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曳山の歴史(1)

2014-10-12 | 日記

10月12日(日)

 

市民体育祭が台風接近のため中止となりました。

予定していた子どもたちの活躍をブログにすることができなくなりましたので、代わりに「曳山」のことについて、書きたいと思います。

 

なぜ「曳山」か。

それは、大志小に赴任して、耐恒寮の大島小太郎や辰野金吾、そして、唐津小学校の大川謙治初代校長らが少年時代を過ごした、幕末から明治にかけての唐津の町は、続々と曳山が作られている時代でもあるということに、大変興味を覚えたからです。

 

 

一番曳山 刀町「赤獅子」 1819(文政2)年。

この2年前に、当時唐津藩主が水野忠邦から小笠原長昌へと替わっています。

厳しい治政で唐津の領民にはあまり人気のなかった水野氏から、小笠原氏の治政に替わったことが、唐津くんちの始まりと関係があるのかどうかはよく分かってはいません。

 

日本は、当時文化文政期という庶民の文化が栄えた時代です。

お伊勢参りが流行し、歌舞伎や浮世絵などを楽しみ、金魚売りや風鈴売りが通りを行き交うような、時代劇で目にする江戸時代の庶民のくらしというのが、この時代をよく表しています。

 

 

赤獅子の制作者、石崎嘉兵衛も、お伊勢参りをしています。

そして、旅の途中、京都に立ち寄った際に、祇園山笠を見て大いに感ずるものがあり、唐津に戻り、赤獅子を作ったと言われています。

 

 

二番曳山 中町「青獅子」 1824(文政7)年。

赤獅子ができてから5年後、辻利吉の作です。

同年、長崎にシーボルトが着任しています。

鎖国をしていた日本の近海に外国船がしばしば現れ、ときには、交易を幕府に迫ってきていた時代でした。

 

曳山の成立を知る上で、青獅子はとても重要です。

青獅子は、神田に伝わるカブカブ獅子とほぼ同じ色や形をしているのです。

このカブカブ獅子は、神田のほか町田、菜畑、二タ子など、旧唐津村の農村部に存在していたと伝えられていますが、今その頃のものは残っていないそうです。

 

 

 

獅子を曳山にしている町は、紺屋町まで入れて15町のうち5町。

しかも最初の2町の曳山は獅子です。

浜崎や相知や本山や湊など、唐津周辺に伝わるくんちのヤマは、全て京都や博多の祇園山笠と同じような山鉾です。

ところが、京都祇園山笠をヒントにしたと言われる石橋嘉兵衛は、そうした山鉾ではなく、神田のカブカブ獅子と同じような曳山を作っているのです。

 

このことは、とてもおもしろいと思います。

 

神田カブカブ獅子の始まりは、1802(協和)年と伝えられています。

神田と言えば、唐津神社が二の宮として祀っている、神田五郎宗次を思い出すでしょう。

今でも神輿を担ぎ、諸道具を運ぶのは、神田の人々と決まっています。

こうしたことから、唐津神社のご神幸のお供をするところから唐津くんちの曳山巡行は始まているし、京都祇園山笠に触発されて最初の刀町の曳山は作られたのですが、その曳山の形は、祇園山笠ではなく地元の獅子舞の獅子をかたどったものだったのではないかと考えられます。

 

 

四番曳山 呉服町「九郎判官源義経の兜」 1844(天保15)年。

三番曳山、材木町「浦島太郎と亀」(1841年)に次いで、石崎八右衛門により作られました。

 

天保の大飢饉(1833年)や大塩平八郎の乱(1837年)など、国内でも大きな天災や事件が続いていた天保年間。

唐津藩も、1828年に大きな台風の被害を受け、天保の大飢饉は藩内にも深刻な被害を及ぼしたという記録が残っています。

さらに、小笠原のお殿様は、4代目まではいずれも病弱で、安定した藩政が布けなかったのではないかと思われます。

初代 長昌(在位1817~23年、28歳で死去)

2代 長泰(1823~33年、27歳で病弱のため隠居)

3代 長会(1833~36年、27歳で死去)

4代 長和(1836~40年、20歳で死去)

5代 長国(1840~71年、廃藩置県まで31年間藩主を務める)

17年間、三番曳山ができなかったのは、こうした社会的な影響があったことも考えられます。

 

ここでまたおもしろいのは、曳山が、獅子頭ばかりでなく、亀や兜や魚など、様々な形に広がりを見せてきたことです。

この「浦島と亀」「義経の兜」の2台の曳山が作られたことが、その後の曳山の自由で独創的な姿につながっていると思います。

 

この四番曳山以降、八番曳山までの5台が、4年間の間に制作されました。

五番曳山 魚屋町「鯛」 1845(弘化2)年。

六番曳山 大石町「鳳凰丸」 1846(弘化3)年。

 

 

七番曳山 新町「飛龍」 1846(弘化3)年。

醤油醸造を営んでいた岡田屋前川仁兵衛の依頼で、陶工中里守衛(のち9代太郎衛門)、中里重広の兄弟により制作されています。

 

本来の龍とは少し異なって、小さな手足がなかったり、尾ひれがついていたりしています。

依頼した仁兵衛が、京都南禅寺を訪れた際に見た障壁画の龍の姿にヒントを得たとも言われていますが、そこには本来の姿の龍が描かれており、新町独特の「飛龍」の姿にどうしてなったのか、興味深いところです。

 

 

八番曳山 本町「金獅子」 1847(弘化4)年。

制作者は不明です。

塗師は原口勘二郎とされています。

私と同じ苗字ですが、親戚という話は聞いていません。

 

原口という苗字は、佐賀県神埼郡と鹿児島県にルーツがあると言われていますが、私のご先祖さまは佐賀県でもう1つ原口姓が多い、武雄市のほうになります。

小笠原氏に関して言えば、大阪夏の陣で武功を挙げ戦死した小笠原秀政・忠脩父子の直系である、播磨国安志藩小笠原家の家臣の中に、原口という姓が見られるという記録はあるようですが、唐津にやって来た小笠原家臣団の中に原口という姓の家臣がいたとは聞きません。

また、いたとしても、それが本町に関係のある塗師になったというのもあり得ない話です。


私たちは、学生の時、「明治維新によって、庶民も姓を持つようになった」と学びましたが、実際こうして江戸時代に作られた曳山の歴史を調べていると、武士ではない多くの人たちが姓を持っていることに気づきます。

江戸時代に姓があるということについて、ある人は、木下藤吉郎秀吉を例に挙げ、戦国時代までは農民でも兵士であるという、兵農分離がされていなかった時代が長く続いており、その頃の姓を、江戸時代になっても必要な場合には使っていたのが、本当の歴史であるようです。

 

ちょっと苗字にこだわって、話がそれてしまいました。

 

塗師は、新町では久留米から中島良吉春義を呼び依頼しています。

筑後地方には、今でも八女福島仏壇仏具協同組合があるなど、漆職人あるいは塗師と呼ばれる人たちがたくさんいます。

ここの起源を探ってみると、まさに唐津の曳山が制作されていく時を同じくして、江戸後期の文政年間に八女での仏壇作りが始まり、嘉永年間に確立されたとありますので、仏具の最後を仕上げる塗師集団が、それ以前から多くいたことが想像できます。

こうした人たちの中に、神埼をルーツとする原口勘二郎がいて、本町に仕事として呼ばれたと考えるのが一番近いのではないでしょうか。

 

 

明治維新に向かう幕末の歴史の中で、唐津藩の若者たちの中には、新選組と行動を共にした若者、勤王の志士たちと思いを同じくした若者、耐恒寮に学び新たな時代を切り拓いていった若者など、実にさまざまな若者たちがいました。

そうした若者たちのエネルギーは、こうした「曳山」を作り続けてきた唐津の町の持っていたエネルギーによって、おそらく醸成されてきたのではないか。

それで、「曳山」が作られてきた頃からの唐津の歴史を、もっとしっかりと勉強してみたいと思うのです。

(なお、大志小のブログということで、主に大志校区の曳山について書いていきます)