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元インドネシア代表監督、スリランカ代表監督(野中寿人- 66番の部屋)

インドネシア野球、アジア途上国の野球、国際大会、日本のアマチュア野球、プロ野球情報、日大三高時代の面白エピソードを発信

4代目 星川恒雄監督

2011年10月16日 17時37分32秒 | 日大三高校野球部 小球史
4代目 星川恒雄監督
昭和25年ー昭和33年


前列左端が星川恒雄監督

根本陸夫先輩と関根潤三先輩の話から日大三高校歴代監督の話に戻ります

日大三高野球部2つめの工程は
この4代目の星川恒雄先輩によって行なわれました

初代、藤田省三監督の教えを継承し「近代野球論の研究と実施」を注入されたのです

この成果として昭和26年には独自の野球指導書を発行されました
また、この野球指導書は何代かにわたって改良が加えられ、後に東大野球部部長をされた神田順治先生の監修により
「学生野球」という本になったのです。「学生野球」はベースボールマガジン社から発行され、当時の「野球理論のバイブル」と
称された書物です

星川恒雄先輩は昭和25年に監督に就任され甲子園出場を目指し長期計画を描かれたのでした
その中で、技術の向上には基本理論の習得が必要と考えられ指導書を作成し理論を学ぶことで
考える野球をテーマとし全員野球を施したのです。また、ミーティングでは筆記試験なども行いました


星川恒雄監督著「野球の理論書」ガリ版刷の原本

その「まえがき」の1部を引用してみると・・・

「実践と理論が一致しても、それに精神が伴わなくてはならない
ボールは己の魂である。ボールを魂として取り扱わないと諸君達は野球を通して何らかの体験を得
諸君達の人格を磨き、向上完成させる修行の道場が練習場であることを、又、野球部ははかなる目的のためにあることを承認されたい
三高野球を球遊びの場として考えてはならない。修行の場となるが故に楽はない。苦難の道である
しかしその苦難の道にこそ勝利に通じる道があることを知れ、苦難の道をいとうものは三高野球部から立ち去るがよい」
とあり指導書は「打撃、走塁、バント、作戦、コーチング」によって構成されています

また
昭和28年ころからコーチとして田口周先輩(昭和26年度卒、元ヤクルト球団社長)が参謀として
コーチに加わったことも大きく、試合での戦略、また先に記した学生野球書の改良等にも田口周先輩の
お力が多大に加わっていたのです

この様に、星川恒雄先輩から田口周先輩へと受け繋がれながら徹底的に野球の理論が追及されて行ったのです

星川恒雄監督談
「藤田さんは、近代野球というか新しい理論や技術を持ち込んできたけれど、昔習った野球とはちがっていました
理論面が先行しているから難解なところがあって、理解するには苦労しました。打球が全然前に飛ばないのだから・・・
雑誌に出ていたルーゲーリックやベーブルースなどの連続写真を集めて毎日のように田口や榎本(昭和27年度卒)と論議しました
そこで気が付いたのは、一人一人のフォームは個性的でそれぞれ違うように見えるけど、連続写真を重ねていくと必ず共通点があることです
その共通点が理論であり、基本につながるということに気が付いたんです。これで藤田さんの言う理屈(理論)が、ある程度理解できたのです}

この星川恒雄監督時代の有名な先輩と言えば、やはり筆頭に挙げられるのが根本陸夫先輩と同様に後のプロ野球界を動かすカリスマ的存在となる
田口周先輩(昭和26年度卒、元日大三高監督・ヤクルト二軍監督・ヤクルト球団社長)です


中央が田口周先輩

そして、戦後初の春夏連続甲子園出場を果たした昭和27年度卒の若林輝明先輩(元近鉄・日大三高監督)

若林輝明先輩ー甲子園にて

また、昭和32年度卒で阪神タイガースへ入団された並木輝男先輩(元阪神、ロッテ)です。

写真中央が並木輝男先輩ー甲子園にて


阪神タイガース時代の並木輝男先輩

並木輝男先輩の在学中での星川恒雄監督による
1点差の攻防を重視した練習、藤田省三初代監督同様にミーティングを重要視した
理論やフォーメーションの研究知的頭脳野球等が開花したのです
この成果は日大三高にとって名門校として名を高めた重要な要素を含む2つめの工程だったのです


コーチ時代の田口周先輩(スーツ姿)、田口周先輩の右お隣が並木輝男先輩です


昭和30年の夏、昭和31年のセンバツと甲子園へ出場

そして、昭和31年には念願の自校グランドが調布市菊野台)に創設され、鎌田彦一先生のお名前から「鎌田球場」と命名されたのでした




グランド脇の野球部合宿所、2階の左部分(部屋)が鎌田彦一先生専用のお部屋


2階の専用のお部屋から毎日、練習を見届けられた鎌田彦一先生


しかし
昭和31年のセンバツ出場後
東京に、日本プロ野球史、いや、世界にまでその名声をとどろかせた
1人の選手が高校に入学して来ました

この選手の出現によって
昭和34年のセンバツまで
日大三高は甲子園出場の道を閉ざされてしまったのです””

その野球選手とは
・・・早実1年生「王貞治投手」だったのです


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関根潤三先輩 おもしろ話

2011年10月15日 18時17分17秒 | 日大三高校野球部 小球史

巨人軍時代の関根潤三先輩

関根潤三先輩が広島東洋カープヘッドコーチ時代に夜遅く合宿所に帰ってきた衣笠選手に対して
「さあキヌ、素振りでアルコールを抜くか」と言って、合宿所前の道路で素振りをさせたというエピソードは
前項で記しましたが、他のエピソードや面白い話満載の「関根潤三先輩談」を幾つかご紹介しようと思います

三中野球部入部のころ
入学して直ぐに野球部に集合した関根潤三先輩
しかし藤田省三監督からは{おまえは、1年たってからこい}と追い払われてしまったエピソードをお持ちです
・・・原因は「体が小さかったら“”」
1年後に晴れて三中野球部に入れた関根潤三先輩
日々、ボール箱との戦いには泣かされた思い出が・・・
「俺は前に抱えて持ったからねぇ~、あの皮の重いボール箱の当番の時がたまったもんじゃない“”わしゃぁ参ったよ」

野球で初めて泣いた
「三中野球部2年のとき、鬼頭さんたちが東京都代表決定戦(決勝)で負けてね。鬼頭さんが肋間神経痛で投げれる状態じゃないんだよ
それで打たれて負けたんだ。その時に悔しくてスタンドで泣いてね。その時のことが野球人生にうんと影響したんだ・・・
{よし、甲子園に行こう}ってね
ところが2年生だから野球の苦しさを何もしらないんだよ
上級生はおっかないおじさんばっかりで、球拾いだけやってれいばよかったんだ
だけど、キャッチボールだけしかやらせてくれないで1年間というのはつらくて・・・
えらいところに入っちゃったなぁ~と思ったよ」

藤田省三監督のノック
「ノック・・・!うまかったねぇ~芸術的だったね
あのノックには参った“”俺は本当にやられたのは大学に行ってからだけど、
木村さん(15年度卒)、鬼頭さん(14年度卒)、鈴木さん(14年度卒)、本田さん(14年度卒)を2年間見てて
すげぇぇぇなぁぁぁと思った
みんなぶっ倒れていくからね
俺たちはそのぶっ倒れたのに水をかけるバケツ係だぁ(大笑)
藤田さん一人でノシて倒すやつは何十人
一人でいくんだ!
藤田さんのノックバットには手の跡がついていたよ
木は人間の手で形が変わるんだ・・・
先輩がノサれるのを見ていたからピッチャーになった時に当たり前のつもりですごく走りこんで投げ込みもした
大学時代、毎日500くらい投げていた
何もしないで投げていた」

赤坂応援団
「三中4年か5年の時だったなぁ・・朝、赤坂の花町を抜けて登校していると冬なのに半玉が素足で待合の格子戸を水で掃除してるんだ
足はべしゃべしゃ
たすきがけで裾をはじょっちゃってねぇ・・・
15歳か16歳だよ
あの厳しさを見て人生勉強になったな
世の中の厳しさを赤坂の半玉から教わったよ
それがさ、法政に行ってから神宮の一塁側のベンチの上にずらぁぁーと並んでいたのには、わしゃぁぁー参ったぜ・・・(笑)。
どこでわかったのかね?あれは励みになるんだよね(笑)」

藤田省三監督と近鉄に
プロに入る時、ちょうどサンフランシスコシールズが来て、よく投げたんで、契約金がどんどん上がってしまった
藤田さんに悪いことしてしまったよ“”
プロなんてたいしたことないと思ってた
ほとんど練習しないで東京で遊んでたの。卒業試験だとか卒業式ということで行かなかったの
“はよう来い”と電報が来た
開幕の1週間か10日前に行って急にやったわけ
1年目にして肩こわしちゃった
ボールがキャッチャーに届かない
ひどかった
練習不足でね
それで連投しちゃって翌日にアウト・・・またまた、悪いことしちゃってさぁ~」

巨人軍
「巨人ではもう1年やれ・・・って言われたんだけど、1年でやめた・・・もう結構(笑)
しかし、良い勉強になったよ
ONがいい時だもの
主力選手の心構えが違った
反省したよ(笑)」

契約金での話し
またまた、舞台は広島東洋カープ。舞台と言ってもコーチ就任時の契約金でのお話・・・
「広島にコーチで行った時、藤田さんに報告したら
{契約金がこれでは高すぎる
選手の時は幾ら取ってもよいが、コーチは新米だし自分が勉強するのだから返してこい・・・!}と言われて、
{それもそうだなぁ~}と、“のこのこ”とオーナーのところに返しに行ったら、向こうもあっさり受け取ったよ“”」

藤田さんのジャンバー
ヤクルトの監督になった年に藤田さんが亡くなった
お葬式の後に、藤田さんのお気に入りの茶色の革のジャンパーを{形見です}っていって奥さんから戴いた
負けて(ヤクルト)困っちゃってどうしようかって時に{おやじぃ、何とか助けてくれよ}だなんて言って
そのジャンバーを触ったりしたもんだ・・・」

最後に、根本陸夫先輩について・・・
「中学5年の時に根本が3年生に編入してきたんだ
入ってくる前から評判になっていて{どんな野郎だって}言ってたら、こんな戦闘帽かぶってさぁ(大笑)
しかし、これはいいバッティングしてたね!
法政に行ってから、キャッチャーがいなくなって、藤田さんに{おまえ、キャッチャーだれがいい?}って聞かれた。
{だれがあいいって・・・根本がいいですね}って
根本は日大に行って、星川さん(星川恒雄/日大三中17年度卒、日大、日大三高監督)
のところにいた
{あれが一番いいですよ}って言ったら{そうか、じゃぁ連れて来い!}って(笑)
それで法政に来た
肩もバッティングもよくて、たしか東都でリーディングヒッターになったね・・・

日大三中で野球の心を学んで、法政で技術を学んだ
根本とよく話すんだけど{俺たちの原点は日大三中と法政だよな}というくらい
今でも、あの時に仕入れたものを{ちょぼちょぼ}小出しにしているようなものだ
今でも通じるということは、この2つの学校は進んでいたんだよなぁ~
それに日大三中、法政、近鉄と藤田さんに教わっていたからね
ー平成6年11月16日収録/日本大学第三高等学校野球倶楽部七十年史よりー


関根潤三先輩がご卒業になられた昭和18年度卒業アルバム


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偉大なる大先輩 「関根潤三先輩」と「根本陸夫先輩」

2011年10月14日 21時04分45秒 | 日大三高校野球部 小球史
「2代目 根本陸夫監督」と
題して根本陸夫先輩に触れさせて頂いたのですが

根本陸夫先輩のお名前が出ますと
どうしても日大三高野球部OBとしては関根潤三先輩のお名前が浮かんでしまうのです

「次代の監督」に移行する前に
先に、この場をお借りして、関根潤三先輩と根本陸夫先輩のご関係ついて触れてみたいと思います

我々後輩として
後々のプロ野球界を牽引される偉大なる関根潤三先輩と根本陸夫先輩が
日大三中野球部をご卒業なさられていらっしゃられることに大変な誇りを感じると共に、
藤田省三初代監督、関根順三先輩、根本陸夫先輩という3人の巨頭のめぐり合わせに驚きを隠せません

このめぐり合わせは日大三中から法政大学
そして近鉄パールズまでご一緒だった・・・と言うことにも驚くばかりです


日大三中時代からバッテリーを組んでおられた関根潤三先輩と根本陸夫先輩は、共に野球殿堂入りなされていらっしゃいます。


我が日大三高校野球部は野球部OB会による
「新年総会」というものが毎年行なわれています。
開催日も毎年「1月の第4週目の土曜日」に固定れています

この新年総会での1番の楽しみは
関根潤三先輩と根本陸夫先輩による「漫談」に近い「トークショー」です・・・

「そう言えば 根本~ 昔さぁ・・・」と、言う関根順三先輩の出だしから始まり、
「いやぁ~ 関根先輩~・・・」と、根本陸夫先輩からの合い返しが繰り広げられるのです。
息の合ったお二人の絶妙な「トーク」に会場は爆笑の渦に包まれたものです

特に自分達の1980年度卒業組みは
1学年上と1学年下に根本陸夫先輩のご子息様が在籍しており
日大三高へ頻繁にお顔を出して頂きました

そんな根本陸夫先輩からは1年生の時に
「あのキャッチャーは誰だ?なかなか良いじゃないか」と
当時の首脳陣に話されたことを覚えています・・・
{うひゃぁ~ この時は、嬉しくて心の中で叫んでいました(大笑)}



関根潤三先輩に至られては
夏の西東京都大会前の壮行会に来て頂き激励のスピーチを頂き
また西東京都大会で桜美林戦の後だったと記憶してますが試合後に
「このチームは甲子園でベスト8まで行く力をもっているから、頑張れ!」
と突拍子もないお言葉を頂いたことを覚えています。
・・・{そのお言葉に調子づいて甲子園出場です(大笑)}

でわ、簡単ですが、関根潤三先輩と根本陸夫先輩について記させて頂きます。



「関根潤三先輩」
日大三中では球界の仕掛け人と呼ばれることになる2年後輩の根本陸夫先輩とバッテリーを組み
藤田省三監督に指導を受けた。法政大学でも日大から編入された根本陸夫先輩とバッテリーを組み
史上5位の41勝30敗を記録し、打者としても4番を打った
3年秋には9勝1敗を記録して法政大学を戦後初優勝に導く。4年秋には六大学史上最多の133.1投球回を記録している

法政大を卒業後は八幡製鉄に入社予定でプロには興味がなかった
だが日大三中、法政大と指導を受けた藤田省三監督が近鉄パールズの初代監督に決まり
藤田省三監督から「お前はまだ人間が出来ておらん。俺はプロへ行くから、お前も来い」と誘われ
藤田省三督に心酔していた関根潤三先輩は「藤田省三監督に言われちゃ、しょうがねえな」と近鉄パールズ入りを決めた
(根本陸夫先輩も2年後に近鉄パールズに入団されている)

プロ野球をなめていたという関根潤三先輩はキャンプを10日ほどしか行なわずシーズンインした
すると開幕直後に肩を痛めてストレートが走らなくなった
変化球投手となった関根潤三先輩は期待された初年度を4勝12敗で終えることになる
だがその一方で129打数32安打で4本塁打、21打点を記録するなど打撃が認められて投手として26試合に登板する一方で
一塁手としても13試合に出場した。1953年には初の二桁となる10勝15敗を記録しオールスターにも選ばれた

翌1954年には自己最多の16勝12敗で防御率2.44を記録。55年にも14勝16敗を記録し、1956年も9勝11敗と結果を残したが
1957年の開幕2戦目で自分の信じていた内角低めのストレートを完璧に打たれた関根潤三先輩は投手に限界を感じてかねてから
首脳陣から要請されていた打者転向を決意

転向の条件として「クリーンナップでの起用」を上げた関根潤三先輩は、翌日の試合に5番で起用されて3安打を放つと
その後も2安打、3安打と快打を続けて一時はリーグトップの打率も記録した

1959年には打率.291を記録して野手としてオールスターに選出され
投手、野手の両方でオールスターに選ばれた唯一の選手になった(投手1回、野手4回)

その後、将来の希望として指導者となることを藤田省三監督に相談
藤田省三監督からは「良いところがあるぞ、指導者になるにあたって勉強になるから見てこい」
と言われ、65年に巨人に移籍し5番を打つ

1970年に広島東洋カープの監督を務めていた根本陸夫先輩に呼ばれて広島東洋カープのヘッドコーチに就任
山本浩二、衣笠を始めとした広島黄金時代の主力たちを育て上げた

単身赴任で合宿所に住んだ関根潤三先輩は
衣笠が夜遅く帰ってくると「さあキヌ、素振りでアルコールを抜くか」
と言って、合宿所前の道路で素振りをさせたというエピソードがある

1982年に大洋ホエールズの監督に就任すると現有戦力の掘り起こし
洗い直しをキーワードに1983年には優勝した巨人に勝ち越し4年ぶりにAクラス入りを果たす

1987年にヤクルトの球団社長を務めていた田口周先輩(日大三高野球部OB)の誘いで
ヤクルトスワローズの監督に就任し若手を育て上げ、その後、野村克也監督に受け渡す。

2003年に殿堂入りを果たす

“失敗しながら覚えさせる”“ゲーム中は怒らない”若手にチャンスを与える“が指導方針



「根本陸夫先輩」
日大三中から日大
そして法政大学に編入し
日本コロンビアを経て1952年に近鉄パールズに入団(捕手)
日大三中時代より2学年上の関根潤三先輩とバッテリーを組む

大学時代は銀座で暴れまくっていたという伝説もあるほど型破りであった

日大時代に痛めた肩が原因し1957年に近鉄パールズを退団
その後はスカウトを経て、1962年から1966年まで近鉄のコーチを務める
その後1967年広島東洋カープのコーチ、翌年の1968年に辞職した長谷川監督の公認として監督に就任
1972年で退任

1978年にクラウンライターライオンズの監督就任
真弓と田淵の交換トレードなどを行い
翌年1979年には西武鉄道がクラウンを買収し球団名が西武ライオンズに変更され同球団の初代監督となる

西武時代は他球団との大方トレード補強
また、森、松沼(兄)、松沼(弟)、石毛、杉本、秋山、などをドラフトで獲得し黄金期の基礎を築いた

1981年に監督を退任し翌年からは西武の管理部長に就任
ドラフトでは数々の有力選手を、そしてトレードでも、片平、高橋(直)、
江夏、田尾、鈴木(康)、平野、鹿取、中尾など、他球団でヤツ役した選手を獲得し西武黄金期を支えた

実質上球団経営にも携り、坂井球団代表(後のダイエー球団代表)と共に
1980年代の西武ライオンズを支える原動力ともなった

また、台湾の有名選手だった郭泰源を獲得し台湾球界とのパイプを作る

1993年福岡ドーム完成を機にダイエーの代表取締役兼監督に就任
監督として現場の指揮を執る一方、球団経営にも尽力
1994年で監督を退任し、王貞治を公認監督に招聘した

この間、小久保、城島、藤井、斉藤、井口、松中、などをドラフトで獲得しダイエー初優勝の土台を築いた
その後、1999年1月に球団社長に就任

しかし、就任3ヶ月後の4月30日に急性心筋梗塞のため死去(72歳)

パリーグ球団の人気実力の向上
日本シリーズでON対決、野球ワールドカップの実行などの実現を夢に抱き球界の仕掛け人と呼ばれた


関根潤三先輩(前列右から2番目)根本陸夫先輩(前列左から2番目)
ー昭和27年、戦後初のセンバツ出場の応援に駆け付けた時の写真ー

根本陸夫先輩におられましては
1999年に他界され我々日大三高野球部OBにとって
その悲しみは、とてつもなく大きいものであります

野球界全体にとっても・・・

そして、あの絶妙な新年総会での「漫談トークショー」も見られません

1番、悲しい思いをされていらっしゃるのは関根潤三先輩でおられるとお察し致します

偉大過ぎるほど素晴らしい
「関根潤三先輩」と「根本陸夫先輩」の後輩になれましたこと
心より誇りに思い、そして感謝致しております


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歴代監督 2代目 根本陸夫監督

2011年10月13日 18時57分45秒 | 日大三高校野球部 小球史
2代目 根本陸夫監督
昭和23年


2代目の
根本陸夫先輩は
ご存知のように広島東洋カープや
西武ライオンズそしてダイエーホークスの監督を務められ
常勝チームに育て上げた、元ダイエーホークス社長の根本陸夫さんです

日大三中から日本大学に進まれ
関根潤三先輩の嘆願によって日本大学から法政大学へ招聘(転校)した経歴をお持ちになります
(当時の法政大学監督は藤田省三初代日大三中監督です)

根本陸夫先輩は、昭和23年に1年間だけ日大三高の監督をされていました


前列左から3人目が根本陸夫監督
当時の神宮球場は進駐軍に接収されていて、後楽園で学生野球協会発会記念大会が開催された


甲子園も進駐軍に接収されていた時代


甲子園復活の頃、未だ屋根のない状態の甲子園球場

根本陸夫監督のエピソードとして
試合中、審判のミスに対して「子供達は1年間、一生懸命にやってきたのだから丁寧にやってほしい」と
クレームをお付けになり、その後は売り言葉に買い言葉でエキサイト・・・

監督出場停止処分をお受けになっておられます“”

当時主将だった村上宏先輩はこの時の模様を
{ある試合で審判の誤審に根本(監督}さんが激怒。試合後、監督の姿が見えないので
もしや…と審判室に直行したら、すでに審判は倒れていた)と・・・
血気盛んだった根本陸夫監督の青年監督時代を語っていらっしゃいます

おそらく
先にも後にも
日大三高野球部歴代監督の中で監督が出場停止処分になられたのは根本陸夫監督だけでしょう??

この事件後に
日大三中の桑野先生、藤田省三初代監督、そして島岡監督(明治高、明大)、久保田監督(早実)などが中心となり
日大三中に事務所を置いて「高野連」が出来たのだそうです

この根本陸夫監督時代には村上先輩(元ヤクルト球団取締役)が在籍されていました。

後列左が村上先輩/後楽園球場にて

当時は毎日グランドを求めてジプシーだったようで
多摩川、北千住の河川敷球場、久我山の朝日生命グランド、秩父宮ラグビー場などを使用していた

昭和21年の野球部復活当時はスパイク使用が禁じられ全選手が運動靴を使用。
根本陸夫監督による200本ノックの苦しみは強烈だったようです


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歴代監督 初代 藤田省三監督

2011年10月13日 18時46分52秒 | 日大三高校野球部 小球史
初代 藤田省三監督
昭和10年―昭和22年


法政大学時代の藤田省三初代監督(捕手)

1つめの工程として
藤田省三監督が注入されたのが「精神的野球」と「理論的野球」
であると言うのは前項で記させて頂きましたが、このことによって
初代、藤田省三監督によって日大三高野球の基本的な部分が施されたのです

この藤田省三監督時代の有名な先輩選手は
鬼頭先輩(元西鉄監督)、坂本先輩(元巨人)、星川先輩(元日大三高監督)、山下先輩(元近鉄)、今泉先輩(元巨人)
関根先輩((元大洋・ヤクルト監督、巨人、広島コーチ)根本先輩(元広島、西武、ダイエー監督・福岡ダイエー社長)
らの諸先輩方々になります


昭和13年の夏の東京都代表決定戦で慶応商工を4-2で破り東京「第3の顔」と称された

写真は決勝終了後の「万歳三唱」
写真左端が野村定雄主将、左から6番目が鬼頭政一先輩、左から8番目が坂本茂先輩


昭和18年10月撮影 後列右 関根潤三先輩/後列左 根本陸夫先輩


日大三中 校歌


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日大三高校野球部史 歴代監督に見る「三高野球」の推移

2011年10月13日 16時24分28秒 | 日大三高校野球部 小球史
下記、歴代の日大三高野球部監督になります
豪華爛漫の歴代監督の中で藤田省三監督だけを除き
その他の代の監督は全て日大三高野球部OBにて監督を歴任しています

初代  藤田 省三  昭和10年―昭和22年
2代  根本 陸夫  昭和23年   (昭和20年度卒)
3代  平沼  優   昭和24年   (昭和19年度卒)
4代  星川 恒雄  昭和25年―昭和33年 (昭和17年度卒)
5代  若林 輝明  昭和34年―昭和35年 (昭和27年度卒)
6代  田口  周   昭和35年―昭和38年 (昭和26年度卒)
7代  青木 久雄  昭和39年―昭和41年 (昭和33年度卒)
8代  鈴木 吉三郎  昭和41年―昭和43年 (昭和34年度卒)
9代  萩原 宏久  昭和43年―昭和46年 (昭和37年度卒)
10代  鈴木 康夫  昭和47年―昭和48年 (昭和37年度卒)
11代  山田 隆夫  昭和48年―昭和51年 (昭和36年度卒)
12代  小枝  守     昭和51年-昭和56年 (昭和44年度卒)
13代  田嶋 利昭  昭和56年―昭和59年 (昭和31年度卒)
14代   青木 久雄  昭和59年―平成 6年 (昭和33年度卒)
15代  高橋 洋一  平成 7年―平成 8年 (昭和60年度卒)
16代  小倉 全由  平成 9年―現在に至る(昭和50年度卒)
※ 2代に渡って監督を務められたのは青木久雄監督のみ


日大三高野球部球史上の特徴は
戦争期を挟み戦前の創成期から昭和36年までの期間に大きな3つの工程を踏んでいることが挙げられます

この3つの工程における各段階ごとに「近代野球の基礎的理論」が見事なまでに注入されているのが最大の特徴で
また、何よりも、この3つの工程の時期が日本の野球史においても「早い時期」であったと言うことも突起しています

そして重要な3工程を施したのは
初代「藤田省三監督」
4代目「星川恒雄監督」
6代目「田口周監督」になります

この3代の監督によって三高野球の基礎が構築され
2011年に至る4つめの工程へと繋がって行きます
それが16代目「小倉全由監督」です

でわ

年代を追って
上記、4つの工程段階を説明しながら

また、有名な先輩達が在籍していた代などをも合わせて記し
簡単では御座いますが、日大三高校野球部の小球史を覗いてみたいと思います


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ボールを銃に変え、戦場におもむかれた先輩達

2011年10月13日 13時11分07秒 | 日大三高校野球部 小球史
昭和15年
戦時色が強くなる中
甲子園に出場した日大三中は
大分商を3-1で下し甲子園初勝利を飾る
そして2回戦の高崎商も3-1で退け準決勝まで進出したのでした

準決勝では
松本商に3-7で敗れましたが
初のベスト8進出”を果たしたのです

翌16年12月、太平洋戦争に突入

戦時体制の強化と共に公式戦は中止され他校は廃部に至ったのです


(昭和18年 戦時下)

鎌田彦一先生の強い意志のもと東京都内で日大三中のみが18年の秋まで合宿練習を続けたのでした


(昭和18年 戦時下)

この大戦で多くの先輩達はボールを銃に変え、平和の到来を信じつつ戦場におもむかれたのです

(昭和18年 戦時下)

昭和18年
学徒出陣の足並みは陸へ海へ空へと続々として三中健児は戦場へと向かって行った
夏の雲ポッカリと浮く鹿児島は出水航空隊、学徒兵9人による野球試合が行われた

相手は如何なるメンバーでも全然かなわなかった・・・当たり前である
投手 緒方(早大)、捕手 近藤(早大)、一塁 本田(法大:日大三中)
三塁 奥田(立大)、遊撃 石丸(日大)
どの試合、どの相手でもタバコをくゆらせ座る私の外野には一球も飛んで来ることはなかった

昭和25年5月 鹿児島基地、明朝出撃特攻隊 石丸(日大)出撃の時
お守り代わりに貰ったニューボールで、石丸(日大-本田(法大:日大三中)の急増バッテリーが組まれ
涙のピッチングが開始された。その後、石丸(日大)は沖縄方面へ出撃のため、零戦に乗り、離陸の直前いったん閉じた風防を開け
日の丸を鉢巻に包んだボールを本田(法大:日大三中)の方へ投げ捨て、力強い爆音とともに南の空へ消えて行った

一方、ボールを受け取った本田(法大:日大三中)も、同じ5月14日午後5時過ぎ、鹿児島基地を離陸して行った
その直前に言い残した言葉は「夢に生きん」だった・・・
(夢に生きた本田耕一 一塁手/昭和14年度卒 丸尾先輩手記より抜粋)


後列左から2番目 本田耕一先輩

戦争と言う大きな波にのまれて行った多くの先輩方々・・・
母校野球部の先輩方々だけではなく野球界全体の先輩方々が戦場に行かれているのです

辛すぎます””

今、この記を書いていて涙が止まりません

今日、野球に携わることが出来る環境にある者
プレーする者、指導する者、運営する者、見る者は
野球を続けたくても続けらなかった多くの先輩の方々のお気持ちをもっと深く節に受け止めて
”野球”に接して行かなくてはいけないと痛感します


前列右端 本田耕一先輩


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日大三高野球部史 甲子園出場辞退?

2011年10月12日 20時52分05秒 | 日大三高校野球部 小球史
藤田監督の指導のもと
昭和13年の春夏連続甲子園出場を果たし
翌年、昭和14年の春のセンバツにも2季連続出場を果たした

しかし
甲子園での初戦突破は未だに出来ず
この年も海南中に惜敗

昭和14年 春のセンバツ
日大三中 2-3 海南中

そして、6月から行なわれた夏の予選大会では順調に勝ち進み、決勝戦で帝京商と対戦したが6-9で敗退した
しかし、優勝した帝京商が選手登録の件で東京代表を辞退するということになり、日大三中が東京代表として甲子園に
出場すること決定したのであった

このビックニュースに当時のメンバーであった鬼頭先輩(元西鉄監督)をはじめ全員が手を取り合い肩を叩き合って喜んだ
しかし藤田監督だけは険しい表情をされていたのだ

そして、この時の藤田監督のお言葉は・・・
「せっかくだが今回の甲子園行きは辞退しようと思う
君たちには残念なことだろうが、いま、甲子園へ出たところで何になろう
何年かかってもいいから自力で甲子園出場を果たそうではないか!借り物の優勝旗で甲子園に出場したくない
甲子園に出場することだけに野球部を作ったのではない!」・・・と
当時、日大三中2年に在学をされていた関根潤三先輩(元ヤクルト監督、大洋監督、現野球解説者)などがお聞きになっておられる

そして、この年の東京代表は早実が代わりに出場をしたのであった

甲子園出場の資格を得ながら、辞退する・・・
「自力で、なしとげろ!」

この時の藤田監督のお言葉は、野球を介した人間形成を意味し三高野球の奥の深い真髄として受け継がれるのである
そして、翌昭和15年夏、東京都代表決定戦で豊島商を破り夏の甲子園に出場している


後列左端が鬼頭先輩(元西鉄監督)、後列左から4番目が坂本先輩(元巨人)


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日大三高野球部史 初代 藤田省三監督

2011年10月12日 20時39分00秒 | 日大三高校野球部 小球史
日大三高野球部の球史の中で最も斬新、かつ先見性をも含み
今日の日大三高野球部の基礎を確立したのが昭和10年(球史記録上)に
鎌田彦一先生が招聘された藤田省三監督である

藤田監督の簡単なプロフィールとしては・・・

明治4年4月25日、中国天津で生まれる
小学校2年の時に神戸に住み西宮の甲南中学出身
その後、法政大学へ、法政大学時代には主将でキャッチャーを務められ
日大三中野球監督に就任される前は六大学野球の審判をされていた
27歳で日大三中監督に就任

当時の早大、飛田先生の野球道を伝承され理論と精神を説かれた


日大三中監督の後は昭和16年春より法政大学の監督に就任
昭和23年秋には関根潤三投手を擁して戦後初のリーグ優勝を遂げた

昭和25年春に新しく発足した新リーグ近鉄パールズ球団初代監督に就任
関根潤三先輩、坂本茂先輩、山下譲先輩、根本陸夫先輩、鬼頭政一先輩、若林輝明先輩など日大三中ファミリーが入団

昭和28年、近鉄パールズ球団退団後は広島東洋カープ非常勤コーチを務め、日大三高、法政大学、甲南高校、堀越高校
などをも指導された、後年、元読売ジャイアンツの江川卓投手の陰のコーチとして法政大学時代より指導をされた・・・


(昭和13年度卒業の先輩方々、中段左端のスーツを着ておられるのが藤田省三監督)

その藤田監督が日大三中野球部に注入された教えが「精神野球」と「近代野球」である

精神野球は
当時は学生野球が全盛の時代で「学生の純粋なプレーの中に野球の真髄がある」と言う
日本人に合った精神論が支配していた時代であり、この精神を日大三中に注入していったのである

藤田監督に代表する有名台紙は・・・
「優勝を独占している早実や慶応に勝つためには、3倍の練習が必要である」
「体で捕れなければ、口で捕れ!」この言葉とおり、すざまじい練習だった

近代野球については
野球の理論を熱心に探求され、それまで体の前で叩くような打法では無く
現在の元となる「腰を軸とした打撃」に変貌させた。野球に理論を持ち込んだのである

そして
あらゆる理論を試したのが日大三中だったのです

当時は専用グランドも無く
練習場所は月島の東京市営球場、多摩川河原のグランド、新井薬師の法大グランドなどを転々としていた

そして、昭和13年には悲願の春のセンバツに出場、この夏も甲子園に出場をし、春夏連続出場を果たすのであった
早実、慶応に次ぐ「東京第3の顔」として日大三中に注目が集りだしたのである

昭和13年 春のセンバツ
日大三中 7-8 滝川中(
滝川中のエースは元巨人の別所投手)

昭和13年 夏の甲子園
日大三中 1-7 下関商


↑昭和13年センバツ大会↓


※この頃の春のセンバツ出場については、前年秋の練習試合の勝敗成績と学校の品位等が選考の対象となっていた
 この年の秋の成績は13勝0敗

※現在に至るユニフォームのデザインも、昭和10年ころまで「SANCHU」と言う花文字、また「N」の花文字だったものを
 現在の「校章をあしらった胸マーク」「帽子」「3本ラインのストッキング」に変更したのも藤田監督であった


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日大三高野球部史 三高野球の父 鎌田彦一先生

2011年10月12日 20時08分11秒 | 日大三高校野球部 小球史
日大三高野球部を語るにあたって、
まず最初にご紹介しなければならないお方が・・・

「鎌田彦一先生」です


鎌田彦一先生は、大学野球や職業野球には見事なまでに無関心で、
日大三高の野球だけを愛し、育て続けた「三高野球の父」であられます

明治19年1月21日、弘前市在府町にて出生
津軽藩士の家にお生まれになった鎌田彦一先生は、祖母から厳しいしつけを受けられ
古武士の痛覚をお持ちの方でした

そして一面では純粋で天真爛漫な性格
しかし、勝負に対する「勝つか負けるか」と言う気迫はもの凄かったお方です

偉大な鎌田彦一先生について、これ以上、自分がものを言うような資格はありません。

その鎌田彦一先生の「忘れえぬお言葉」として
大先輩である関根潤三先輩が次のようなお話をされていらっしゃいます・・・

「昭和18年頃から大東亜戦争も日一日と激しさを加え、5年生になった時には全国野球大会も中止になってしまった
最大の目的を失って呆然となっている我々に例年通り合宿練習をさせてくれたのは我が日大三中だけで
他校は敵性スポーツと言うことと用具不足で殆ど解散をしていた
その合宿練習の時の鎌田先生の訓示が今でも忘れなれないのである

{全国大会がなくなったが合宿練習はやらせる
甲子園に出場するのが野球部の1つの目的ではあるけれども、ただそれだけではない!
大目的は野球を通じて人間を造ることにある
勉強の延長として諸君はこの暑い真夏のグランドで心身を鍛えてもらいたい
そして、この合宿練習を最後として野球部は一時休部するが、これは決して解散ではない!
できるようになればただちに復活させる
いいか!解散じゃないぞ!我が日大三中野球部に解散はない。間違うな!}

野球をやるも者を国賊扱いしていたあの頃
この訓示は心から野球を愛しつづけた鎌田彦一先生の面目躍如たるものがあった」



選手諸子よ毎回の試合に無念無想
全力を傾注し玉砕的三高精神を発揮し
最後の五分間まで検討せよ
(昭和27年3月末日 鎌田彦一/甲子園にて)

そして
三高野球の父である鎌田彦一先生の野球に対する情熱と教育の一環としての野球理念を
理解され鎌田イズムとしてとらえ継承された

長年にわたって野球部長として部の運営と選手の育成にあたられたのが「桑野卓先生」です

この方も三高野球の球史の中でお忘れすることは出来ません
三高野球の母と位置つけられているお方です

明治35年、久留米市出身。



「三高野球部よ 永遠に栄光あれ」
(桑野卓)


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日大三高野球部小球史 創成期

2011年10月12日 18時47分16秒 | 日大三高校野球部 小球史
2011年
日大三高の3冠達成と言う素晴らしい偉業に際し
この機に日大三高野球部の歴史に触れて見たいと思います

高校で野球をしていた方は
誰でもご自分の母校に1番の愛着があるものです

・・・自分もそんな一人なのですが(笑)

そんなことから少々
母校ビイキな部分があるかと思いますがその辺はお許し下さい


ー日大三高野球部史 創成期ー

昭和4年、現在の日大三高の前身である赤坂中学校の野球部が創設されました。


当時、東京の中学校球界は、東京中等校野球連盟の加盟校も8校で甲子園出場はリーグ戦にて決定しており、
この時代の東京代表は「早実」と「慶応普通部」が交互に甲子園へ出表をしていたのです

また、8校以外の新設校は連盟への加盟が出来ず、赤坂中学、攻玉社などが主となり東都中等校野球連盟が発足
翌年の昭和5年には両連盟の優勝校が甲子園出場をかけて試合を行い、勝った方が甲子園に出場をしたのです

昭和6年には両連盟が合併されて東京府中等学校連盟が設立されたのでした


当初、赤坂中学時代の成績は、昭和4年の東都中学校野球大会で準優勝しています
また、この時の試合は早大の戸塚球場で行なわれいます

昭和5年には日本大学第三中学に改称
そして昭和6年に日本大学から鎌田彦一先生が日本大学第三中学に着任され、日大三中野球部が創部されました


昭和6年から昭和12年までの日大三中の夏の予選成績は下記になります
昭和6年 準決勝 早実 0-10
昭和7年 準決勝 慶応商工 2-7
昭和8年 決勝  慶応商工 0-3
昭和9年 決勝  早実 2-8
昭和10年 決勝 早実 2-7
昭和11年 準々決勝 日大一 2-6
昭和12年 準々決勝 慶応商工 2-3


この写真は昭和6年頃のもので場所は田園調布グランドになります
左端はコーチをされていた小島さんです
そして胸のマークは花文字の「SANCHU」になります


昭和9年9月、第2回関東大会出場時の新聞記事


昭和10年度卒業の先輩部員の方々。後列の中央が安達部長先生
胸のマークは「N」の花文字に変更されています

また創成期の首脳陣は次のとおりです
昭和6年 部長 直井、辻川/コーチ 小島 
昭和7年 部長 安達/コーチ 小島
昭和8年 部長 安達/コーチ 小島
昭和9年 部長 安達/コーチ 小島、阿部
昭和10年 部長 安達/監督 藤田/コーチ 小島、阿部
昭和11年 部長 鮎澤/監督 藤田
昭和12年 部長 鮎澤/監督 藤田/コーチ 小島


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