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お仕事どんぶり

正社員、契約社員、派遣社員、嘱託社員、アルバイト・・・
経験してきた「仕事」と日々の生活についての記録です。

伯母の遺品整理

2014年11月24日 00時02分12秒 | 終活あれこれ
先月亡くなった伯母の遺品整理のために
私は毎週末、伯母がかつて暮らしていた
実家の部屋に通った。

伯母は書道が趣味だったので、部屋には
大量の紙や書道用品、書道関連の書籍が
残されていた。

そして、押し入れにはたくさんの服、
タオル、着物、布団が詰まっていた。
私は弟や夫と共にそれらを片付けた。

衣類や毛布は、自治体の古着、古布の
回収があったのでそこに出した。

書道用品は買い取り業者に来てもらった
けれど、売れたのは硯が一つ。

伯母が銀座のデパートで作った眼鏡類は
JINSのリサイクルに出すつもり。

着物や宝飾品は多分、形見分けになる
だろう。

伯母が残した写真も手紙も処分した。

私は片付けをしながら、人が一人生きて
いくための必要な荷物とは何だろうと
思った。自分が心地よく暮らすために、
今何が必要なんだろうか。

片付けをするととても疲れたが、一つ
大きな発見があった。

なんと、大量のゴミの山の中から、
伯母の遺言書が見つかったのである。

遺言書は遺言公正証書という正式な
書類で、20年以上も前に作成された。
この遺言書のことを誰も知らなかった。

この発見により、私の労力は報われた。
なぜなら、伯母の遺言は我が家族の
先行きを安心させるものだったからだ。

遺言書を見つけて私は力が抜けたと
いうのが本音だが、何か不思議な力の
存在を感じざるを得なかった。
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伯母の旅立ち その3

2014年11月03日 18時20分20秒 | 終活あれこれ
翌日の夕方から伯母のお通夜をした。
お経をあげてくれたお坊さんの父上は
私の父の小学校時代の同級生だ。

そういう地元の縁もあり、お墓もあり
伯母のお通夜は済んだ。その後、信徒
会館で食事をしていると、父の同級生の
お坊さんがそっと来て、特別にお経を
あげてくれた。

親戚はみな、歳をとった。
従兄弟たちもおじさんばかりだ。
私もそうだが。

翌朝、また信徒会館に集まって、伯母の
告別式をした。最後のお別れをして、
花を伯母の周りに飾り柩の蓋を閉めた。

両親は具合が悪く、告別式には来られ
なかった。私は生まれて初めて、遺影を
抱えて霊柩車の助手席に乗り、斎場に
行った。

斎場でお別れをして、休憩室で待つ。
しばらくして、私は今度は白い箱を膝に
乗せて、弟の車でお寺に戻った。

納骨、初七日とそのままお寺で済ませ、
伯母はお墓に入った。

長い一日が終わり、伯母の白木の位牌は
伯母が生前暮らしていた部屋に安置され
遺影も飾られた。

私の成年後見人の仕事はここまでだと
司法書士の先生が言った。
10月上旬に提出した伯母の財産の収支
報告を少し延長して再提出する。

伯母の遺産相続の手続きは、相続人が
すること。だから今後、私がいろいろ
手続きしたりするのは、相続人である
父の代行としての話だ。

90年にわたる伯母の人生にはいろいろ
あったと思う。
ゆっくり休んでください。
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伯母の旅立ち その2

2014年11月02日 11時29分19秒 | 終活あれこれ
伯母が亡くなって、役所への届け出を
する際に、伯母と届け出者の本籍地の
記載と認め印が必要で、少しあたふた
した。

伯母はストレッチャーに乗せられて、
葬儀社の車によって菩提寺の信徒会館に
運ばれた。

その後、両親と弟と私の立会いのもと、
納棺となる。粛々と段取りよく様々な
ことが進み、葬儀社の段取り力に驚く。

その後、疲れてしまった両親は弟の車で
実家に戻り、私は葬儀社と信徒会館で
お通夜と葬儀の打ち合わせをした。

祭壇の飾り付けのレベルや、会葬礼状の
文面、お礼の品、遺影の背景などだ。
葬儀社はカタログを見せながら説明し
私はその場でどんどん決めていった。

伯母の遺影は、老人ホームで行事の際に
撮影されたものの中から笑顔の写真を
選び、葬儀社に渡した。

今は遺影をデジタル画像処理するので、
大抵の要望には応えられるとのこと。
極端な話、モノクロ写真をカラーにする
こともできるそうだ。

葬儀社によると、今は少人数の家族葬が
増え、それに対応したブランを選ぶ人が
多いとのこと。

伯母の葬儀には10人位しか参列しない
ので、祭壇も装花もコンパクトなものに
した。

打ち合わせが終わり、昼過ぎに実家に
戻り、私は親戚と伯母の友人に、伯母が
亡くなった旨の連絡をした。

伯母が高齢だったこともあって、訃報を
聞いた親戚の反応は淡々としたもの
だった。

私は自分が仕事の電話をしているような
気持ちだった。喪失感がありながら、
どこか事務的な、あるいは何かを演じて
いるような自分がいて、こういう所が
私の、人としての欠点かもしれないと
思った。

夕方には、見積もりを持って、実家に
葬儀社が来た。

お通夜は翌日の夕方、告別式は翌々日の
9時からとなり、斎場はお寺から車で
小一時間の場所となった。

会社には月曜日から3日間の休暇を申請
した。予め、上司には私が伯母の成年
後見人をしていることは伝えており、
話はスムーズだった。

いくつかの打ち合わせは延期のお願いを
メールでして、月曜日の朝一で電話して
事情を説明しよう。

一通り準備が終わり、私は自宅へ帰り
一人でビールを飲んで寝た。
明日は夕方のお通夜に間に合うように
また実家に行く。

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伯母の旅立ち その1

2014年10月30日 19時33分53秒 | 終活あれこれ
10月26日(日)午前1時半過ぎに、私が
成年後見人をしている伯母が入居して
いる老人ホームのスタッフから、伯母が
亡くなったという電話があった。

夜中の電話はご不幸の知らせが多いと
思う。

ベルリンに出張する前から、伯母の
体調は良くなくて、出張中にもしもの
ことがあった時の段取りはつけていった
けれど、伯母はなんとか持ち直して、
頑張っていた。

そのうち、口から食事ができなくなって
生理食塩水と点滴で生き永らえる日々。

10月初めに半年分の財産の収支報告を
司法書士にした際、そういう状態なら
余命は長くないと言われ‥私は心の中で
覚悟をしてアメリカに出張した。

老人ホームのスタッフには、何かあれば
時差関係なく連絡して欲しいとお願い
して、結局は何も連絡はなかった。

出張から戻ってからしばらくしてから
容体が悪化の連絡をもらって伯母は
程なくして逝ってしまった。

老人ホームのスタッフは朝にならないと
お医者さんが来ないから朝来てください
といった。

私はなんとなく眠れないまま、朝を迎え
早朝に葬儀社に連絡し、段取りを聞く。
弟の葬儀を頼んだところなので、私も
妙に落ち着いていた。

朝に実家に行き、両親と連れ立って
伯母のところにいった。

伯母はまるで眠っているかのような
綺麗な死に顔だった。

やがてお医者さんが来て、死亡を確認し
その時間が正式な死亡時間になった。

8時17分、ご臨終です。

その後、老人ホームのスタッフにより
伯母の身体は綺麗にされ、10時過ぎに
ホームのスタッフによるお別れ会が
あった。

葬儀社は9時過ぎにはすでに来ていて、
簡単な打ち合わせをした。

死亡診断書は9時半には届くという。

お別れ会が終わり、伯母は我が家の
菩提寺の信徒会館に運ばれていった。

私は悲しいというより、ちゃんとしなく
ては、という気持ちが強かったように
思う。
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成年後見人としての収支報告

2014年03月31日 20時11分01秒 | 終活あれこれ
私は今日、認知症の伯母の財産を管理
する成年後見人として、後見監督人で
ある司法書士K先生の事務所に行き、
伯母の財産の現状と、半年間の収支報告
をした。

年金のみで、特養ホームで介護を受けて
いる伯母。

主な支出は特養ホームの利用料と、
そこでの薬代やお菓子、飲み物などの
嗜好品代である。

特養ホームから3ヶ月ごとに送られて
くる領収書の束を整理して紙に貼り付け
明細と共にコピーして司法書士に渡す。

K先の事務所で財産目録の提示、通帳
などの現物確認と共に、伯母の近況など
を話し、収支に問題ないことを確認して
もらう。

自分ではお小遣い帳さえ付けられない
くせに、人の財産の管理はする。
1円の間違いもございません。(笑)

やれやれ、良かった。
また半年後、同じ作業だ。

私は頭がハッキリしているうちに、
遺言書を書いて、自分の始末をきっちり
つけようと思うのであった。
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