振り出しに戻る「落陽日記」

旅や日々の生活の一コマ。60代半ば、落陽期を迎えながら気持ちは再び振り出しに戻りたいと焦る日々です。

醍醐の水を口に含んだのは久し振り

2019-11-07 17:29:39 | 日記
天気が良かったので急に思い立って醍醐寺に出掛けた。

醍醐寺と言うと世界遺産にも認定され、国宝でもある金堂や五重塔、そして太閤秀吉が花見をした桜で有名だが、これらは下醍醐と呼ばれている場所にある。自分が出掛けたのは醍醐寺と言っても上醍醐と呼ばれる下醍醐とは山道を登って1時間ほど離れた場所だ。

山道を登って上醍醐の寺領に入ると案内の看板と、石段の下に錫杖が置かれている。いつものことだが錫杖を2度鳴らして、自分が来たことを山に伝えている。





しかし自分はこの石段を登らずに右手の坂道を上がって、先ずは一番高所にある開山堂を目指すようにしている。坂道がまだまだ連続する。



開山堂には醍醐寺を開山した聖宝(理源大師)の像があるそうだが扉が閉まっていて見たことはない。隣にある神仏習合の社、白山大権現は縁結びの神らしく、この年齢で今更必要なさそうだが、ここに来ると必ずお参りをしている。



紅葉の時期にはまだ早いが如意輪堂の前のイチョウの木が黄色く輝いていた。





この辺りは標高450メートルで南西方面に視界が開けていて、宇治や八幡、山崎方面、さらには枚方や高槻方面まで見渡せるが、この日は黄砂現象もあって霞んでいて、画像にならなかった。空気がが澄んでいる冬季になると大阪まで見えることもある。

お茶を飲んで休憩の後、少し下った場所にある五大堂に参拝した。五大力さんと呼んでいるが、毎年2月にここで行われる大きな鏡餅を持ち上げる力較べの行事は有名だ。銅葺き屋根の緑青が青空に染み込むように見えて、キレイだった。





五大堂の脇からは横嶺峠に続く山道があるが、進入禁止になっていた。推測だが昨年の台風や大雨で発生した倒木が土砂崩れが復旧されてないのだろう。

坂道を下って行くと薬師堂がある。現存の建物は12世紀に再建されたものらしい。



ここを少し下ると2008年に落雷で焼失した准胝堂の跡が広がっていて、石塔が建っている。准胝堂は西国三十三ヶ所の観音霊場十一番札所で、自分は20年前に初めてお参りしたが、それ以来たびたびお参りに来ていた。





山道を登る運動も兼ねて観音様にお参りして、五大力さんの社務所にあるスタンプを毎回ノートに押してから下りていたが、残念なことに焼失してから足が遠のいてしまった。再建の動きはあるようだが、自分の目でそれを確かめられる時が来るかはわからない。

准胝堂跡前にある少し長い石段を下りると醍醐水の飲める場所がある。理源大師が山にかかる五色の雲に誘われるようにこの地に来た時、老人が谷の水を飲んでいた。大師も飲んでみると醍醐(乳製品、ヨーグルト?)のように美味だったのでこの地を醍醐と名付けたとある。







久し振りに醍醐水を口に含んでみた。頻繁にお参りをしていた頃はペットボトルに入れて持ち帰っていたこともあるが、一時期、枯れて水が出なかった記憶もある。

醍醐水の石段を下りると、上醍醐の山を一巡して、錫杖の置いてあった所に戻ったことになる。醍醐寺は聖宝理源大師が山頂付近で開山した後に当時の今上天皇だった醍醐天皇の勅願寺となり、麓の下醍醐にも伽藍が建てられたようだ。つまり山道を登らなくてもお参りが可能になったのだろう。

以前までは醍醐天皇の勅願によって建立された寺だから醍醐寺の名前があると思っていたが、最近になって間違っていることが理解できた。醍醐寺を勅願した天皇なので死後に醍醐が追号されて醍醐天皇と呼ばれるようになった、と。大学受験は世界史を選択したからなあ。

准胝堂が健在の頃は三十三ヶ所参りの人が多く登って来ていたが、今は下醍醐に仮設の札所と観音堂が置かれ、御朱印もそこでいただけるようだ。そのためか往時に比べて登って来る人も少なく、今回はお寺の関係者らしき人も見かけなかった。長い山道を登って来て准胝堂の観音様にお参りし、醍醐水を口にしてこそ御朱印のご利益もあるような気がするが、これは致し方ないのか。