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湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆ヒンデミット:「世界の調和」交響曲

2016年10月20日 | ドイツ・オーストリア

◎フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル(西ドイツ放送局管弦楽団?)(FONIT CETRA/ORFEO他)1953/8/30ザルツブルグlive・CD

テープ音源であるEMI盤と同じ日付がしるされ、同一演奏異マスターであることを示唆しているが、一部で偽演もしくは演奏日違いという指摘もあるので?付で別項としてあげた(2013年補:orfeoより改めてボックス収録されたため?を外した)。なぜそういうことが言われるかというと、この盤は余りに音が良過ぎるのである。変な操作もなく、演奏中の客席のざわめき(フルヴェンというよりヒンデミットへの反応と思われる)まで聞き取れる。よく知られたことだが戦後イタリアのお金持ちやらなんやらが中欧の放送用などマスターもしくはそれに近い音源を大量に買取り、それがCETRAやカナダではあるがROCOCOなどに流れて「妙に音質のよい海賊盤」として出回った。その一枚というわけである。

これはあきらかにEMIなど比べ物にならない新しくクリアな音で(戸惑い気味の終演後拍手では撚れが出るが)、もっとも詳細確認をしていないので同一録音のマスターに近いものなのかどうか、冒頭にのべたとおり別物なのかわからない。ただ、演奏自体フルヴェンとしか思えない異常なオケのノリがあり(ヒンデミット事件のこともあるしもともと保守派の多い土地でもあるし客席はぽかーんだが)、しかも書いてあるとおりVPOとするならここまでベルリン臭い集中力の高い正確な音に作り変えられたのは、同時期においてフルヴェンをおいて他にない気がする。


この録音はテンションだけでいっても、演奏自体の完成度、理解度からいっても作曲家自作自演に比肩するもので、ほんとにフルヴェンだとしたら、よくやってくれた、よくオケにここまでノらせて最後のあの凄まじい高揚までをスピーディに力強く完璧に表現してくれた(スコア解釈上ここはけっこう落ち着いてしまいがちで(高音打楽器の緩徐部を必要以上にひっぱったり最後のアッチェルすべきところを弦に気遣ってまったくテンポアップしなかったり)ムラヴィンなどはそこが痛いのだが、旧い演奏はこのように突っ走るのが常だったようだ)、そしてこんなクリアな録音がよく残っていてくれたと思う。世界の調和交響曲の叙情的でロマン的な真価がはっきり見える非常に美しく確信に満ちた演奏であり、偽演だとしたらその指揮者に拍手をおくろう(力感溢れるもっていきかたはいかにもフルヴェン的だがフルヴェンの一回性の独特の解釈が余り盛り込まれていない、率直すぎるようにも思う)。フルヴェンの世界の調和を聞くならこの盤しかありえません。今改めておもった。録音状態の問題はつくづく大きい。
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☆シマノフスキ:ヴァイオリン協奏曲第2番(1932-33)

2016年10月19日 | Weblog

◎シェリング(Vn)シュミット=イッセルシュテット指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団(En Larmes:CD-R)

シェリングの同曲の演奏記録は知る限り3つあった。やや生硬なスタジオ録音盤(PHILIPS)と、非常に録音状態の悪いライヴ盤二枚(指揮アンセルメ、ロジンスキ)の三種である。だがそこに登場したこのCDーRはシェリングのベストの状態において録音された盤であり、シュミット=イッセルシュテットの硬質で精巧な曲作りの中にあって同曲の価値を改めて知らしめるものとなっている。モノラルだが録音もよい。シュミット=イッセルシュテットは曲の中に埋没した独特のフレーズや響きを抉り出し、シマノフスキが最後に到達した民族音楽の世界が、決して先祖帰りではなく、現代の新鮮な響きの中に巧妙に創り込まれた世界であることを知らしめている。一方ここでのシェリングは完璧な解釈と技巧を披露しており、どの盤よりも成功している。この盤はシマノフスキの二番の古典的演奏と成りうる価値を持つものである。,
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☆ディーリアス:「人生のミサ」~第二部への前奏曲「山の上に」

2016年10月19日 | イギリス

○デニス・ブレイン、ビアズ、ホワイト(Hr)ビーチャム指揮RPO(EMI)1948/5/8・CD

10年以上前の東芝EMI「デニス・ブレインの芸術」に収録されたSP起こしで、針音がそのまま入っているのがむしろ懐かしい復刻状況。それゆえ高音の伸びはよく、ノイズを我慢しさえすれば透徹したホルンソロの響きとディーリアスらしい和声のうつろいを楽しむことができる。ブレインである必要はないが、ブレインらしい「素っ気ない」表現は曲の意味をも考えさせる。まあ、録音は悪いです。何故これら新復刻から漏れているのかよくわからない。ビーチャム全曲録音のさいも参加している模様。
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☆ラヴェル:ツィガーヌ

2016年10月18日 | ラヴェル

◎ヌヴー(Vn)ジャン・ポール・ヌヴー(P)(polskie nagrania他)CD

この曲で満足したことはない。モノラルだし、ヌヴーのコンチェルトものなど余り好ましく思ったことはない。しかしながらこれは、ラヴェルでも大して魅力的と思えないこの曲に血を通わせ肉をあたえ、しかしスリムでラヴェルらしさを失わずに東欧のヴァイオリニストのように弾き抜けていく。でも民族色はない・・・これはラヴェルだ、ラヴェルという濾過をへた民族音楽なのだ。お国ものがいいとは限らない、ましてやこれはラヴェルという特異な作曲家の工芸品である。でもこれを聴くと、エネスコですら太刀打ちできなかっただろう本質を突いている、たぶんこういう曲をやるために生きて行くはずだったのだろう、と想像する。姉弟による遺された記録のひとつ。◎。なんだか説明できない演奏だ。
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☆カーペンター:交響詩「海流」(1944改訂版)

2016年10月18日 | Weblog

ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィル(ASdisc)1944/10/8改訂版初演ライヴ・CD

アメリカ異色の印象派作曲家の作品。エルガーに学んだこともある日曜作曲家である。「海流」というとディーリアスの曲を想起するが、同じホイットマンのテキストを用い、同じく印象派の影響を受けながらも、より鈍重でドイツ的な趣をもつ作品になっている。中声部以下の音に偏重しているが、たまに海鳥の声のようなフルートが入ったり、ハープが効果的なアルペジオを鳴らしたり、ちょっと耳を惹く場面もある。ディーリアスやバックスのようないくぶん晦渋さもあるけれども、深い心象表現を含む、アメリカ的な能天気な音楽とは一線を画したものとなっている。ただ、音詩としてはいささか散漫である点も否定できまい。ロジンスキは適度に熱情的に、そつなくやっている。拍手はほどほど。 ,
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☆ガーシュイン:パリのアメリカ人

2016年10月18日 | Weblog

◎ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィル(NYP/ASdisc)1944/10/1live・CD

鄙びた音だがそこがまたよい。ロジンスキの情感のこもった解釈はニューヨーク・フィルを存分に歌わせて、なかなか聞きごたえのある演奏にさせている。いたずらにポルタメントをかけさせることもしないし、必然性の無い伸び縮みはしないのはロジンスキ流儀。このスウィング、クラシカル・ミュージックの表現ではもはやないかもしれないが、これはそういう音楽。ただ音の楽しさに心浮き立たせよう。名演。,
 

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マーラー:交響曲第1番「巨人」

2016年10月17日 | Weblog

バルビローリ指揮チェコ・フィル(bs)1960/5/15live・CD

協会盤。これはバルビローリの得意中の得意曲で、ニューヨーク・フィル公演にてアルマの賞賛を受けたことは有名だ。その遺された記録の中ではやや下の録音か。まず状態が良くない。分離が悪くて、このオケならではの折角の弦楽器の各声部がきちっと別れて聴こえて来ず、もやっとヤキモキする。しかしそれでもヴァイオリンの音域は比較的はっきりしているので、三楽章の(冒頭コンバスはヘタクソバージョンだが聴こえづらい…)中間部、夢見る歌謡旋律は縮緬のようなヴィヴラートの襞までびっちり揃って美しくひびき、「弦のバルビローリ」を堪能できる。もっとも独特の効果的な歌い回しは控えめ。オケの(ヴァイオリンの)美質を(異様に)引き出すに留まっている。この演奏では四楽章の緩徐主題でも同様のものがきかれ耳を虜にする。一方でブラスは野放図にきこえる。あけっぴろげで雑味がある。これもオケの特質かも知れないが。もう一つ文句をつけるとすれば二楽章の遅さだがこれは解釈なので仕方ない。全般とおして拍手も普通で名演の範疇には入らない、あくまで客演記録のレベルとして認識できるものではあるが、バルビローリ好きでイギリスやアメリカ以外のオケを聴きたい向きにはいいか。フランクの正規録音とは比べるまでもない音質なのでご注意を。
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☆シェーンベルク:ワルソーの生き残り

2016年10月17日 | Weblog

○ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団他(DEUTSCHE SCHALLPLATTEN,ETERNA)LP

とても美しく仕上がっている。文字通りの生き残りの男のモノローグから始まり、ガス室へ一人一人と送られる恐怖の感情の高ぶりに従ってささくれ立った(でも必要最小限に削り上げられた)管弦楽がヒステリックに叫び出す音楽だ。しかし透明でかつ人間的ですらあるケーゲルの演奏は、「聞けユダヤの民」の唐突な合唱にいたるまで一貫した美質に貫かれており、それはマーラー的な意味でロマンティックですらある。聞きやすい演奏なので機会があればどうぞ。私の盤には擬似ステレオ表記があるが、聞いたところかなり聞きやすく本当のステレオのように聞こえる。○。,
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☆シベリウス:交響曲第2番

2016年10月17日 | Weblog

◎ザンデルリンク指揮バイエルン放送交響楽団(EN LARME:CD-R他)1993/4/30LIVE

非常にクリアな録音である。オケは技術的に申し分ない。アーティキュレーションの表現が細やかで、彫りの深い表情は密かに面白い。3楽章の独特のフレージングは健在。緩徐部で木管が情緒的に歌い込むところはレニングラード・フィルのころと変わっていない。4楽章へ向かっての盛り上げは盛大で、ブラスの咆哮をバックに偉大にひびく凱歌はとてもドイツ的、堂々としている。ヴァイオリンの絶妙のフレージングに傾聴。人工的なところがなく滑らかで且つ雄弁だ。ライヴとしてはとんでもなく素晴らしい表現で、ザンデルリンクがとりわけこの曲のこの楽章に愛着を持っているのがわかる。緩徐主題の哀しく寂しい解釈も健在だ。管楽器と弦楽器のバランスが絶妙。分裂症的な展開においてザンデルリンクはマーラー的に効果的にフレーズの描き分けをすることによりシベリウスとマーラーの内在的類似性をさらけ出す(そういえば昔「マーラー辞典」という本でシベリウスとマーラーの接近について書いたものがあった。たしか二人は一瞬くらいしか出会う事はなかったが、マーラーは「悲しきワルツ」を酷評したとか書いてあった覚えがある)。ザンデルリンクの最良の部分の出た素晴らしい演奏。◎。最後までトーンが変わらないのがちょっと不満だが、じつに壮大な造形の中にひびくペットの凱歌はとにかくかっこいい。極めてドイツ的な勝利の音楽だ。文句無しブラヴォーが飛ぶ。,
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☆ブルックナー:交響曲第9番(1891-96)

2016年10月17日 | Weblog

◎クナッパーツブッシュ指揮ベルリン・フィル(SUITE)1950/2/4live・CD

クナの9番記録は知っているだけで3枚、うちベルリン・フィルの1日違いのライヴが2枚手元にありますが、珍奇な響きのMusic&Arts盤よりもここで挙げたsuite盤のほうが安定した演奏です。地に付いた堂々たる仕上がり。(なんていって実は同じ演奏記録だったなんて言われたら大変だけど、その場合は録音技術差とかいうことなのかも・・・きちんと比較してないので自信無いよう・・・)一期一会指揮者ゆえオケが雑然とすることは珍しくありませんが、細部の瑕疵などブルックナーの音楽には毛ほどの傷にもならない。ブルックナーにはヒマな時期そうとうハマりましたが、9番のこの盤をもって遍歴にカタをつけました。つまりこれで満足したということです。“ブルックナー鑑賞道“には版問題というちょっとイヤなハードルがありますが、“普通に”聴くぶんにはそうそう変化がわかるほどのものではないと思います。改訂版しかやらないクナを敬遠される方も、一度無心で聞いてみては。実際どういじたっところで原形の持つ強烈な個性は決して損なわれないもの。ムソルグスキーの曲でもそうですが、他人の手が入ったところで他人の曲になってしまうというなどということは、あったとしても希です。好きな場面をひとつ挙げるとすれば、3楽章冒頭G線の喚きに続き、雄大な盛り上がりの頂点で発せられるペットの咆哮。ここのブラス・セクションにかかるスピットなディミヌエンド、そして強烈なクレッシェンドはクナの独創でしょうが、ほんとうに、素晴らしく感動的なものです。再現部でも聞かれます。
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☆サティ:ソクラート~Ⅲ.ソクラートの死

2016年10月16日 | サティ

◎デレーヌ(T)ソーゲ(P)(ORPHEE)LP

テノールによる珍しい演奏。この曲はやはりストラヴィンスキーの言うとおりピアノ伴奏版にかぎる。しかも女声による不安定さが払拭されなかなかいい感じに沈んで聞こえる。感情が顕わにならない歌い方、演奏はいたって安定しており、どうして難しいこの大曲を飽きも違和感も感じさせずにかなできっている。最後のサティならではの断ち切られかたは成功している例に出会ったことがなくこの演奏もその範疇に漏れないが、それでもそこに至るまでの生臭さのないフランス的としか言いようのない繊細でも面白みのある音楽の流れは十分に魅力的である(この「魅力」は「艶」ではない)。いわゆるアルクイユ派出身の「直系」作曲家ソゲの演奏もいい。プーランク的なスピードというかテンポ感はあるにはあるのだが、プーランクのように恣意的な解釈を入れず注意深く演奏している。これが絶妙である。サティのおそらく最も評価されているこの曲、フランス語の歌詞がわからなくても聴きとおせるというのは相当な演奏レベル。◎にしておきます。
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☆プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番

2016年10月16日 | プロコフィエフ

○D.オイストラフ(Vn)クーベリック指揮プラハ放送管弦楽団(ANDROMEDIA)1947/5/15live・CD

録音が不安定。冒頭より欠損もしくはオケの音が極端に小さくなる場面が多々あり、ソリストとの録音バランスの悪さがきわ立った状態だ。が、個人的にはこれが父ストラフのプロ1のベスト演奏。どこにも隙の無い、隅々まで音の一つ一つまで表現解釈が施され全てが違和感なく融合しきって流れを作る。独壇場とも言っていいだろう。何と言っても流麗なボウイング、豪快なのに繊細なニュアンス、自然に高度な技術を駆使することのできる、この時点での才能はハイフェッツをも凌いでいたと確信する。太く艶のある音色はけして単調にもならず飽きない。貧乏たらしくなく、下卑ず高潔である。テンポが性急で、切羽詰った感じが強すぎると思うかたもいるかもしれないが、クーベリックがバックということもあり、曲がそれを要求している気もするし、そのスタイルに私はプロコの1番はベストマッチだと思う。オイストラフ全盛期のプロコとして記憶に留めたい一枚。録音状態をマイナスして○。オケ聴こえない・・・
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☆サティ:ヴェクサシオン(抜粋)

2016年10月15日 | サティ

◎アラン・マークス(P)(LTM)CD

全曲版なんてありえないわけで、しかしこの悪ふざけを律儀にまるまる一枚のCDに入るだけ繰り返し録音した人というのは何人かいる。ここには意味性を剥奪された無調的な単旋律の問い掛けと不協和音の堆積による宗教祭儀的な不可解な答唱からなるフレーズが40回繰り返されているが、サティの本意ではなかったにせよ計らずも極限までロマンチシズムを削ぎ落とし宗教臭さやアマチュア的な実験性も余りの単純によって際立たず、何にも似ていない、音楽ですらなくなっているこの曲は、ある意味最も先鋭でサティの生涯をかけた理念を最も純粋な形で体言した傑作と言うこともできるわけで、このようにウェットな音でありながらもまったく同じ調子を崩さない演奏家の態度が、ミニマルな側面を印象づけ、ああ、ケージがやりたがったわけだ、これは凄いと感嘆させる。初期の教会のオジーヴから生硬さを抜き去り、永遠の連続性をまるでヤコブの梯子のように続く祭壇への階段、、、これは恐ろしい作品だ。◎。
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ブルックナー:交響曲第9番(原典版)

2016年10月15日 | Weblog

バルビローリ指揮ハレ管弦楽団+BBC北交響楽団(PASC)1961/12/14放送live

バルビローリにはやっぱりブルックナーは合わなかった。pristineが貧弱な音源から何とかレストアして残響付けてここまで持ってきたものの、大元の情報量の少なさ、不安定さ、バランス悪さはいかんともし難かった、という感じで、それを念頭に置いたうえでもブルックナーらしさの希薄さ、上っ面を撫でたような解釈ぶり(?)にはがっかりしてしまった。ブルックナーの交響曲としては特異なほど主情的な作品だからバルビローリ流の情緒的表現と合うかと思いきや、構成感や拍節感の不足、音響バランスへの配慮のなさはそもそもブルックナーの根幹をなす部分を損なうもので、合体オケも分厚いだけでとくに弦楽器の非力さが全体の凝縮力を削いでいる。頭の音の出し方がガーンではなくズヮーンとなるのもどうにもしまらない。妙に音量の強弱が強調されているのはおそらくレストアでの操作だとおもわれるがこれもいらない。バルビローリ中期の覇気に満ちたトスカニーニ的な表現と後期の大波のうねるような「バルビローリ的な表現」がアンバランスに混ざり合いどっちつかずとなった感も。バルビローリはブルックナーをあまりやっておらず、古い時期に一回録音をし、新しい時期にライヴ録音をいくつか残しており、後者はCD復刻されている。どれも正直そそられない。9番はすでに66年のハレ管単独ライヴとベルリン・フィルライヴが出ており以前書いた。3楽章のマーラー9番へのエコーを逆にマーラー風に聴かせているところこそ、この人のブルックナー観を象徴しているな、とも思った。直後にバルビローリのマーラーを聴いてみて、この人はやはり歌謡性を大事にしており、構造的なことにはそれほど配慮していなかったんだな、と思った。しょうじき、マーラーは素晴らしかった。
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☆ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第5番

2016年10月14日 | ヴォーン・ウィリアムズ

◎ロジンスキ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1944/3/12live(11/30?)

生命力。このアンサンブルの緻密さ・・・巧い!録音の悪さなどこのさいどうでもいい。ロジンスキが一流オケを振るとここまでやれるのだ。もっと長生きしたならベイヌムと比肩しうる名指揮者として記憶に残ることができただろうに。この作曲家には似つかわしくないほど厳しく絞られた筋肉質の演奏だが、RVWの美しさをこういう活発な音楽として描くことも可能なのかと思わせる。とにかくリズミカルである。重くて野暮な(「らしい」)シーンも、このスピードで生き生きと活写されたら気にならない。中間楽章の弦楽アンサンブルでは中低音域から繰り広げられる緩やかで哀しい光景、心を直に揺さぶられずにおれない強烈なロマン性が迫ってくる。精緻に揃ったヴィブラートが眩しい。この曲に「独特の解釈を放つ名演」などないと思っていたがここに残されていた。録音状態を割り引いても◎。RVWがよくわからないという人に、こういう意図のはっきりした演奏はいいかもしれない。まさに作曲された第二次大戦中の演奏としても価値がある。記録上は11月30日にロジンスキがアメリカ初演したとなっており、3月はデータ誤りの可能性が高い。(世界初演はプロムスにて作曲家自身による)
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