天赦園を出てから村田蔵六が2年半の宇和島滞在中に住んでいたと言う跡地に、徒歩で向かった。

神田川と言う川を渡ると裏手には墓地のある山の迫った場所にあった。神田川沿いには御徒町の名前の表示が見えたので、この辺りは藩士の住まいがあったのだろう。村田以外にも同じ蘭学関係者としては高野長英やシーボルトの娘、イネも宇和島に住んでいたことがある。
住居跡の中央には緑色片岩で作られた立派なテーブルとイスがあった。伊予でも中央構造線に沿った場所でしか採れない石で、庭石などで見かける。
伊達博物館の臨時休館で空いた時間ができたので、地形的に宇和島湾を形成している九島へ行ってみた。島に渡る橋が4年前に完成し、車で行けるらしい。

島から宇和島方面を撮った画像で、橋の全長は486メートルとなっている。

魚の養殖とみかんの栽培が盛んなようだ。島内は道路幅が狭いために、一周するなら自転車でどうぞと書いてあった。

養殖いかだを移動させるのか、3隻の漁船がいかだに張り付いてエンジンを全開にしていたが、スピードは徒歩よりも遅く見えた。
この後、宇和島を離れて西予市宇和町にある歴史文化博物館へ向かう途中で、道の駅「どんぶり館」に寄って昼食をとった。


前日、宇和島に向かっていた時にも「どんぶり館」の看板を見ていたが、おもしろい名前だがどんな意味があるのか興味があった。シラス丼を食べながらNETで調べてみると、西予市は2004年に五つの町の合併により誕生したが、どんぶりは五つの町の人々が道の駅に集まって一緒になることを表現したようだ。
ユニークなネーミングだが意味がわかると忘れられない。レストランは平日にも関わらず客が多く、地場産品のマーケットや売店も賑わっていた。

目的地の歴史文化博物館は広くて立派な建物だった。瀬戸内海ができる以前の石器時代からの伊予地方の歴史や民俗の学習が出来るが、常設展示も後半になると、やや冗長な感じがしなくもない。ここは県内の小中校のバス旅行先になっていると思うが、多すぎる展示は消化不良になるのではと感じた。
この後、四国山地に入ると県境を超え、今夜の宿泊地「梼原」に向かった。

神田川と言う川を渡ると裏手には墓地のある山の迫った場所にあった。神田川沿いには御徒町の名前の表示が見えたので、この辺りは藩士の住まいがあったのだろう。村田以外にも同じ蘭学関係者としては高野長英やシーボルトの娘、イネも宇和島に住んでいたことがある。
住居跡の中央には緑色片岩で作られた立派なテーブルとイスがあった。伊予でも中央構造線に沿った場所でしか採れない石で、庭石などで見かける。
伊達博物館の臨時休館で空いた時間ができたので、地形的に宇和島湾を形成している九島へ行ってみた。島に渡る橋が4年前に完成し、車で行けるらしい。

島から宇和島方面を撮った画像で、橋の全長は486メートルとなっている。

魚の養殖とみかんの栽培が盛んなようだ。島内は道路幅が狭いために、一周するなら自転車でどうぞと書いてあった。

養殖いかだを移動させるのか、3隻の漁船がいかだに張り付いてエンジンを全開にしていたが、スピードは徒歩よりも遅く見えた。
この後、宇和島を離れて西予市宇和町にある歴史文化博物館へ向かう途中で、道の駅「どんぶり館」に寄って昼食をとった。


前日、宇和島に向かっていた時にも「どんぶり館」の看板を見ていたが、おもしろい名前だがどんな意味があるのか興味があった。シラス丼を食べながらNETで調べてみると、西予市は2004年に五つの町の合併により誕生したが、どんぶりは五つの町の人々が道の駅に集まって一緒になることを表現したようだ。
ユニークなネーミングだが意味がわかると忘れられない。レストランは平日にも関わらず客が多く、地場産品のマーケットや売店も賑わっていた。

目的地の歴史文化博物館は広くて立派な建物だった。瀬戸内海ができる以前の石器時代からの伊予地方の歴史や民俗の学習が出来るが、常設展示も後半になると、やや冗長な感じがしなくもない。ここは県内の小中校のバス旅行先になっていると思うが、多すぎる展示は消化不良になるのではと感じた。
この後、四国山地に入ると県境を超え、今夜の宿泊地「梼原」に向かった。
























