GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

アラカンの足音(志賀・栗原喜久次)

2008年06月16日 | 戦争体験

 インパール作戦 昭和十九年(1944)三月十五日

    一、チンドウインの川越え
    二、アラカンの山越え
    三、コヒマの夕暮
    四、烈の抗命
    五、無謀な司令官
    六、悲しき戦友

 ビルマ第十五軍司令官牟田口中將、支那事変発鉋第一声の歩兵部隊聯隊長、この度インパール作戦作動せし軍司令官。南方より弓師団、中央部が祭師団、北方コヒマ方面烈師団、昭和十九年三月十五日月明真夜中を期し、ビルマの大河チンドウインを一勢渡河、インパール目ざして各部隊三手に別れ、烈の行手は山又山の八千余尺も、七重八重毎夜につづく歩行軍

 チンドイン川の渡河
 川手前三、四粁の山中にて各連隊又は中隊各にて待機、出陣の命をまつ。昭和十九年(1944)三月十五日夜十時頃出発命下る。貨車はすでに後方に残置し、耕牛に、小さな二輪の牛車にコヒマに行く迄の食糧、弾薬。大河の手前二粁程は点々と一面のかやの原、空には満月の様な月、腰まで水につかり褌一本、四名一組一台の牛車をかつぎ百米程を三四回、月は西山にかくれ、終了したのは夜明け間近か。寒氣と空腹をこらえて急ぎ身仕度。次の宿営のジャングル目ざし出発、急げど相手は牛、夜明けとなれば敵の飛行機、好運にも四五粁にて次第に林となり山となり遂にはジャングルの野営、やっと朝食。始めて内地産の乾草野菜茄子と南瓜、味は無いが涙と共に食ふ。同地で中食、夕食を終えて日暮と共に出発。日中近所のかやの原でクジャク一羽発見せしが見失ふ。残念無念。三日程の行程でビルマ。インド国境に来る、すでに道無く牛車も捨てる。車の荷物、次は牛の背に、又は我身、各自手製の牛のくら、思ふ様にはいかず山坂道でさんざん手こずる。其の牛も次第にたをれ、遂にはたよるは自分の体、耕牛は食糧とて無く、あるは笹の葉と、野草食ふいとまなき有様、骨と皮のみ、終りには尾より火を付けしも立上る氣力なき迄も働き、最後は谷そこにつき落さる牛が数知れず、兵は牛の背の荷物と共に背負い平地で小休止に腰を落せば二度と腰の上らぬ重量、其の上毎夜の行軍、タイマツ便りのジャングル道、時には八千から九千尺の高峯も七、八回、日中より焼米、薪までも用意持参して登山、山頂は雲の中、木のしずくと一面の霧、飛行機の心配なし。日中の行動もしばしばあり、下山途中点々と茂る赤松の林もあり、遠く故郷を偲びて戦友と語りつつ、つかれて足もわすれて下山せし事もあり。
時には谷間に宿営もあり谷川にて水洛、洗たく、炊事と忙がしい日もあり。目的のコヒマに進出したのは四月上旬の事と思ふ。
 十五軍司令官牟田口中將の云ふ食糧、弾薬を敵に求めて戦えと、烈部隊四月上旬より五月末迄一粒の米も補給なく、其の体で運でし弾丸で戦い苦戦の連續、二ヶ月近き死守も幸運は来たらず、インパール攻略のあても無く烈師団長佐藤幸徳中將一人意を決し、残余の兵を集めてビルマの雨期を目前にして、六月始め烈部隊転進の命を下達。ウクルルに向い転進これが世に云ふ烈部隊の杭命。
 当時私はマホソン附近に居り、夜間のみ使用せし敵のトラックは谷間へ、命にかけて手に入れてガソリン、オイルのドラム缶は土中にうめ、インパールに向ふ舗装道と別れ二度山道の歩行軍、其の頃雨期のをとずづれ、五尺四方の天幕一枚がたより、一夜に五粁か十粁ほど引返しては患者輸送、雨の山道のタンガ歩行、患者は先行し残るは重傷者、一週間程でタンガの患者はたをれ昨日迄かつぎし兵も歩行患者に変る仕末、遂には乞食の道中にひとし。
 次第に兵は素足でぬかるみの山道をあてもなき三、三、五、五の旅人、日増に姿もあわれに川越しも着のみ着のまま、やせた体はしらみの巣、今夜の宿はいづれの谷か山合か、三度の食事も岩塩が充分あれば最高で、みょうがによく似た山草が今でも舌に味残す。銃持つ兵は央程、杖にすがりて鈑盆と水筒のみの兵もあり、又マラリヤの高熱で頭の方が変になり、四つんばいにて下り来るあわれな姿もまれならず、ああうらめしいインパール。
 記しおくれたが私の感じたインパール、標高千米位のアッサム洲唯一の高原都市、敵のビルマ進攻の一大補給基地、日本軍には目の上のたんこぶ、アッサム鉄道を利用ディマプール駅よりトラック利用、途中コヒマを経由しての三車線程の軍用道路、約六〇哩中に四、五個の原住民シヤン族有り、馬鈴薯畑、ラッキョウ始めて目に入るカリフラワー、これぞ我等の命のつな、敵の倉庫のメリケン粉、あのスイトンの味は格別で、又其の中の谷川ぞいのセリの味、はるかにかすむシヤン高原、そこに牟田口中將目を付けて、あの東條を動かしてこの作戦の許可を取り、ヒヨドリ声と名打って南と中を弓と祭に、途中のコヒマは烈部隊、七日か八日で落城と、甘い言葉を真に受けし部下の将兵あわれなり、かの中国の廬溝橋事件の最後をインドでかざり、牟田口本人の出世の糸口にと思いしか、世の中はまく成らず、部下三ヶ師団をアッサム洲に送り込み、其の後の補給も省みず、司令部以前後方のビルマのメイミウ、其のままで前線の様子無和のまま、参謀なども派遣せず、勝手な軍命電送なし、前記後方へのグライダー、意外に大きな敵部隊、其の對さくに四苦八苦、夜ともなれば慰安婦相手に酒盛とか。
 当時コヒマは死の守、日増に増える敵部隊、コヒマを通じインパールへと大攻勢、上空高く観測機二機の姿は休みなし、友軍炊事の時もなく、二列にならぶ砲列はタイコの音、其の如し山にひそんで見るばかり、敵は毎日の空中補給、太陽西にかたむく四時頃に山の中腹すれすれに西日に光る輸送機四、五機、我等に見せる其の如しのんびり四、五回落下の傘の色、水、食糧、兵器とか、目前のドラマの様な風景にみとれし味方声もなし、打つべき弾丸も残少で銃を片手にしばし見物、終る頃には日暮も近く、今夜の戦い氣にかかる、毎夜の陣地後退で佐藤幸徳司団長決意の程がしのばれる。ミートキイナー方面降下の落下傘部隊の手配、インパール攻略不進、烈部隊抗命転進、すべて失敗に期し責任は部下師団長を交送し、己の責を省みず、雨期真盛りの戦場に三ヶ師団の将兵は、ドブねずみの如く山野をさまよい、死の戦場と化し、体力の消耗とアメーバー、マラリヤとのたたかいとなり、ぎせいと成りし戦友多発。四月廿九日、佳節を期してインパール入場の言今はどこえやら。牟田口、佐藤両中將、幸運にも戦範ものがれ、無事復員、共に三十五、六年頃あの世の人となりしとか。牟田口軍司令官、戦い負けて大将に進みしとか、陸軍の人事いかに。佐藤中將、先に他界。告別式には牟田口氏参列、今尚昔の部下の非を語りしとか、それを耳にせし故人の部下、歩兵百二十四連隊の兵諸氏の牟田口非難しきりと聞く。故人の遺族を前にして失礼非常識この上なき様、故人のなげきいかに。悲しみつづくあの世への道、シッタン手前の山上にて山梨の長坂伍長、同召集、フミネ附近で神奈川の高橋賢次兵長敵陣にて、タム附近山中にて在満当時同年兵藤谷義則君マラリヤの高熱にて、又ビルマに近き山道にて同郷の豊岡君、キスの町に来て中隊人事の中野勝美曹長、毎年入梅の来る度思出はつのる。名も無き遠い他国の地にいかに、さぞ肉親との再会を夢見て安らかなねむりに暮し居りしか。大きなぎせいを拂って何一つ功なし。ビルマ中心地に引上げたのは十九年の秋の頃、一時烈三十一師団はサガインヒル山中に集結、少数の兵員補充、休養。次期作戦の準備、シュエボウの戦斗つづくイラワジ川の会戦、メークテイラの戦と重ねども強力な英軍を相手に五分に組する力も無く、次第次第にビルマの片すみに後退を余議される。
 終戦時サルウイン川のほとり、マルタバンにて遂に万事が終る。ここに至るペグー山系の苦難の山越えは後日に送る。



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