても吸える様に作られている。私は両切5箱とパピロスを2箱買った。パピロス2箱は大事に家迄持って帰り煙草好きの父に上げたら大変喜ばれたものである。煙草だけは自由に持って帰る事が出来た。
 午后になってソ聯兵がやって来て5、6名来いと言う。言われた通りシャベルを持ってついて行く。しばらく歩いて行くと小高い所に墓地があった。墓地と言っても土が盛ってあるだけの粗末なものだった。見ると風雪にたたかれて土がひどくくずれ落ちている。ソ聯兵は第6分所で死んだ日本人の墓だと言う。仲間の墓だと言うのでていねいに土を盛り補修をする。その中に割と新しい墓があった。ソ聯兵は何でもよく知っていた。その墓の主の部隊は半月程前に帰国の為第6分所を出発していると言う事だった。するとその人は帰国の1ヶ月に死んだ事になる。ソ聯兵の言うには炭坑作業中トロッコにはさまれ死亡したと言う。我々は話を聞いて目頭が熱くなった。帰国を目前に死んで行ったこの兵隊。さぞ無念であったろう。我々は持っていたアメ玉を供え静かに手を合わせた。ここに眠る亡くなった人達を残して帰国しようとしている自分達。申し訳ない気持でいっぱいだった。
 ラーゲルへ帰ると何となくあわただしい空気につつまれていた。聞いて見ると帰国の為の梯団編成だと言う。夕方迄に1500名の梯団が編成された。この編成で集結地のナホトカ迄行くのである。弾む心を抑えつつその夜も明けた。朝食后にすぐ整列する。9月2日、日本では未だ残暑がきびしい時期であろうがここはもう日本の晩秋と変りない。草はとっくに枯れ霜が真白に降りている。梯団はカラガンダの駅に向って出発した。足どりも軽いカラガンダの駅に着くとすでに引込線に列車は入っていた。列車と言っても貨物列車だ。各貨車に人員が割当られる。ナホトカ迄仲良くつき合って行かなければならない。乗って見て驚いた。4年前チタから西ヘ送られて来た時と大変な違いだ。あの時はガッチリと戸は閉められカギまでかけられていたのだった。今度の場合は二枚共戸は開っぱなしで人が落ちない様に太い角材がくくり付けてある。更に驚いたのはソ聯兵の少ない事だ。自動小銃こそ持っているが前后に数える程しか見えない。もっとも帰国するのに逃げる奴も居ないだろう。やがて列車はカラガンダを出発した。
 ここで書き忘れた事があるので書き残しておき度い思う。シベリア抑留者と言うと一つのものに思われ勝ちである。ソ聯側はこれをはっきり二つに分けていた。戦后関東軍は部隊そのままソ聯兵に連行された。ソ聯はこれを軍事俘虜として扱った。抑留者は違う。軍事俘虜の前職はあく迄軍人だが抑留者の前職はさまざまだ。警察官も居れば私の様に軍属も居る。鉄路警護隊、又反ソ行為を問われて連行された民間人も居る。中国人も居れば朝鮮人、モンゴル人も居た。いずれも日本軍に協力したと言う事だろう。また抑留者の中に特務機関に勤務して居た人達も混じって居たのである。特務機関とは、当時の人であれば誰でも知っている。これは諜報活動を業とした機関でソ聯のもっとも憎んでいた機関である。特務機関を前職にもつ人は、前職をごまかし、本名も名乗らない。一緒に生活をしていても我々にも全然わからなかった。それが、何時の間にか一人二人と姿を消していった。そして二度と我々の所へは帰って来なかった。我々には何故突然に居なくなってしまったのか全然わからなかったのである。しばらくして情報が入って来た。同じ日本人による密告で前職がバレて連行されたのだ。それを聞いた時腹わたが煮えくり返った。同じ日本人でもこんな情けない奴も居るのだ。連行された人違いは恐らく刑を受け囚人ラーゲルへ送られてしまったのであろう。本当に気の毒な人違いであった。我々抑留者はこの様な複雑な前職を持った集団なのである。ソ聯側は我々を危険分子として見ているわけで我々抑留者には一人一人に調書がついている。どこへ移動しても調書がついてまわる。ナホトカ迄もついて来るのだ。軍事俘虜との違いはそこら辺にある。軍事俘虜には調書はない。今度の俤団の編成にも抑留者だけで編成されている。これが後にナホトカに着いてから影響が現れて来るのであった。
 さて、カラガンダを出発してから3日目、ペトロパブロスクに着く。ここは鉄道の分岐点でここからシベリヤ本線に入る。ここはもうカザフスタンではない。この辺迄来るとあちらこちらに木立が見えて来る。カザフスタンには一本の木立が無かった。列車はまる一日止っている事もあるが走り始めると日中3回位しか止らない。給炭給水で止るのだが我々はその時用便をする。まわりが広い草原なので場所に不足はない。やがて列車はオムスクに着く。街中に小川が流れ落ち着いたいかにもロシア風な街だ。私はその時風景を見ながら一句ひねったが忘れてしまった。列車は走る。もう何日たったろうか。左手にバイカル湖が見えて来た。世界一深い淡水湖と言われている大きな湖だ。その辺りを列車が走るが半日走っても未だバイカル湖が見える。その近くにイルクーツクと言う大きな街がある。我々はそこで降りた。シャワーを使わせてくれるらしい。一寸こぎれいな建物に入ると全部シャワー室になっている。小さく区切ってあるがその中に一基づつシャワーがある。ゆっくりとシャワーをあびさっぱりして外に出る。そして又出発する。
 もうすでに沿海州に入っているのであろうか。ある小さな駅で止った。何時もの通り用便に降りる。終って乗車しようとすると大勢の人が貨車のそばへ寄って来た。各貨車の前に集まり何かをねだっている。ソ聯兵が追い払って見るが逃げようとしない。我々の貨車の所へも来たので、君達は何者だと聞いた。彼等はチェチェンだと答えた。チェチェンはずっと西の方の国の筈だ。何故シベリアに居るのかと聞いたら、第2次世界大戦の時我々はドイツに味方した。その為戦后シベリアに送られひどい生活を強いられているのだと言う。私のそばに小さい男の子が来た。身なりは汚いが可愛い子だ。小さい声でダイチェ カレンダッシ(鉛筆が欲しい)と言って手を出した。ポケットに鉛筆の使いかけが2本入っていたので1本やると喜んで帰って行った。私はチェチェンについては何も知らないが今のロシアとチェチェンの関係など見るとチェチェンの民族性が少しはわかる様な気がする。
 又何日か走る。やがて列車はハバロフスクにすべり込んだ。白っぽい駅舎にミドリ色の文字でハバロフスクと書いてあった様に記憶している。ナホトカ迄どの位あるだろうか。それ程日数はかからなかった様に思う。とにかくやっと目的地であるナホトカに着いた。まる1日停車の日も幾日かあったが私の記憶に残っているのは19日半日でいかに広い国であるかがわかると思う。ナホトカと言う所は以前は名も知られていない小さな漁村であったらしい。それが日本人の復員業務が始まって急激に発展した所らしい。ここはラーゲルが4ヶ所ある。第1、第2、第4が一般ラーゲルで第3ラーゲルは税関の様な役目を果す所で帰る時は身辺の検査等で通過するだけだ。第3ラーゲルに入れば間違いなく乗船出来る。我々は何故か第4ラーゲルに入れられてしまった。ここで約1ヶ月すごす事になる。この第4ラーゲルの日課は軽作業と共産主義教育の毎日である。毎日の様に奥地の方から集結地に梯団が着く。そして1週間もすれば第3ラーゲルへ移って行く。何故我々だけ帰れないのか。情報によれば、我々は病院船で帰すのだそうだ。何故病人でもない我々が病院船に乗らなければならないのか。こんな時いろいろなウワサがとぶものだ。それによれば我々民間人まで抑留するのは国際法の違反だ。その為に抑留者梯団を病人に仕立てて帰すのだと言う。カムフラージュだと言いたいのであろうがその真実は知らぬ。軍事俘虜の人達は全部日本の貨物船で帰って行く。前に復員の時に影響が現われると言ったのはこの事だった。
 長い1ヶ月もすぎソ聯側より病院船入港の知らせが入った。待ちに待っていた我々はとび上って喜んだ。第3ラーゲルできびしい検査を受ける。やがて全員が検査を終り衛門前に整列する。我々を送る赤旗が何本もひるがえっている。やがて出発。しばらく平坦な道を行く。小高い丘が見える。あの向うがナホトカ港だ。丘の頂上に出ると、眼下にナホトカ港が一望出来る。見れば高砂丸がその巨体を横たえている。赤十字のマークもあざやかだ。桟橋に着く。タラップを上る。役人であろうか背広を着た人が数人我々に、長い間御苦労様でしたと言葉をかけてくれた。看護婦さんもチラホラ見える。船室に入り居住区を割当られる。病院船だけあって全部畳が敷いてある。やがて夕食となった。白米の飯と味噌汁だ。何年ぶりの味噌汁の味だろうか。やっぱり私は日本人だったんだなあとしみじみ思った。開放感からかその夜はぐっすり眠る事が出来た。あくる日あまりにたいくつなので甲板へ出て見た。どちらを見ても海ばかりで島影も見えない。日本海の荒波と言うがさすがに波が荒い。6年前満洲に渡る時は小さい船でひどい目に逢ったが高砂丸は一万トンの船であるからびくともしない。明朝舞鶴港に入港するとの情報が入った。その夜が大変だった。明朝舞鶴へ着くと言うので誰も寝る奴はいない。唄う者、踊る者みんな気狂いの様にさわいだ。私も全然寝る事が出来なかった。うつろな目をして横たわっていると誰かが大声で、オーイ日本だぞ!!とさけんだ。もうすでに夜が明けていたある。みんな甲板にかけ上った。高砂丸は静かに舞鶴湾に入りつつあった。6年ぶりに見る日本の山々、夢にまで見た故国。私は思わずあふれ出る涙に生きて帰れた喜びを深くかみしめるのであった。


     筆者は1929年生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。



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