10月15日(水)
最後の2台が作られた1876(明治9)年は、西南戦争の1年前。
この年の唐津では、大島小太郎が魚会舎の経営立て直しに奔走していました。
同じ頃、宮島傳兵衛(七代目、のち宮島醤油を開業)が、海運業の夢を膨らませ石炭を満載した大麻丸に乗り、横浜を目指して唐津港を出港しています。
佐賀の乱以降、唐津も含めた現佐賀県は、明治新政府から度重なる厳しい措置を受けています。
景気は悪くなり、唐津藩時代には願い出ることで頂けた赤子養育米ももらえない中で、子どもたちを学校へ行かせることで必要となる授業料の工面など、多くの庶民は苦しい生活状況であったようです。
そのような時代背景の中、最後の曳山が作られます。
十四番曳山 江川町「七宝丸」 1876(明治9)年。
十三番曳山 水主町「鯱」 より1か月早く完成した、宮和助の作とされるこの曳山は、大石町「鳳凰丸」と対になっています。
それは、実際の制作にあたったのが、大工棟梁田中市次正信ら大石町関係者であったからだと言われています。
江川町と水主町を最後に、曳山が作られることはありませんでした。
この後、唐津の町は、石炭積み出し港として大きく栄えていきますが、それは、これから15年から20年後、明治中期のことです。
1887(明治20)年、私設の鉄道を建設してよいという条例が公布され、それを機に一気に唐津鉄道建設の機運が高まります。
また、1889(明治22)年には、唐津港が国の特別輸出港に指定され、大きな船舶が入港できるように整備されていきます。
このあたりのことは、昨年度の5年生が「大島小太郎」の勉強をして紙芝居にまとめ、地域に向けても発信しているところです。
こうして「曳山」の歴史を柱にして、唐津の幕末から明治初期にかけての時代を眺めてみると、まだまだ調べてみたいことがたくさん出てきました。
唐津の町が発展したり、唐津から出て活躍した人々がたくさんいたりする、その力になったのは、この時期の教育の力だと思うからです。
そして、その頃の教育に携わってきた先達の思いを、大志小学校の中にも受け継いでいきたいと思います。
この企画は、またしばらくして続けていくつもりです。