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元インドネシア代表監督、スリランカ代表監督(野中寿人- 66番の部屋)

インドネシア野球、アジア途上国の野球、国際大会、日本のアマチュア野球、プロ野球情報、日大三高時代の面白エピソードを発信

日大三高 萩原大先輩…ご冥福をお祈り致します

2013年03月25日 14時20分25秒 | 日大三高校野球部 小球史


元巨人チーフトレーナーで・・・
日大三高野球部の監督としてセンバツ優勝・・・
同時に日大三高野球部選手としてセンバツ準優勝・・・

偉大なる大先輩・・・
萩原先輩(萩原宏久/はぎわら ひろひさ)氏)・・・

23日午前8時56分・・・
肺がんのため横浜市内の病院で死去(68歳)されましたした・・・

このブログでも・・・
日大三高野球部小球史と題した中に・・・

萩原先輩の施した・・・
野球伝導を記載させて頂きました・・・

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1962年のセンバツで、日大三の三塁手として準優勝・・・

‐前列右より2番目が萩原先輩、1番右は田口(周)監督‐

1971年には監督として日大三高を初のセンバツ優勝を・・・
果たされた凄いお方なのです・・・

‐後列1番右が萩原監督‐

その後は・・・

1978年から2005年まで・・・
読売ジャイアンツのチーフトレーナーとして・・・

選手の身体ケアに力を注がれました・・・



自分が・・・
高校1年の時・・・・
扁桃腺の手術をした後のこと・・・

丁度・・・
萩原先輩が・・・
ジャイアンツへ入団される前・・・

萩原先輩の・・・
ご自宅にて・・・

身体のケアを・・・
幾度となく施して頂いた・・・

貴重な思い出があります・・・

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萩原先輩・・・

心より・・・

ご冥福を・・・

お祈り致します・・・


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外国人監督のちょい間の日本・・・元祖 地獄の伊東スタジアム冬季キャンプ

2012年12月05日 17時11分57秒 | 日大三高校野球部 小球史

-高校1年の冬の伊東キャンプ 写真左から野中、大谷先輩、田中先輩、林(誠)先輩-

現在・・・
日大三高野球部の・・・
名物となっている冬の合宿キャンプ・・・

実は・・・
この冬の合宿キャンプは・・・
我々の年代以前から行われていたものです・・・


ー1972年時代の冬季合宿 伊東キャンプ-

ウチらの時の期間は・・・
12月27日から年明けの1月6日まで・・・

えっ・・・
正月休みですか・・・?
そんなもんはありません・・・(大爆笑)

今ではこの冬の合宿キャンプは・・・
三高のグランドを使用しており・・・

正月を迎える前に終了し・・・
その後はお休みになっているようですが・・・

当時は・・・
静岡県伊東市にあった・・・・
伊東スタジアムにて行われ・・・
正月休みもありませんでした・・・

伊東スタジアム・・・

そうです・・・
あの長嶋ジャイアンツも・・・
使用していたグランドです・・・





物資を・・・
トラック数台に・・・
積み込んで大移動・・・

選手、首脳陣は・・・
電車で伊東市へ・・・

伊東スタジアムへの途中・・・
あの有名なハトヤが見えて・・・

”あぁぁ 羨ましい”
なんて指を咥えたものです・・・

冬季・・・
伊東スタジアム合宿・・・

別名・・・
泣く子も黙る・・・
地獄の伊東キャンプ・・・

当時は・・・
管理野球全盛の時代・・・

練習は・・・
すればするほど良い・・・
と、思われていた時代・・・(爆笑)

個人ノックでは・・・
キャッチャーフライ・・・
・・・取り100回

小枝監督の・・・
キャッチャーフライは・・・
滞空時間がもの凄く長くて・・・
首が吐き気を催してくる・・・(笑)

だから・・・
後輩を小枝監督に押し付けて・・・

自分は・・・
小倉さんに張り付き・・・
要領を使って逃れていました・・・

取れないと・・・

ケツバットびしばし・・・
グリップでオデコを100連打・・・

ケツバットで
お尻は左から右へ・・・
赤から柴色に1本スジに変色・・・
・・・トイレもしゃがめない

オデコは・・・
コツコツやられて・・・
右、真ん中、左と・・・
腫れてタンコブの山・・・
・・・痛くて帽子もかぶれない

こんな感じでした・・・(大爆笑)

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その日・・・
その日で・・・
楽しみを探して・・・

その楽しみの為に・・・
1日を乗り切っていた・・・

楽しみって言ったって・・・
大げさなものじゃぁなくてね・・・

夕食にお雑煮が出るからとか・・・
今で言うカラオケ大会があるとか・・・
大晦日は紅白歌合戦が観られるとか・・・
そんなくらいのも・・・

可愛げがあるよね・・・

でも・・・
人間追い込まれると・・・

ささいなことを幸せに思えたり・・・
仲間の痛手を気づけたり出来るもの・・・

この経験は尊いものです・・・


-現在は取り壊されて病院施設に/宿舎からグランドへの上り下りも足が震えていた-

自分は・・・
下級生の時代と・・・
上級生の時代の2回・・・
この伊東キャンプに参加・・・

いや・・・

実は・・・
日大三中・・・
野球部1年の時も・・・

夏の合宿で・・・
この伊東に行かされているので・・・

通算・・・
3回も伊東キャンプに行ったんです・・・

1回はグリコのおまけってやつだけど・・・(苦笑)
・・・グリコさんも余計なことをしてくれたもんだ

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これは・・・
伊東キャンプの・・・
レポーティング・・・



監督からの指示で・・・
全員が伊東キャンプでの・・・
レポート提出を義務付けられていたんです・・・

記帳されている・・・
内容をちょっと見てみると・・・

バッティングでの・・・
各理論をはじめとし・・・
その他諸々と記載されています・・・



スタンス・・・
トップの位置・・・
割り・・・
溜め・・・
腰の回転・・・
頭と肩の位置・・
肘のたたみ・・・
スイングの軌道・・・
インパクト・・・
外へのフォロー・・・
最終的な体重移動・・・

これらが・・・
図解入りで書き込んである・・・

更に・・・
やはり・・・
自分のポジションだった・・・
キャッチャーについては・・・

もの凄い書き込みがされています・・・

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またまた・・・
面白い話なんだけど・・・

1月1日の・・・
バッティング練習中に・・・

急所に・・・
ファールチップが直撃・・・

気持ちが悪くなるわ・・・
眼から火花は散るわで・・・

ケツバットも・・・
ガンガン食らって・・・
ケツも、もの凄く痛いっていうのに・・・
急所直撃で前面も激痛になっちゃって・・・
前も後ろも大変な騒ぎ・・・
数日間はマジで大変だった・・・

こりゃぁ・・・
今年は当たり年かぁ・・・
なんて縁起をこじつけて・・・

春季大会に出て行ったら・・・
先にも記した様に栗山英樹の・・・
創価高校に大敗北でしょ・・・

何だよ・・・
ちっとも・・・
当たり年じゃねえじゃん・・・
なんて思っていたら・・・

最後の夏に・・・
甲子園に行けた・・・

急所直撃は・・・
マジで大変だったけど・・・
縁起をこじつけて良かった・・・
なんてね・・・
納得してた・・・

あっ・・・
そうそう・・・

それとね・・・

外野手をやってた・・・
同期の嶋村って男がいて・・・

やっぱり・・・
伊東キャンプでの・・・
個人ノック中にね・・・

小枝監督の放った・・・
ノックの打球を追って・・・

外野フェンスに頭からとっこんだんだ・・・

驚くことに・・・
頭は全然何とも無かったんだけど・・・

おもいきり・・・
コンクリのフェンスを破壊してた・・・

コンクリだぜ・・・コンクリ・・・””

これには・・・
おったまげたよ・・・

こりゃぁ・・・
大当たりだわな・・・

だから・・・

新年早々・・・
当たり野郎(男)が・・・
2人も居たって訳だ・・・

ありがとう嶋村・・・


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外国人監督のちょい間の日本・・・久我山にコールド負け、栗山英樹にのされた俺たち””

2012年12月03日 16時10分03秒 | 日大三高校野球部 小球史

-3年春の春季大会で栗山英樹(現、日ハム監督)の創価高校と激突-

ちょっと・・・
日記帳を追って・・・

自分たちの・・・
代の足跡を・・・
見てみますね・・・



1年上の・・・
先輩たちの代から・・・

自分たちの代へ替わり・・・
秋季大会へ望む・・・

準決勝まで進出し・・・

あと1勝すれば選抜の・・・
切符を手に収められるところまできた・・・



国学院久我山との・・・
選抜行きをかけた準決勝が・・・
神宮球場で開始されたのです・・・

”あれれれれっ”

気がつけば「11-2」の・・・
コールドで大惨敗を食らってた・・・

本当に・・・

気がつけば・・・
って感じの試合だった・・・(大笑)

その時の・・・
日記帳がこれ・・・


-国学院久我山にコテンパンにやられた時の日記-

地獄の・・・
伊東スタジアム・・・
冬季キャンプも乗り切り・・・
(※次項で説明します)

意気揚々と・・・
望んだ春季大会で・・・
創価高校との試合を迎える・・・

この時の・・・
創価高校は・・・
現、日ハム監督の・・・
栗山英樹が主軸であった・・・


-創価高校時代の栗山英樹-

創価高校の4番打者に・・・
レフトのポール際へ・・・
特大の場外フォールを打たれた・・・

その直後・・・
ウチのエースは・・・

自ら・・・
タイムをかけて・・・
ベンチまで走って帰る・・・

“か か 監督さん ボク、もう投げません”

これには・・・
さすがの小枝監督も・・・

“●×▼■×▲”



-創価高校の栗山にも歯が立たず撃沈した-

この時点で勝負あり・・・

その後は・・・
1学年後輩の投手が・・・
泣きながら敗戦処理を・・・

コールド寸前の9-2で大敗・・・
これも魔の府中球場での出来事・・・

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秋季大会は・・・
国学院久我山にコールド負け・・・

春季大会も・・・
創価高校に大差でやられ・・・

これには・・・
いささかOBの方々もカンカン・・・

小枝監督も辞表出したみたいだし・・・
髪の毛も丸坊主にしてしまうやら・・・

お陰で・・・
小倉さんと川俣さんも丸坊主・・・

“コノヤロー!”
”テメエらが不様な負け方なんかするから”
俺らも大変じゃねえか“

てな具合で頭コツかれてた・・・(大爆笑)

こっちは・・・
もっと悲惨で・・・
夜中の1時過ぎに・・・
起床コールが飛びまわり・・・
急いで体育館に集合させられ・・・

そしたら小枝監督が・・・

“いいか!お前ら!”
”野球選手たる者、何時かなる場合にも”
”同じ動きが出来なきゃいかん!わかったか!“

って、朝まで体育館で猛練習・・・

これには・・・
ぶったまげたね・・・

こんな夜中練が・・・
数度あったかな・・・(苦笑)

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こんな感じで・・・
迎えた夏の西東京大会は・・・

前代未聞の・・・
ノーシードからの出陣・・・
7回勝ってようやっと甲子園・・・


-夏の大会前の壮行会-

おまけに・・・

3回戦で・・・
優勝候補筆頭の・・・
桜美林高校とぶつかる・・・

でも・・・
桜美林の首だけは・・・
何としても取らにゃぁいかん・・・
ってね・・・

数代前の桜美林高校の・・・
夏の甲子園全国制覇から・・・
町田の街は桜美林一色・・・

同じ町田に移転してきた・・・
三高野球部は端に追いやられて・・・
小さくなってた・・・

また・・・
数代上の先輩たちも・・・
桜美林高校にやられていて・・・
リベンジに燃えていた・・・

そんな・・
桜美林高校との戦いは・・・

1回に1点を入れて・・・

虎の子の・・・
スミイチを・・・
守りきって桜美林高校を突破・・・
1時間52分の凄い短い試合だった・・・

ベンチ内でね・・・
真夏なのに寒気が走ってて・・・
終始、冷や汗かいていたのと・・・

試合中・・・
桜美林高校の・・・
浜田監督と睨みあっていた・・・
のを覚えている・・・

試合終了後の集合で・・・
関根(潤三)先輩から・・・
“このチーム力なら甲子園でベスト8は行けるぞ“
なんて言われちゃってね・・・
単純だからその気になっちゃってた・・・

その後は・・・
昨年やられた・・・
都立、立川にもキッチリと・・・
先輩たちの仇を討たせてもらい・・・
勢いに乗って決勝に進出・・・

決勝戦は昨秋に・・・
コールドでコテンパンに・・・
のされた国学院久我山だった・・・

またもや・・・
リベンジの炎・・・

結局・・・
「4-2」で屈辱を晴らして・・・

史上最低と・・・
言われた俺らの代が・・・
17年ぶりの夏の甲子園へ出場・・・





甲子園での・・・
試合までの練習では・・・

“これでもかっ!”
って、くらいにやられてね・・・
キーンなんて耳鳴りがしっぱなし・・・

でも・・・
OBの方々からの差し入れで・・・
冷たいスイカや牛乳をガブガブ・・・

そしたら・・・
全員見事に下痢・・・(爆笑)

天理高校との戦いは・・・
「5-4」で惜敗だった・・・

試合までに・・・
疲れちゃったのもあるけれども・・・

場数を踏んでいる天理高校と異なって・・・
ウチらは余裕が無かったのが本音だなぁ・・・



ざっと・・・
日記帳を追いながら・・・
三高野球部での現役時代は・・・
こんな感じ・・・

でも・・・

リベンジ・・・
っていうことを・・・

この時代に・・・
強く学んだな・・・


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おまけ話

桜美林高校を破って・・・
これで大きな顔が出来ると思って・・・
意気揚々と2学期に登校したらね・・・

{あの人たち}
{私たちの○○投手を負かした}
{三高の野球部の人たちよ・・・!}
って・・・

桜美林高校の・・・
女子生徒に反感を持たれ・・・
石コロを投げつけられてね・・・

横浜線の・・・
淵野辺の駅を逃げ回った・・・

{ちょっと待ってよ}
{俺ら桜美林高校に勝っても}
{小さくなってなきゃなんねえのかよ}
って、叫びなら・・・(大爆笑)

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外国人監督のちょい間の日本・・・33年ぶりの再会 三高野球ノート!

2012年12月01日 18時37分02秒 | 日大三高校野球部 小球史

-「三高野球」の基を構築された初代 藤田省三監督 2列目左端- 

またまた・・・
先日の日本・・・

実家の納戸から・・・
秘蔵物とのご対面・・・

これがその秘蔵物・・・



古い大学ノート・・・
でも只の大学ノートじゃないんだな・・・

日大三高・・・
野球部時代の・・・
日記帳なんだけど・・・

日記と言っても・・・
「三高野球」の教えが・・・
ぎっしりと詰まっている・・・

毎日の・・・
練習メニュー・・・
練習の時間帯・・・
チーム反省事項・・・
自己の反省事項・・・
明日に向けての課題・・・

そして・・・

理論面・・・
実践面・・・
人間教育面・・・
などを含む・・・
ミーティングの内容・・・
OBからのアドバイス等・・・

現役生活・・・
2年半分の・・・
記帳の中には・・・
これら全てがギッシリ・・・

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当時の監督は・・・
小枝 守 監督 (現、拓大紅陵高校監督)・・・

そしてコーチが・・・
小倉 全由 コーチ(現、日大三高校監督)・・・
川俣 幸一 コーチ(現、志學館監督)・・・

16歳から18歳の・・・
成長過程の1番大切な時期に・・・

この様な・・・
素晴らしい・・・
首脳陣から・・・

偉大なる・・・
教えを受けられたことは・・・
非常に意義が大きい・・・

この・・・
「三高野球」は・・・

初代、藤田省三監督から・・・
歴代監督によって継承されてきたもの・・・




-三高野球を後世に継承されてこられた歴代監督-

33年が経過した今・・・
じっくりと読み返してみても・・・
現代でも通用するのも驚くところ・・・

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実は・・・
この日記帳にも・・・
ちょっと訳ありの事件があって・・・

現役終了後の・・・
秋の文化祭の時に・・・

小枝監督からの指示で・・・
この日記帳を展示することになったんだ・・・

で・・・

文化祭の最終日に・・・
日記帳を取りに野球部の・・・
文化祭室に行ったら・・・

そこには・・・
小枝監督が・・・
この日記帳を熟読する・・・
お姿が・・・!

外の片隅に・・・
こっそりと隠れて・・・
1時間近く待っていたんだけど・・・

小枝監督は・・・
全然読み終わる気配もない・・・

ほされた期間の・・・
日記内容にはね・・・

“監督の野郎どこに眼つけてやがるんだ“
“何で俺を使わないんだ、俺にやらせろ”

なんて調子で・・・

小枝監督へ・・・
挑戦的なメッセージを・・・
赤字ペンでドデかく記してあったのを・・・
思い出して冷や汗がタラタラときだした・・・

こりゃぁ・・・
やべぇぞ・・・
ってことで・・・

そのまま・・・
日記帳を取らずに・・・
帰ってきちゃった・・・

だから・・・
今の今まで・・・

もう2度と・・・
この日記帳とのご対面は・・・
出来ないものだと思っていた・・・

話しによると・・・

その数年後に・・・
小枝監督が親父に・・・
返してくれたんだそうだ・・・

そんな訳で・・・
この日記帳とは・・・
33年ぶりのご対面となった・・・

この・・・
教えがあったから・・・

今があるんだな・・・
・・・って

身にしみて感じています・・・

三高野球と・・・
小枝監督には・・・
感謝してもしきれません・・・



次項では・・・

創価高校の・・・
栗山英樹(現日ハム監督)・・・
との思い出での戦いや・・・

日大三高の・・・
名物となっている・・・
冬季キャンプなど・・・

ちょっと・・・

日記帳の・・・
内容を覗いてみますね・・・


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外国人監督のちょい間の日本・・・昭和53年日大三高メンバー表発見!

2012年11月30日 17時24分24秒 | 日大三高校野球部 小球史
先週・・・
家の用事で・・・
つかの間の日本帰国・・・

バリ島から・・・
実家の九州へ・・・
ひとっ飛び・・・

・・・とは、行きませんね(苦笑)

日本上陸後に・・・
国内線を乗り継いで・・・
高速バスを屈指して・・・
バリ島出発して17時間後に・・・
ようやっと親父の実家に到着・・・

この日は親父と・・
居酒屋に行って・・・
高イビキでバタンキュー・・・

翌日・・・
実家の納戸から・・・
記憶の中から消えていた・・・
多くの物たちと遭遇・・・

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まずはこれ・・・

昭和53年・・・
日大三高のメンバー表・・・



これは・・・
懐かしい・・・

左側が・・・
6月18日に・・・
三高のグランドで・・・
行われた横浜高校との試合・・・

横浜高校の・・・
ピッチャーは1年生の愛甲・・・



ダブルヘッダーで・・・
1試合目が「日大三8-4横浜高校」
2試合目が「日大三7-8横浜高校」

ちなみに・・・
この年の横浜高校は・・・
夏の甲子園で3回戦まで進んでいる・・・

・・・で

右側のメンバー表は・・・
7月24日の西東京大会・・・
都立、立川高校との試合のもの・・・


-都立 立川高校のエース投手はドラフト外でジャイアンツへ入団-

悪夢の・・・
府中球場・・・

2-1でまさかの敗退・・・

この年の日大三高は・・・
投手陣も充実していて・・・
5回勝てば甲子園出場・・・

自分も・・・
2年生でマスクをかぶらせてもらい・・・
先輩たちと甲子園へ行くんだって・・・
必死になっていた・・・

でも・・・
無残にも・・・
夢は砕かれた・・・



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あんなに強かった・・・
先輩たちのチームが・・・
負けたのも信じられなかったし・・・

あんなに・・・
鬼のように怖かった先輩たちが・・・
大きく泣き崩れたのを見たのも・・・
信じられなかった・・・

これが高校野球なんだなぁ・・・
って・・・

もの凄い・・・
教訓を受けた・・・
高校2年の夏だった・・・



でも・・?
何で先輩たちの代の・・・

それも最後の試合の・・・
メンバー表・・・

俺がもってたんだろう・・・?

まぁ・・・
いっか・・・

大谷先輩ぁぁぁい・・・
大事に保管しておきま~~す・・・

・・・した 

( 野球部用語で締めくくり)


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昭和53年 日大三高
5月から7月の西東京大会までの試合成績

桐蔭学園 1-0 日大三 × (サヨナラ負)
日大藤沢 2-1 日大三 ×
吉田商業 2-2 日大三 △
武相高校 1-4 日大三 ○
千葉敬愛 3-10 日大三 ○
千葉敬愛 5-17 日大三 ○
帝京高校 4-10 日大三 ○
銚子商業 雨中止 日大三 -
藤沢商業 2-4 日大三 ○
川越商業 2-4 日大三 ○
川越商業 2-11 日大三 ○
関東一高 4-8 日大三 ○
横浜高校 4-8 日大三 ○
横浜高校 8-7 日大三 ×
法政二高 3-1 日大三 ×(8回雨中止)
千葉商業 3-3 日大三 △

都 立川 2-1 日大三 ×

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日大三高野球の特徴とは・・・

2011年10月26日 17時49分28秒 | 日大三高校野球部 小球史


日大三高野球部は
近代野球理論の研究をスタートに
歴代監督の努力によって消化され理論と実践の一致を目指して来ました

無論
それは画一的なものではなく
それぞれ歴代の監督によって
築いては崩し
築いては壊し
試行錯誤しながら改革を試み
日大三高野球部は今日に至っています

日大三高野球倶楽部の出身者は
現在までに1100名余を数え多くの名選手を育てました

同時にプロ野球、社会人野球、高校野球、少年野球、海外野球にいたるまで多くの指導者を輩出しています

そしてプロ野球界で活躍する有名選手と
各界の指導者とでの輩出の比率を見ると
指導者輩出の方が際立って多いのが日大三高の大きな特徴と言えましょう

それは
藤田省三初代監督から受け継がれて来た「理論」の追求と研究が日大三高の源にあるからです

野球部在学中の2年半という歳月の中で
全ての歴代監督が「理論」を重んじ選手たちへのテストやレポート提出を行なってきたという背景から
「野球を知っている」訳です。この点から指導者になりやすいということが言えます

指導者になられた諸先輩方々は、口を揃えてこうおっしゃいます

{当時、監督さんから教えてもらった理論、戦術などの全てが指導の基本になっている}
{当時、教えてもらったことをそのまま行なっている(指導している)}
{当時、仕入れたものを、チョボチョボと小出しにしている(指導している)}
{高校時代に野球をしっかり勉強してきた選手があまりいない}

要は
現代に至っても通用する「野球全般の理論」を
日大三高野球部在学中に徹底的に叩き込まれているのです
従って指導者としての基本的要素を十分に備えているということになります

しかし
その半面
現在、プロ野球選手を多く
輩出している各有名高校と比べ
日大三高出身のプロ野球選手が少ない理由は

現役時代に徹底的な管理野球を施されたためだと言えましょう

選手の個性を徹底的に抑えてまでも管理する指導方法です
この指導方法によって野球そのものを嫌いにさせてしまう本末転倒さえも起こし易く
更には、個性を抑え付け、チーム全体の底上げを最前提に掲げた指導方法の後遺症として
先にも述べたように野球選手としての成長に最も大切な「感性」までも失わす危険性をも秘めているからです

従って日大三高の選手にはスタープレーヤーと呼ばれる選手が居ない(作らない)のです

まさしく「監督はより厳しく、選手はより忍耐強く」という
姿勢で野球に向かい合い勝つための絶対条件として管理野球が位置つけられていたためです

この背景には野球そのものがアマチュアリズムから浸透をし人間教育の一環として日本に根付いた
という部分も大きく影響していますが・・・

纏めると

野球選手として1番大切な通過点である高校時代に
野球選手としての成長を妨げてしまう様な指導方法が
その後のプロ野球界では選手としての大成を困難にしているのです
この理由から日大三高出身のプロ野球選手が少ないのです

以上が日大三高野球の特徴になります------------------

実際にインドネシア代表ナショナルチームの監督として選手指導にあたって感じることは
時代の流れの中で、その場、その時に発信される新しい言い回しや、表現方法などは色々ありますが
その根本・根底にある野球の理論体系は、今も昔も一緒であるということです

その中で細部についての「気づき」や「発見」などは
日大三高時代の教えの中に潜んでいた、当時は、その内容の全貌を理解するには不可能だったパーツに
過ぎない事項として出現してくる「気づき」と「発見」であると・・・

もし・・・
日大三高という高校で野球を体験していなかったら
おそらくインドネシア代表ナショナルチームの監督という名誉ある役職も無かったでしょう

今回
このような形で母校の球史をプログに書き込むことで
あらためて素晴らしい場所を通らせてもらったと思ます・・・

有難う御座いました

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締め括りとして
三高野球第5の注入は何・・・?

ズバリ!

〝木製バットでの全国制覇”

これを自分の予告とさせて頂きます

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16代目 小倉全由監督-超近代野球へ

2011年10月25日 18時34分44秒 | 日大三高校野球部 小球史
16代目 小倉全由監督
平成9年―現在に至る


日大三高歴代監督に受け継がれた
伝統を見事に開花させたのが現監督の小倉全由監督になります

甲子園での実力が証明するとおり
優勝2回、準優勝1回と、素晴らしい成績を示されています

平成13年夏優勝






平成22年センバツ準優勝






平成23年夏優勝






近藤一樹(現オリックス)
千葉秀喜(元横浜ベイスターズ)
都築克幸(元中日ドラゴンズ)
内田和也(元ヤクルトスワローズ)などの選手を輩出



また
平成22年(昨年)在籍で大学へ進学した有望選手
そして平成23年(今年)の選手で来年に大学進学をする有望選手など
今後プロ野球へ足を踏み入れる選手は多数に及ぶと予想されます

しかし
小倉全由監督は
単に日大三高野球の伝承だけで以上の成果を示したのではありません・・・

小倉全由監督によって進化した日大三高野球とは・・・いかに



伝統校の中で生まれた三高野球は
1972年のセンバツ大会準優勝までで1つの時代を終えていたと判断します

確かに
その2年後の1974年にもセンバツ大会に出場し2回戦まで進んでいますが
創設期から育まれた日大三高野球が次世代野球到来期との狭間の中でのミスマッチにも何とか順応したからで
当時の豊田先輩(明大―中日)の打撃力と今野先輩、平山先輩などの投手力による要因も大きく絡んでいたからと言えます

本来ならば
この時点で次世代野球へと変貌の道を進まなくてはならなかったのです

その後の歴代監督が「伝統野球の枠」を超えられない状況
また、逆に超えたくても伝統という璧によって次世代野球への扉を開けることができなかったのだと言うことです

その間に高校野球界は次世代野球へと形を変貌して行き
その代表的な高校は池田高校の打線重視の野球の出現や
PL学園などの自主性を重んじた近代指導法による野球が君臨をして行くのです

1974年から平成9年までの歴代監督の期間を見ても田口周監督までに構築された近代野球を用いています





要は
日大三高は早期時代に野球の理論全般を構築したのですが
時代と共に、他の高校も同じようにレベルUPをしてくる

先見を見据えるならば次に展開されるであろう次世代野球の要素を取り入れて
変貌しなければならないのですが、この作業が「伝統」という名があるゆえに
ままならなかったという現象が起きてしまったのです

気が付けば他高に先を越されてしまった・・・

その中においてもやはり名門・伝統という知恵と経験によって数度の甲子園出場を果たしていますが
どの代のチームを見ても決して甲子園で勝つ・優勝を狙うようなチーム力でありません

変貌を遂げていない・変貌へのプロセスにも至っていない野球では甲子園に出場するのが精一杯だったのです

丁度
自分たちの昭和54年度も
低迷期(あえてこの様な表現をしますが・・・)に差しかかっており下降線の中での甲子園出場です

その後の青木監督に至っても
数度の甲子園出場を齎しましたが甲子園出場までがアップアップの状態でしかなかったのです

そして
この超近代野球への変換にとって大きな要因となっているのが
1974年の金属バットの導入と完全なる管理野球からの脱皮です

日大三高にとって
この「第4工程」にあたる打撃の破壊力を重視した超近代野球と自主性を醸し出す練習方法やメンタルの養成は
我々の時代には困難なものでしかなかった””まぁ、選手の「レベル」と言ってしまえばそれまでですが(苦笑)

自分が知り限り(昭和54年近辺の年代)強制された管理野球の時代にあって
自主性(練習)を全面に出して近代野球を行なっていたのは、日大三高から
ドラフト2位で近鉄バッファローズへ入団した野林大樹(昭和62年卒)くらいです

彼は1日、1000本のティーバッティングをノルマと課して練習後の夜の時間に、黙々とバットを振っていた選手です

また雑用で{夜間の自主練習が出来ないから退部します}と言って合宿所を出てしまい
当時の青木監督が町田の駅まで駆けつけて引き戻したと言うエピソードもあるくらいです

当時、彼の行なっていた練習方法が現代に通じる超近代野球なのです

押し付けられた強制的な練習は感性と個性をも潰す悪原因にもなります

でわ?
どうして
現在の日大三高は破壊力を重視した超近代野球/打撃に重点を置いたチームへと変貌を遂げられたのでしょう?
(但し、当然のこととして第3工程の上に成り立つ上での第4工程であるというのが条件になります)



その答えは
小倉監督が数年間の間
日大三高から離れ関東一高で指揮を振るわれたことに尽きます

この関東一高は東東京に所属し
前田監督率いる帝京高校などを打ち破るためには打撃の向上が必項だったのです

その為の体力トレーニングも
練習時や合宿所内の雰囲気の変貌も

結果
小倉全由監督によって日大三高野球に関東一高監督時代に習得した破壊的な打撃力を注入し
基本の上に則った自主性の練習と指導法が、日大三高へ「第4工程」として注入されて行ったのです

この成果が、2001年の夏の甲子園優勝。2010年春のセンバツでの準優勝。そして2011年の夏の甲子園優勝と言えます

日大三高野球は
伝統に更なる進化を加える”超近代野球への変貌作業(第4工程の注入)と
その成果を示すに、実に20年以上の歳月を費やしたことになります



時代の推移と共に進化し続ける高校野球
次なる”最超次世代高校野球を見据えた日大三高の「第5工程」注入は

何時?
何をもってして?


小倉全由監督は育成功労賞をも受賞されています



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他、歴代監督の特徴

2011年10月25日 17時18分50秒 | 日大三高校野球部 小球史
8代目 鈴木吉三郎監督
昭和41年―昭和43年

鈴木吉三郎監督の時代には
昭和44年卒の小枝守先輩(元日大三高監督、現拓大紅陵高校監督)が在籍しておられました



鈴木吉三郎監督と山田隆夫監督

11代目 山田隆夫監督
昭和48年―昭和51年

オリンピック強化選手のような科学トレーニングを導入
自分たちの代の時は部長先生をされており、あだ名は「山部(やまぶ)」
非常に威圧感があり怖かったです””

山田隆夫監督の時代には、昭和49年卒の豊田誠佑先輩(元中日ドラゴンズ/前列右端)


そして、昭和50年卒の小倉全由先輩(現日大三高監督/前列右から2番目)が在籍されていました。



12代目 小枝守監督
昭和51年-昭和56年

アポロ飛行士のトレーニング方法を導入
理論的には初動負荷運動トレーニングに近い原理のトレーニングでした
日大野球部1年生の時から学生コーチに就任され、下積みが最も長く、特徴度抜群の歴代監督の参謀をされていました
・・・さぞかし、大変だったとお察し致します

何でもこなし、非常に器用な監督さんです

理論派でもありノックが絶妙!
ホームからレフトポールを狙って見事にボール当てる離れ技には唸りを抱いたものです

{最後のランニングの数を「このポール当」で、小枝守監督と賭けをして見事にやられた思いがあります
あと、キャッチャーフライの滞空時間が長すぎて首が吐き気と筋痛を興した記憶が懐かしいです・・大笑}

小枝守監督の時代には昭和56年卒の福王昭仁選手(元読売ジャイアンツ/写真中央)が在籍しています。


また
日大三高監督後は拓大紅陵監督に就任され無名の拓大紅陵を千葉のリーダー格にまで押し上げた
甲子園初出場は昭和59年ですが、いきなりのベスト8に進出。桑田・清原のPL学園には敗れはしたが
夏の千葉大会も制し、春夏連続出場を果たしました

昭和61年、昭和63年には東日本最強とまで言われるほど
完成度の高い大型チームを作り上げ平成4年には夏の甲子園で準優勝を果たされていらっしゃいます


13代目 田嶋利昭監督
昭和56年―昭和59年

昭和30年代前半の黄金期に並木先輩と一緒にご活躍された方です
この田嶋利昭監督の時代には昭和57年度卒の宮内昌己選手(元中日ドラゴンズ・他)が在籍していました(写真後列右端)

覚えていらっしゃる方も多いと思いますが
「プロ野球珍プレー好プレー」で元読売ジャイアンツのクロマティー選手と「乱闘」になった速球派の投手です



でわ、いよいよ
最後に名監督「第16代目 小倉全由現監督」に移行します


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7代目 14代目 青木久雄監督

2011年10月24日 16時41分17秒 | 日大三高校野球部 小球史
7代目、14代目 青木久雄監督
昭和39年―昭和41年
昭和59年―平成6年



日大三高野球部の球史の中で
2回に渡って監督を務められたのはこの青木久雄監督だけです

「人間青木」という代名詞が付くほど
人間教育にしっかりとした信念をお持ちになり人間味溢れる監督です

また
「ケースごとのテオリーと、その裏をかく・・・」と言う様な
「細やかな戦術」をお持ちの監督です

昭和41年に糸魚川商工への合宿遠征をされ糸魚川商工との交流を開始
この時の糸魚川商工のエース投手は関本四十四投手(元読売ジャイアンツ)でした

{青木監督には非常に感謝している}と、関本さんも述べておられます。


糸魚川商工の選手との記念写真


糸魚川商工での合宿練習の合間

そして、青木久雄監督の第1期時代には・・・
昭和40年卒の佐藤道郎先輩(元南海ホークス・他)


昭和42年卒の古賀正明先輩(元読売ジャイアンツ・大洋ホエールズ・他)


また、第2期時代には・・・
昭和62年卒の野林大樹(写真後列右端/元近鉄バッファローズ・広島東洋カープ・ヤクルトスワローズ)


昭和63年卒の桑 認 (写真後列右端/元近鉄バッファローズ)

・・・などの選手が輩出されています

尚、青木久雄監督は
第1期と第2期の途中に「二松学舎大付属高校」をも指揮され昭和57年のセンバツで準優勝をされておられます



自分たちが現役の時は
丁度、二松学舎高校の監督をされていて
西東京と東東京とで分かれてはいるのですが
「敵」という感覚でしかなかったのが正直なところです

二松学舎高校との練習試合が日大三高のグランドであり
試合後に送球動作についてアドバイスを頂いた記憶があります

その後
日大野球部のOB会で1度だけご一緒させて頂いたのみで
やはり、現役当時の「敵将」というイメージが強く自分にとっては
日大三高の先輩なのですが近寄りにくい監督さんです・・・(大笑)



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10代目 鈴木康夫監督

2011年10月24日 15時14分24秒 | 日大三高校野球部 小球史
10代目 鈴木康夫監督
昭和47年―昭和48年


前年の昭和46年
センバツを制した日大三高は翌昭和47年センバツにも出場した

まっしぐらに
センバツ連続制覇(連覇)を目指し快進撃を見せたのだった

チームを牽引するのは熱血漢溢れる鈴木康夫監督である

鈴木康夫監督も前年度の萩原宏久監督と同様に
田口周監督によるセンバツ準優勝時の主将そして捕手であった

田口周三高野球を
最も熟知しているのが
この鈴木康夫監督だったのである





連続制覇を掛けた決勝戦翌日の新聞記事は・・・

{準優勝チームへの惜しみない拍手がスタンドから沸き起こった時
マウンドに整列する選手たちをベンチの前で見守る準優勝監督は目からか流れる涙を溢れさせていた
それは悔し涙以外の何ものでもなく彼にとって、この準優勝はそれまでに経験した試合の中でも
もっとも屈辱的な敗戦でしかなかった}







また
ある本にはこんな書き出しもある・・・

{普段は練習に口を出したことのない桑野卓部長が
グランドに駆け降りてきて鈴木からノックバットを奪いように立はかだった
「鈴木やめろ!選手が死んでしまう!もうやめろ!」 
鈴木は桑野卓部長を押し返した
「先生、大丈夫です
僕が信念を持ってやっていることですから大丈夫です!
先生、僕は僕が倒れるまでノックを放ちます!」
選手が倒れたところへ水を浴びさせ、起き上がるとまた容赦のないノックを放った}


ー生羽津先輩、吉澤先輩、待井先輩ー

{既に出来上がっていたチーム力
このチームは技術的にも、精神的にも頭脳的にも出来上がっていた
それ以上の力を望むには「原点」に返るしかないと思った
頭の中をからっぽにして無心になってプレーをする
それには猛ノックしかないと思った}


ーセンバツ2季連続の連覇を掛けて決勝へ進出した日大三高だが
 日大櫻ヶ丘高校の仲根投手(ジャンボ仲根、元近鉄バッファローズ)の前に敗戦、準優勝に終わるー

徹底した管理野球と長所を伸ばす野球という2つの野球の形態の中で
日大三高は「出来ないことを出来るようにするには徹底的な管理」という前者の形態をとってきた
この管理野球が支配する中において、当時の鈴木康夫監督の心情には計り知れないものがあったと感じます

「勝たねばならない」

ましてや「連覇」という多き過ぎるプレッシャーの中
日大三高の監督としての使命が特にこの昭和47年度においては濃いです

いや
濃すぎます!



そして
鈴木康夫監督は
元千葉商監督としても甲子園出場をされ
「田口周三高野球」を後世に継承すべく「新高校野球心得帖」「野球心得書」をご出版されていらっしゃいます

「あたり前のことを、当たり前にやれ!」

基本中の基本部分が組み込まれている「野球バイブル書」に値する内容です







また
何を隠そう
たいそうに隠すほどのことではないのですが(笑う)
自分が日大三高へ進学したきっかけはこの鈴木康夫監督の「お口添え」があったからなのです

以前
準優勝に際する各メディアの記事を読んだ時と異なり
インドネシア代表ナショナルチームと言う「1国の旗」を背負う立場の監督・指導者としての
経験をさせて頂いた自分には当時の鈴木康夫監督の「指揮官」としての「非常に苦しいご心情」が手に取る様に分かります

更に
このセンバツ準優勝時の捕手は小杉治先輩という2年生のレギュラー捕手です

自分も同じ捕手というポジションだったので分かるのですが
日大三高の2年でレギュラーを獲得するのは「至難の業」です
当時は年功序列のシキタリの風潮も今よりも強かった時代

1学年上には吉澤先輩を筆頭に凄い先輩方々がいらした訳で
その中で司令塔として数々のサインプレーを2年生でこなした
小杉先輩の頭脳と度胸には尊敬の言葉しかありません(自分の憧れの先輩です)

・・・捕手って大変なんです

・・・監督って孤独で辛いものです


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幻の・・・「日大三高 江川卓投手誕生」

2011年10月24日 14時39分32秒 | 日大三高校野球部 小球史


実は
この時期に江川卓投手が日大三高進学を検討していたと言う
事実があり、ほぼ進学決定というような噂も流れていたようです

「日大三高 江川卓投手誕生!」
・・・に向け、萩原宏久監督は中学時代の江川卓投手を何度と無く訪ねている

この時、江川卓投手の「日大三高進学に際する希望」は「六大学への進学」であった
萩原宏久監督からの返答は、江川卓投手に曖昧な口約束はしなかったのだった

当時の江川卓投手の力量から言えば六大学進学への保障的な返答を即答する指導者もいたであろう・・・

しかし
日大三高野球部の監督として安易な返答が許されなかったと判断します

そして江川卓投手は作新学院進学へ・・・

「日大三高 江川卓投手誕生!」は「幻」と消えたのでした



この後
昭和46年度センバツ優勝、昭和47年度センバツ準優勝のメンバーで
甲子園で大活躍をした吉澤俊幸先輩(元阪急ブレーブス・阪神タイガースコーチ)が早稲田大学への進学を決めたのでした

・・・そうです””
江川卓投手の希望であった六大学への進学です



甲子園で大活躍の吉澤俊幸先輩は早稲田大学へ進学



東京六大学リーグ戦
「法政大学対早稲田大学」

そこには
法政大学のエース江川卓投手
そして早稲田大学の中心打者、吉澤俊幸先輩の姿があった


法大 江川卓投手   早大 吉澤俊幸先輩   

萩原宏久監督と江川卓投手も
その数年後に・・・

萩原宏久監督はトレーナーとして
江川卓投手は選手として

・・・読売ジャイアンツへ入団するのでした。


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9代目 萩原宏久監督 センバツ優勝監督からトレーナーへ

2011年10月21日 13時06分17秒 | 日大三高校野球部 小球史
9代目 萩原宏久監督
昭和43年―昭和46年


日大三高現役時代、田口周監督のセンバツ準優勝時のサードを守っていたのが萩原宏久先輩です
「田口周三高野球」を継承し、日大三高野球部史上初センバツ制覇を成し遂げた監督なのです







昭和43年に日大三高のコーチに就任され翌年の昭和44年に第9代監督に就任

勝負感を非常に大切にされた監督です
日大三高監督を退任された後は、スポーツトレーナーの修行をされ
近鉄バッファローズへ、3年後に読売ジャイアンツへ移られチーフトレーナーとして選手の身体ケアーをされました



昭和46年センバツ優勝時の主将だった岩沢健一先輩が語る萩原宏久監督
{萩原監督は相手のベンチの動き、サイン等はほとんど見抜いた上で自分にサインを出してくれたお陰でピンチを免れることが出来
優勝につながったと思う
捕手の自分としては監督の指示とおりに動いていればピンチも何とかなると言う信頼があった}



昭和47年センバツ準優勝時の2年生捕手だった小杉治先輩が語る萩原宏久監督
{あの鋭い指摘は未だに驚きである
確かにこっちが高校生であった訳だがあの落ち着きは20代後半のものとは思えない
自分的に言えば人生の恩人の一人である
その後のご活躍も「やっぱりな!」という感じである}



~全国制覇の瞬間 昭和46年4月6日 入学式の模様~
入学式で甲子園経過放送・・・
{4回を終わって「2-0」で三高がリードしています}

この日
日大三高は中学と合同の入学式を迎えていた
丁度、午後1時、甲子園の決勝戦と同時に式が始まった
式の途中では校内放送が流れ、決勝戦の途中経過がアナウンスされる奇妙な入学式となり
いつもは2時間かかる入学式も1時間で終わってしまった
各クラスでの記念写真撮影に参列する校長先生はラジオを持参で記念撮影に収まっていた””


次回は幻の・・・「日大三高 江川卓投手誕生」に触れてみます


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田口周監督とプロ野球-勝てばいい勝負の世界で手段は選ぼうじゃないか!

2011年10月18日 16時10分49秒 | 日大三高校野球部 小球史
田口周 元日大三高監督



1932年12月東京 杉並生
日大三高時代はファーストで2番打者
選手として体力的な限界を感じ理論を身につけて野球を続けようと日大進学後は日大三高のコーチに就任
当時の巨人軍コーチで近代打法を体系づけた新田恭一氏を訪ね熱海の自宅まで通った

また
日大三高監督の星川恒雄氏の自宅に泊まりこみ深夜まで野球論期を討論した
この野球論議には初代監督の藤田省三氏や、根本陸夫2代目監督、そして関根潤三先輩らも時折加わった
そして田口周監督は野球論議にとどまらず心理学までも学んだのであった

大学2年生の頃には既にその能力は全国に広まっていり大分県から臨時コーチの依頼を受けている
{今、考えると、これが人生を左右したと思う
思いがけず九州大会の決勝まで進み他人の野球を手伝う楽しさを実感した}と述べられている

1957年、日大卒業後に日刊スポーツの新聞社に入社しアマチュア野球担当になる
行く先々で先方から声を掛けられるほど有名な存在で早実の王貞治選手も直立不動の姿勢をとったほどだった

1960年1月に日大三高の監督に呼び戻され日刊スポーツ新聞社を退社
3年計画でチームの建て直しを試み1962年の春のセンバツで準優勝、同年夏の甲子園でもベスト8進出を果たす

この後、日刊スポーツ新聞社に復帰
この復帰がプロ野球入りに繋がったのである

2年間のアマチュア野球を担当した後
1965年に大洋ホエールズの担当になり三原野球に触れ翌年から巨人担当になる

試合後の川上哲治監督には
「どうしてあの場面で、この作戦をとったのですか?ぼくならこう思うんですが・・・」

仕事熱心で野球に詳しい田口周監督の評判は
プロ監督が一目おく存在としてプロ野球界に広まったのである



そして
1968年にサンケイアトムズの監督に就任した別所薫氏から2軍監督へ招請され入団
プロ経験の無い異例の人物の入団だった

その後1975年までの8年間、2軍監督としてフォームの選手の指導・育成にあたる
横須賀の合宿所に泊り込み、当初、日大三高監督時代と同じようにプロの選手たちに
野球のルールから徹底的に教えなおしたと言うエピソードを持つ

その後、球団名がサンケイからヤクルトに変わり、三原監督が就任
ここで三原監督から「指導者が使える選手を育成して欲しい。無理やり教えるのではなく自覚を育てて欲しい」と
助言され指導法を変貌

そして
同年の9月にイースタンリーグとしては
初めて「優勝」を飾ったのである(在任中2度の栄冠を手にした)
ヤクルトにとっては1軍も含めて初めての優勝という偉業である

1976年からはフロント入りし
総務部長、スカウト部長などを経て1985年にヤクルトスワローズの球団代表に就任
更に、1997年からは球団代表兼球団社長に就任する

この球団代表と球団社長を兼任したことはプロ野球史上初めてのことであった
それも野球現場から登り詰めたことも史上初の人であった

ここから一気に球団経営にその力を発揮する。

スカウト部長時代に入団させた選手たちが順調に成長をし
多くの選手が1軍の中心選手になっていた時、日大三高の先輩である
「関根潤三先輩」を監督に招聘しチーム編成を強化しチームを変貌へと導いた

{私が監督のときも、現場を分かっているからやりやすかった}関根潤三先輩談

その時が熟したころ
勝つ野球を追及し、野村克也氏を監督に迎え入れ
セリーグ優勝4回、日本シリーズ制覇3回というヤクルトスワローズ球団の黄金時代期を作り上げたのだった

更にはプロ野球各球団の積年の懸案事項であった「ドラフト制度改革」を
ドラフト制度検討委員会の委員長として28年間も出来なかったこの改革を委員長就任後わずか2ヶ月でまとめあげるという手案を発揮した
この裏には田口周監督にしか持ち得ない人間関係、即ち高校野球からプロ野球に飛び込んで成功をした人だからこそといえよう。

高校野球の指導者から新聞記者
そしてプロ野球の指導者、更にプロ野球球団の経営者に登り詰め野球界に革命を起こした偉人だと思います


サンケイアトムスのユニフォームはレプリカ画像になり背番号も無関係です

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6代目 田口周監督 - ID野球と80以上のサイン

2011年10月18日 14時50分47秒 | 日大三高校野球部 小球史
6代目 田口周監督
昭和35年-昭和38年

田口周監督(前列右下)-あたリ前のことを あたり前にやれ!

藤田省三監督による1つめの工程
そして星川恒雄監督による2つめの工程に次いで
6代目の田口周先輩が3つめの工程として注入されたのが「緻密なデータ野球」になります

今でこそ「ID(インポートデータ)」と言う言葉が有名になっていますが
掻い摘んでいってしまうと昭和30年前半の時代に日大三高は田口周監督によって
「ID野球」を取り入れていたのです

また驚くことにV9を達成した
川上哲治監督率いる巨人軍より数年前に田口周監督は
既に「ドジャース戦法」を取り入れたのである

更には
トレーニング関係では「サーキットトレーニング」をも取り入れて
日本で1番最初に高校野球に画期的な野球を取り入れた凄い方なのです

守備におけるフォーメーション
攻撃方法及び作戦、試合での投手起用法
精神面を含めた心理的要素、データ面から見た分析論など

緻密な過ぎるくらいの内容で、サインに至っては当時、やはり、まだプロ野球でも
あまり使われていない全く新しい「ブロックサイン」に変更されていたのです

これらドジャース戦法の例を挙げて簡単に纏めると
現在、守備体型のフォーメーションで使用している1塁手のカバーリング、カットプレーでの動き
投手起用でのリリーフ、ストッパーなどの分業制など・・・

突起したサインではカウントによる自動的ヒット&ランのサイン
捕手からの守備体型サイン、トリックプレイなどで、当時の日大三高は攻撃と守備のサイン数が80を超えていたのです。
以上の全てが田口周監督によって導入されたドジャース戦法です

※実際「80個」を超えるサインを完璧に覚えるのは至難の業です。
 特にキャッチャーにとってはキツイものです。自分達の時代(1979年)でも「80」という数字を追った記憶はありません
 さぞかし、田口周監督の時代とその下の数代の先輩方々は大変だったと思います


第34回センバツ大会準優勝 
先頭が鈴木康夫先輩、2番目が萩原宏久先輩、3番目が賠償晃先輩


決勝では八木沢投手を擁する作新学院に「1-0」で惜敗

この全貌を屈指した結果が就任3年目の昭和37年、第34回春のセンバツでの準優勝になります。
このセンバツ大会の試合でドジャース戦法の新しいフォーメーションをはじめとした「田口周三高野球」を甲子園で披露したのです



田口周監督の3年計画の初年度にあたるチームで
1年の秋の新人チームの時から7人がレギュラーをもらい「勝たねばならない」という
伝統校使命から田口周監督による非常な選択を施したのだった


3番打者の賠償晃先輩は甲子園では4割9分の高打率をマークした。

また、賠償晃先輩は女優の賠償千恵子さん・美津子さんの弟さんです。
センバツ大会では賠償千恵子さんが日大三高の宿舎「小西旅館」に激励に訪れたのですが
マスコミが殺到したため姉弟の対面はかなわなかったというエピソードもあります

このセンバツ出場をかけた前年秋の東京都秋季大会準決勝でも宿敵早実とガチンコの激突をしているのです
8回裏まで「3-0」と早実にリードされていたのですが、同点にもちこみ日没再試合で勝利・・・

どうして何時も早実とはこうなるんだろう(冷汗”)


続く夏の甲子園にも出場をし、ベスト8進出を果たしている。



日大三高の球史を分析すると
藤田省三監督が基礎を作り、星川恒雄監督が追求に努め、田口周監督によって実を成した流れになります

ある意味
この田口周監督時代をもって
既に完成要素の注入が完了し近代野球の基本的部分が構築されたと言えます。
言葉を変えれば、今日の野球の形が形成されたと言っても過言ではありません

そして
驚くべき点は
その時期が昭和30年代前半の早期段階でだったと言うことです

更に
その後の野球界を動かす根本陸夫先輩、田口周先輩という2大巨頭がいらしたことも・・・

田口周監督時代での有名な選手は
昭和37年度卒の萩原宏久先輩(元日大三高監督・読売ジャイアンツチーフトレーナー)と鈴木康夫先輩(元日大三高監督)


そして
昭和39年度卒の大橋穣先輩(元東映・阪急・中日・ヤクルト)の諸先輩方々になります





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早実 王貞治投手と日大三高

2011年10月17日 13時09分40秒 | 日大三高校野球部 小球史

   早実 王貞治投手

昭和30年の夏
和智郷司先輩、並木輝男先輩(元阪神タイガース)の
両左腕で継投を施す日大三高は東京都大会の準決勝で宿敵早実と激突したのだった

この時代の早実には
和田(元早実監督)さん、徳武さん、醍醐さんなどの有名選手が揃っており優勝候補筆頭に挙げられていた
また、早実としては昭和28年のセンバツ、昭和29年のセンバツ、昭和29年の夏とこの2年間で実に3回もの甲子園
出場を果たしていたのであった

そして、昭和30年8月1日、東京都大会準決勝・・・
中盤に4点を奪われた日大三高は、7回の裏に3点をあげて「4-3」とくらいつく
そして迎えた9回裏の最後の攻撃、ショート名手、和田さんの落球を誘うショート後方へのフライ安打と送りバント
そしてレフト前ヒットで同点に追いついたのだった

ここから一世一代のプレーが出たのだ・・・
場面は2死ランナー1,3塁、2ストライクを取られ、誰もが延長戦へ投入か?と思ったその時
1塁ランナーがスルスルっと飛び出して行く

ピッチャーが1塁へ送球、ランナーは2塁ベースへ向って猛然と走る
カバーに入ったショートへボールが投げられた瞬間にサードランナーがホームへ突入
・・・猛然のヘッドスライディングを決めたのだった

“ディレートスティール”で「5-4」の劇的な逆転サヨナラ勝ちを決めたのである


昭和30年夏、東京都大会を制し甲子園に出場。準決勝で早実に大逆転を演じた強者たち

決勝でも日大二高を破って4回目の甲子園に出場
神戸商を1-0、桐生を10-4と破ったが、坂出に1-10で敗戦

しかし「巧みな奇襲作戦を得意とする緻密なチーム」と高い評価を受けた


昭和30年 夏の甲子園

そして
この同年秋の東京都秋季大会でも1回戦で早実を「6-0」と破り
続く翌31年の春のセンバツにも並木輝男先輩(元阪神タイガース)を中心に出場、準々決勝まで進んだ


昭和31年 春のセンバツ

ところが・・・
昭和31年のセンバツ後の東京春季大会での決勝で
昨年から勝ち越している宿敵早実とまたしても激突を迎えたのだが

この試合
早実に入学して間もない1年生投手が先発をしたのだった

この1年生投手こそ
“世界に名をとどろかすスーパースターとなる”王貞治選手だったのです


日大三高は、早実の1先生、王貞治投手に敗れるのだった

王貞治選手談(早実OB・福岡ダイエーホークス前監督・現会長)

「昭和31年5月、東京都の春季大会
東大の野球グランドで日大三高と早実が決勝戦を戦った
そんな大事な試合の投手を入部して間もない私が命じられた
下町育ちで中華そば屋の息子として育ったこわいもの知らずの少年は
投げさせてもらえることが嬉しくて無我夢中で投げた
捕手の醍醐さんのサインどおりミットめがけて力いっぱい投げ込んだ
火事場の馬鹿力ではないが、無欲の投球で、あれよあれよという間に試合は進み
結果的には「4-0」という一方的な試合になってしまった
卒業後、阪神タイガースに入団された並木さんをはじめ、日大三高の選手達は
一年生なんかに負けられるものかと思っていたことでしょう
それが回を追うごとに点が取れず、だんだんと煮詰まりにとなったのではないでしょうか
この時のピッチングが、その後の私の野球人生を大きく変えたといえるでしょう

その年の夏の大会では、準決勝で日大三高は成蹊高校と、我が早実は明治高校と対戦しましたが
当然、決勝戦は日大三高と戦うことと思っていたのですが大番狂わせで日大三高は敗れてしまいました
試合中、ベンチにかえって来ては酸素吸入をしていた並木さんの姿を今でもはっきり覚えています
名門で伝統のある日大三高との戦いは今でもとてもよい思い出となっています 
何時の日か早実と日大三高が甲子園出場権をかけて神宮球場で決勝戦を戦うことを期待しています
永遠のライバル・・・日大三高かんばれ!」
ー日本大学第三高等学校野球倶楽部七十年史よりー

※早実は王貞治選手の活躍で
4季連続の甲子園出場を果たし王貞治選手高校2年のセンバツでは全国制覇を達成している

戦前より早実と日大三高は共に伝統を誇る名門・古豪としてお互いに切磋琢磨してきたのです
近年では、東京(西東京、東東京)を代表する強豪高も多くなり、全国にその強さを知らしめています
高校野球の発展と向上にとって非常に喜ばしいことです

しかし日大三高OBだから言うのではなく東京の高校野球の歴史を見ても
やはり東京での名門・古豪と呼ばれるのは「早実」と「日大三高」であると言えるのではないでしょうか・・・


2世紀に渡り西東京都大会決勝で激突する「早実」と「日大三高」

近年では2006年の夏の西東京都大会決勝戦で激突!
延長11回の末、斉藤祐樹投手を擁する早実が優勝。その後の甲子園で全国制覇を成し遂げている


また、2011年の夏も同様に、西東京都大会決勝戦で激突!
「2-1」で日大三高が2006年の屈辱を果たし甲子園へ出場。そして甲子園で全国制覇を達成している


王貞治福岡ダイエーホークス会長のお言葉が印象的です

・・・永遠のライバル 早実がんばれ!


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