3D CG, CAD/CAM/3Dプリンタ な日常でつづる クルスの冒険ブログ

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Cool Japan の正体(文章の構成に絶望した)

2008年03月18日 | □アキハバラへようこそ



最近CAD/CAMとかの話題があまり無いね(笑)
アクセスログなどを見ると、何を期待してこのblogを読んでくれるのかおぼろげながら分かるのだけど、それに合わせて話題を選ぶ、ということもしていない。(何度も言うけど、ガンダムとザクの3Dデータは、ない)実際には、お客様先に行けば新しい話題もあるのだけど、それを公に話すことが出来ない、という状況はずっと変わらないものです。世に出る前のモノの話が多いので、これはもう仕方ない。
 
ただ、CADとかCAMの世界っていうのは、意外と変化が無いのも事実で(笑)。あまり新しいネタなども無いんだね。もちろんこの辺りは、どれくらいこのテの知識があるかで大きく感想が変わってくるのだけど、散々見て聞いて知って、経験してしまうと本当に変化がない業界だなぁ…と思う。正確に言うと、世の中の他の話題に比べて変化に乏しい、ということなのだけれども。
世界は、変化と刺激に満ちている。残念だけど、CADとかCAMにはそれが今はない。
 
ということで、今日は先日イキナリ持ち出した「Cool Japan」の解説などしてみます。
以下の文は、週末にえらい勢いで書いて… そして80%くらい切り捨てた文です(笑)。長い文章を書くのは苦じゃない。切るのは辛い(笑)。

ソニーのベテラン設計者のお伴をして、フロリダに出張したことがある。当時すでに定年を迎える直前であった彼は、
「我々はハードとしての製品を沢山輸出して来たけれど、ついに文化を輸出することはできなかった…」
と、淋しげに語っていた。洋酒を好まない彼のために、成田で日本酒を買い込み、それをタンパベイにあるBarでお酌しながら聞いた話だ。
「それが何だっていうんです。良い製品が世界中で喜ばれているだけで十分に誇るべきことですよ。」
ワタシはそう話し、彼を元気付けようとしたことを記憶している。その言葉は、きっと彼の耳には届いていなかっただろう。彼は、そんなことは百も承知で、そして自分たちの最善を尽くし、その発言に至っていたのだろうから。自分自身にも、その言葉は虚しく響いたことを記憶している。製品の輸出では満たされない何かが存在することを、私もどこかで認めていたのだと思う。1990年代半ばのことだ。
 
でも… 時代なんて、パッと変わる。
You Tubeで「Hare Hare Yukai」や「nico nico douga」「lucky star」と検索してみれば、それを感じることができるだろう。
 
前回書いた“Cool Japan”の事業というものについて、「そもそもCool Japanって何ですか?」という、当然と言えば当然、やや意地が悪いとも思える質問をいただくことがある。これについては、正解というものは存在しないだろうことを十分に承知しつつ、その解説を試みてみようと思う。
 
それは、自覚的・無自覚的な要素を混在しつつまだほんの萌芽に過ぎない。だから、このまま成長せずに立ち枯れてしまうことだってあるかも知れない、未だ脆弱なものだ。しかし確実にそれは存在し、かつて一度も出現しなかった状況を作りつつある。
 
“Cool Japan”以前にも、それこそ100年以上前から「ジャポニズム」や「日本ブーム」は時々顔を出して来た。しかし、以下の点において、“Cool Japan”は過去の潮流とは全く異なるものだと言える。

・情報量、渡航者が内外相互に圧倒的に多いこと。
・一部のインテリや富裕層ではなく、インターネットが担う大衆レベルでの了解事項であること。
・我々の伝統的なものだけを対象としている訳ではないこと(ex. ゴスロリ、アニメ など)
・我々も渡航経験が豊富となり、文化的自意識が芽生えている(ex. 帰国後、やっぱり日本はいい国だと思う)
・我々の文化的自意識と、海外からの評価が一致した状態で起きていること
・ことさらに外国人向けに演出したわけではないものが対象となっていること(ハレ晴れユカイは、Hare Hare Yukaiのまま翻訳すらされていない)

自分の「好き」に対して従順であり、そこに生来の「お客様本位」という精神(価値観でもある)が結びつき、製品として発露したコンテンツなり商品の、その総体としての価値を一部の外国人が発見した。それは過去の日本ブームとは全く異なり、我々の自意識と海外からの評価とが一致している… この現象こそが“Cool Japan”の正体なのだろう、とワタシは見ている。
 
この構成要素において、いわゆるヲタク的コンテンツがCool Japanと相性が良いことは、必然であるだろう。ただし、ヲタク的コンテンツのみが“Cool Japan”であるのか?という問いについては明確にNoだと思う。考えてもみてほしい、ヲタク的コンテンツが、その姿のまま奇形的に我々の社会に生じ得るだろうか?そうではないだろう。我々の社会が育んで来たモノやコンテンツは、全て共通の土壌と風土によるものである(あたりまえだ)。伝統工芸にせよ、伝統芸能にせよ、高品質なモノづくりの精神にせよ、それらも十分にヲタク的であり、そして“Cool Japan”なのだと定義するのが正解だろう。
江戸切子の職人は江戸切子のヲタクであり、精密金属加工の職人は精密金属加工ヲタクであり、ヘラ絞り加工の職人はヘラ絞り加工のヲタクなのである。
そしてCool Japanは、我々がそれを自覚的に運用する ことによって、商売になり、文化戦略にもなり得る重要な潮流であるのだと、思う。   
 
そうは言っても、10代~20代の若者に何が出来るのか?ただ同じマンガを見て、ヘンな服を着て、稚拙な歌と踊りで私設文化祭を行っているに過ぎないではないか… そう思 う向きは、文化の奥深さとその影響力について何も分かっていないのだ、と思う。
 
かつて我が国の戦中~戦後世代は、『パパは何でも知っている』『うちのママは世界一』『アイラブルーシー』『名犬ラッシー』などの米国製TVドラマや映画によって、かの国に強く憧れ、その憧れはコンプレックスと呪縛までもを生み出し、彼らの行動さえ決定して来た。それが米国社会の本質を深く理解した上での行動などはなかったにせよ、一国の首相が米国に行った際、かの地の流行歌手に過ぎないエルビス・プレスリーのもの真似までさせてしまう…これが文化のチカラである。この点において、我々よりもウォルトディズニープロダクションズの危機意識は正確で、しかも早かったと言えると思う(彼らはさすがだ)。
 
まぁ、でも、それほど大袈裟に考えることもないのだろう。自分たちが作り出し、自分たちが面白いと思っているものを、外国の人たちが同じように面白いと感じ、同じ服を着て
「カンタンナンダヨ ソンナノ~♪」(本当に口パクしてるんだよ!)
と日本語で歌い、踊ってくれていたら嬉しくはないか?嬉しいだろう?そしてそれは、自動車や家電製品に代表される製品を、海の向こうで喜んで買い求め使ってくれているという状況にも増して、なぜかさらに嬉しく、ワクワクするものではないだろうか?製品として発露した文化ではなく、文化そのものが評価された瞬間だからである。

それが“Cool Japan”ということなのだろうし、ひとまずはそれを単純に喜んでいれば良いのだと、思う。ガイジンの目を意識すると、言動がおかしくなっちゃう… ってのが、我々の性格だ(笑)。そのままでいればいいと思うのだ。 我々は今のまま、そのままで、すごくCoolなんだよ、ってことでいい。それを、ガイジンが大衆レベルでやっと発見してくれましたね、ということだ。自分たちに「評価軸」を持てず、ガイジンに評価されて初めて「軸」を得る(しかも、白人種からの良い方の評価を安易に採用しがちで、黄色人種からの悪い方の評価を闇雲に採用しがちだ…)というのは、我々の性格として今後もずっと変わらないだろう。

ただし、今回の“Cool Japan”が過去のどの「日本ブーム」とも異なるのは、我々自身が実際に外国に渡航した経験を持ち、その上で自意識と海外からの評価が一致している… という点、そしてそれが大衆レベルで非常に速い速度で共有されている、という点で、全く新しい潮流だろう。
 
…だめだ、文章の構成が悪い…(あぁ) でも言いたいことは言った。我慢して読んでね。

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