GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

召集(志賀・栗原喜久次)

2008年06月16日 | 戦争体験

 昭和十八年(1943)九月十八日夜八時頃遂に赤紙の令状来る。
 九月二十一日東京目黒輜重隊に入隊、同時召集員四十名。同年十月二日品川発夜行列車で東海道経由九州門司着、同市に一泊の民宿、日本最後の一夜。五日頃門司港にて上船、若松港にて一大船団となり南洋方面に向ふ。十八年(1943)十月中旬、サイゴン港上陸。当地東飛行場宿舎に於て十日余宿営、メコン川を小舟にてプノンペンに至る。プノンペン日本人小学校に宿営、十日間鉄道にてバンコックに向ふ。当地兵站。宿舎に四、五日間、又鉄道、貨車等にてチェンマイ方面よりタイ緬、鉄道工作中を歩行、又は夜間の鉄道輸送でビルマに向ふ。タイ緬鉄道の山中にて十九年の正月となる。ビルマ最初の駅モールメンに来る。満洲当時の初年兵掛上等兵、其の時押久保軍曹、サルイン川渡河の烈部隊連絡所の指揮者で御世話になる。なつかしき話も作業の合間、サルウインの川の向いはマルタバンの町、ビルマの気車にゆられてペグー経由一路首都マンダレー目ざして北進。しかし、都もメチャメチャ、一日何回もの敵飛行機、夜間もオチオチねる間無し。二、三日の後夜間イラワジ川を渡河、對岸のサガインの町に落ち付く、約一週間程。其の頃より烈部隊補充各兵科各別行動となる。我等輜重は一中隊トラックに便乗、シュボウ通過、山中に駐屯せる烈輜重三十一聯隊に追及入隊となる。名をピンレブと聞けど一面のジャングルで、時は昭和十九年(1944)二月十一日頃。分隊各の草屋根の山小屋、風呂は、ドラム缶、まるで乞食の宿そっくり。部隊はすでに作戦準備、インパール進攻。下士官以下、我等補充は四十三名各中隊に配分され分隊に只一人当時より二中隊は行方不明のまま。二、三日してジュピー山系を通過してチンドウィ川附近に移駐、作戦すでに英軍ビルマ北部にグライダー空輸あり、日本軍露営の上空を月の明りたよりの様に二、三のグライダーを引き乍ら我等の後方に毎夜の不氣味な行動を有々と肉眼にうつす。友軍は印度進攻に無中の時、チンドイン渡河の大事な時機、作戦開始を数日にひかえて小生等兵卒にても行く先の心配がちらつく。これがインパール進攻後大きなこぶとなり、牟田口中將を苦境に落せしとか。お蔭様でインドに進攻の我等は着の身そのまま、食ふに食無く、各も無し。
 以上が菅谷駅頭より村民各位に見送られ出征してよりビルマ到着迄の荒筋です。そして間も無く昭和十九年(1944)三月十五日、月夜の晩あのチンドウインの大河を敵前渡河、烈部隊印度コヒマを攻略し二ヶ月を死守せしが六月始め遂に抗命転進となる悲惨な末路の様子は後記となす。
     ※筆者は1918年(大正7)生まれ。



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。