GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

ノモンハンの大草原(志賀・栗原喜久次)

2008年06月16日 | 戦争体験

 作戦期日:ノモンハン事件 昭和十四年(1939)六月十日

 廣膜たるノモンハン
 昭和十四年(1939)二月廿日頃、第一乙種なれど現役に編入され満洲に入営すべく菅谷駅頭に於て盛大な村民の見送を受けて出発。東京駅前に一同集合、代表の見送りの人とも別れ東海道線の人となる。途中見知らぬ方々の手をふり又は日の丸をかざしての見送りも各所に。それを後にして列車は廣島に到着。練兵場に整列、人員の点呼。しかし、私は最後迄御呼びが無く、折角来たのにと少々心配になる、員数外ではと。満洲より初年兵受領の太田軍医、丁度都合がいい、俺の手荷物と共に宇品迄市電でとの事。その御つき会【?】、一同は歩行せしとか。宇品にて二泊。其の間兵器、被服の受領。当地宇品港にて病院船に上船、朝鮮情津港迄。北朝鮮の寒さにおどろく。日露戦当時の防寒外とう支給さる。次は満鉄奉天駅に着。出向へのトラックに分乗、奉天北凌附近に在りし東北大学がかりの兵舎に入隊。五月には関東軍自動車四聯隊と四四七部隊田坂部隊となるが、当時は新設の最中で最初の初年兵、次日からは関東軍の氣合とかですさまじい。トラックは全部外車の新車、フォード。三十八年、三十九年式二トントラック。入営は三月一日でしたが意外の寒気に一同びっくり、毎日が雪風の中の教練、車の操縦半日、半日は各個教練。市外に在りしゴルフ場が毎日のつらい遊場。近所を満鉄が走り氣笛をならし、其の度に落ちる涙。内地を思ふ日を重ねて終日又は一泊の操縦教練。無順、鉄嶺、凌陽など、なつかしき思い出も今にても残る。其の頃、ソ満国境さわがしく当隊に動員下令。至急ハイラルに出動命令、六月廿日頃奉天駅頭にて貨車搭載、鉄道にて国境へ。氣車にゆられて一日半位、満洲の六月は花ざかり、野生のシャクヤクスズラン、行けど進めど車窓は草原。しかし、行手は戦場、忙がしき勤務、新兵の戦場は目がまわる様だ。ハイラル駐屯は小松原師団工兵隊、すでにノモンハンに出動せし空兵舎。我が四中隊四班は聯隊本部要員として当分の間本部と行動を一にす。到着と同時、明日前線に送るべき食糧の積載。前線迄約六百粁、出発は夜明と同時頃。其の日夕方將軍廟附近にて夕食、宿営準備。夕食後前線に向い無燈火運転。食糧等目的地に渡し、宿営地にもどるのは早くとも二時か三時、ブユと蚊にせめられ少々のねむりで夜明、朝食を終えて急ぎ発たねば夕方迄に宿営の兵舎につけぬ、時には敵飛行機も来る。一本道を走るトラック、敵機との合ずで右と左に二、三百米、堀一つ、立木一本すら無き大草原。途中宿営地迄の間、小高き丘二、三ヶ所、十米程の川一本、放牧民の山羊の数何千と多し、茶色の山羊。関東軍各聯隊の自動車、満鉄の輸送隊それですら人員を輸送する余有はなし。北支方面より増員の歩兵部隊等其の間ひっきりなし。木陰なき大陸の炎天下をほこりと汗にまみれて一週間を歩行せしと、九月か休戦となり、戦地にとどかぬまま二度と草原をもどりし部隊もありと。休戦と共に準備せし物資等又ハイラルへ。工兵隊の兵舎もかへし近所の草原にキャンプせしが、十月上旬粉雪のをとづれ。十日頃新任地東寧となり、トラック行軍にてハイラル出発、任地に着きせしが、兵舎は未完成、又キャンプ。満洲の冬の幕舎、思っただけでも背すじが凍る、春をまつ。日本軍国境と云ふハルハ川、これを中にしての戦い。川がなければほかにめぼしい境界となる様な物一つ見当らぬ。早い到着の場合、一直線に目的の交附所まで直行の時もあり、友軍陣地上空にて空中戦も幾度か見物。ハルハ川向いの台地はソ聯陣地。黒いマッチ箱様なのは、戦車とか。遠く迄見えすぎて無氣味、西日に照し出されし敵味方の様子、各所に焼かれた戦車、敵兵のにほい四方に、戦果を上げし部隊名も有々と。まれにはなだらかな丘、そこは友軍陣地とか、又沼地あり。水は塩分が少々あり、飯には味が悪い。砂地は各所に多し。輸送隊には不都合で苦労した点はわすれられん。到るところ飛行場の様なもの、当時は友軍の空軍が居り、日の丸のついたあの姿、勇ましい。インパールでは一度として見かける事も出来なかった。尚勇ましいのは満鉄の自動車隊、我が隊と同じフォードの新車。一度として故障車など見せなかった。自動車隊の兵隊が舌を巻く有様、見事な働き。ノモンハンに向ふ途中に遊牧民の村、住居(パオ)まんじゅう型の丸い家。竹の骨に毛皮の屋根、真中にイロリ、まわりが居間、中に五、六人の家族。四、五軒でグループとなって同時牛車で移動する様子、グループ共有か、二千頭以上も居るかと思われる茶色な山羊の大群、一面の草原を茶にそめてゆったりと暮し居り。戦などそよ吹く風、番犬を相手に馬にまたがる少年は中折れ帽子、なれし手つきのたづなさばき。特に多大なぎせいの小松原師団、戦車隊等、又は個人で責任をとわれ、事件後ぎせいとなりし人有りしと。他人を責め、我が行動を省みず、次は南方方面にてある作戦を指導し、失敗、終戦となるや、我先にと姿をくらまし、時すぎて本国に立もどり、千行三千里とか、現在行方不明とか。我等兵卒には真相はわからねど、惜しまれし人程先にゆき、あの世とやらでも他人のために同じ様に自分の身を粉にして安んじて居られるのではと。
     ※筆者は1918年(大正7)生まれ。



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