10月13日(月)
今日も、終日台風19号の影響で、外には一歩も出られません。
土日のたびの台風というのも困ったものです。
さて、昨日に引き続き、「曳山」の話です。
今はなき、紺屋町「黒獅子」が作られたのは、1858(安政5)年。
この時期の日本の歴史をかんたんにまとめると、次のようになります。
1853(嘉永6)年 黒船に乗ってペリー来航。
1854(安政元)年 日米和親条約締結。鎖国終わる。
1855(安政2)年 吉田松陰、松下村塾の主宰者となる。
この年7月、神集島沖にロシアの軍艦がやって来たという知らせが、神集島、相賀、佐志の庄屋を経てお城に入り、250人の藩士と村々から駆り出された300人の人足が、呼子、湊の沿岸に出かけて警備にあたったという記録があります。
その後、異国船の渡来に備えて、遠見番所やお台場が離島や沿岸部に14カ所も作られており、開国まもない時期の唐津の緊張した空気が伝わってくる話です。
1856(安政3)年 13代将軍徳川家定と篤姫が結婚。
1857(安政4)年 高杉晋作、松下村塾に入塾。福沢諭吉、大阪適塾の塾頭になる。
1858(安政5)年 井伊直弼大老となる。日米修好通商条約調印。
1859(安政6)年 安政の大獄の嵐吹き荒れる。吉田松陰斬首。
1860(万延元)年 咸臨丸に乗り、勝海舟、福沢諭吉ら出港。桜田門外で井伊直弼暗殺。
(咸臨丸の勇姿を伝える記念切手)
1861(文久元)年 尊王攘夷の思想が流行。幕府側は公武合体を進める。
1862(文久2)年 坂本龍馬脱藩。寺田屋事件起こる。
1863(文久3)年 高杉晋作が騎兵隊を創設。新撰組できる。薩英戦争起こる。
1864(元治元)年 池田屋事件。下関戦争。第一次長州征伐。
このような幕末の激動の時代の流れの中で、「黒獅子」そして「武田信玄の兜」が作られています。
十番曳山 木綿町「武田信玄の兜」 1864(元治元)年。
紅屋近藤藤兵衛の作と言われ、ここまでが江戸時代の「曳山」ということになります。
そして、「義経の兜」以来の「兜」ヤマが、ここから3台続くことになります。
「信玄」と「謙信」の間の日本の歴史を振り返ります。
1865(慶応元)年 坂本龍馬、亀山社中を設立。
1866(慶応2)年 薩長同盟締結。第2次長州征伐。このとき幕府軍小倉口総指揮を小笠原長行が執るが、長州軍に敗れる。
1867(慶応3)年 高杉晋作病死。坂本龍馬暗殺。徳川慶喜、大政奉還を宣言。
1868(明治元)年 鳥羽伏見の戦い。江戸城無血開城。五箇条の御誓文が示される。
1869(明治2)年 土方歳三、函館五稜郭で戦死し、戊辰戦争終結。
旧幕府軍として戊辰戦争を最後まで戦った唐津藩士は、約30名と言われています。
そのうち、小笠原長泰の末子として1852(嘉永5)年に生まれた小笠原胖之助は、器量に優れ将来を嘱望されていましたが、幕府への忠義から彰義隊へ加わり、最後は函館の地で壮絶な戦死を遂げています。
まだ17歳という若さでした。
胖之助とともに10名の唐津藩士も、この戦いで戦死しています。
この、胖之助の悲話について詳しく知りたい方は、下記の「洋々閣HP~女将ご挨拶」をご覧ください。
(http://www.yoyokaku.com/sub7-46.htm)
十一番曳山 平野町「上杉謙信の兜」 1869(明治2)年。
5年前に木綿町が「信玄」を作ったので次は「謙信」を、という話がどこかであったことは想像できますが、これに関する話は町内でも伝わっていないそうです。
伝わっているのは、富野武蔵の作によること、松屋文具店横の場所で曳山の台車が作られたことなどです。
また、平野町は、新町や江川町と同じく、唐津城下17か町の1つであり、もと下級武士の住む武家地でしたが、のちに職人たちが移り住み町人町になりました。
これは、お殿様が替わるたびに12万石が8万石、さらに6万石と、石高が下がってきたことで、当然抱える家臣団の数も減り、武家屋敷にも空き家が多くなってきたからだと考えられます。
十一番曳山 米屋町「酒呑童子と源頼光の兜」 1869(明治2)年。
平野町より1か月遅く、吉村藤右衛門の作とされています。
曳山制作途中の明治元年、米屋町は「22戸、88人」であったことがわかっています。
曳山1台当たりの制作にかかる費用は、現在のお金に換算すると約1~2億円と言われていますので、22戸で割れば、1世帯当たり約500万円~1000万円の負担をしたことになります。
それだけの経済力が、当時の唐津の各町にあったということがわかります。
十二番曳山 京町「珠取獅子」 1875(明治8)年。
富野淇園の作で、糸屋草場家の敷地内で制作されていたことがわかっています。
平野町や米屋町が曳山を作った明治2年と、京町が作った明治8年の間に、唐津の町は大きく変化しています。
1870(明治3)年に、唐津藩は、それまでの藩校である「志道館」や「橘葉医学館」に加え、洋学の充実を図るため「耐恒寮」を設立しました。
この「耐恒寮」には、のちの内閣総理大臣となる高橋是清を英語教師として迎え、学校では一切英語しか話さないという徹底した教育で、多くの若者を育てています。
中でも、東京駅などを設計した辰野金吾、同じく建築家の曾禰達三、早稲田大学第2代学長天野為之、大審院判事掛下重次郎、ダイナマイトを初めて鉱山開発に活用した麻生政包、同じく炭鉱家の吉原政道、そして、唐津の発展に尽くした大島小太郎の7名は、明治期の「唐津の七賢人」として採り上げてよいと思います。
しかし、残念なことに、この「耐恒寮」は、1872(明治5)年9月に閉校となりました。
前年の廃藩置県により、唐津藩という財政援助をするところがなくなったからです。
同年、学制発布により、旧藩校も全て閉ざされることになりました。
学制が示されても、それを受ける学校がまだできていない中で、学ぶところを失った子どもたちを集めて、「志道義舎」という小学校が、有志の人々によって作られています。
ところが、1874(明治7)年2月、江藤新平や島義勇の呼びかけに応じた旧唐津藩士が、この志道義舎の地に集まって決起し、その後兵站基地となったため、同年3月には廃校となってしまったのでした。
この状況を、たまたま帰唐した大島小太郎が目にして、大いに心を痛め、旧橘葉医学館のあった場所(今の札ノ辻児童公園)に「余課序」「小学余課」という学校を作っています。
そして、1875(明治8)年5月、志道義舎跡に「松原小学校」が設立されました。
これが、のち唐津小学校へとつながり、われらが大志小学校のルーツとなっています。
一方、「余課序」は、1877(明治10)年「唐津共立学校」となり、佐賀や長崎よりも一足先に、学制に沿った中学校ができたのです。
これが現在の第一中学校です。
このように、明治新政府ができてもしばらくの間は、唐津藩がそのまま政治を行っていましたので、唐津の町の人々の感覚としては、世の中が大きく変わったとは感じなかったかもしれません。