湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

教会の天井に「録音」された音楽

2007年05月10日 | Weblog
たまにはニュースネタを。ちょっと古いかもしれませんが、元軍事暗号解読技術者と音楽家の親子が「ダ・ヴィンチ・コード」のクライマックスに使われた聖ロスリン教会の天井のに配されている213個の石のキューブから、500年のあいだ眠り続けてきた「音楽」を読み解き、18日に現地で演奏するそうです(既にソールドアウト、6月1日に追加公演予定)。録音もしているとのことです(サイトから試聴可能)。合唱曲です。

語らぬものの暗示を読み取るサンボリズムの研究家たちはしばしばオカルトめいた「こじつけ」を提示するものです。それは学術的研究というよりミステリー趣味に近いものでしょう。かれらを支配しているのは事実ではなく幻想であることが多いのは、ダ・ヴィンチ・コードのどんちゃん騒ぎを見てもわかることです。ちょっと知識があれば崩せるような論を提示する「陰謀論者」の言説もこれに近いものです。中世音楽の専門家は懐疑的な論調で判断を保留していますが、そういうことなのでしょう。

ただ、芸術史において無意味なものから意味を紡ぎ出すという行為は頻繁に行われてきました。赤瀬川氏の「トマソン」などわかりやすい例でしょう。類似した「趣味」はサブカルの分野で散々に取り上げられ巷に溢れています。これはポップアートが非アート的な事物~あの毒々しいキャンベル缶~をアートに換骨奪胎してとらえようとした世界的な動きに沿ったものです。発想の源にはダダイストが掲げたような破壊的意図も含まれていますが、作品を主体的なものから客体的なものに転換させるという「享受側のものの見方こそアート」といった考え方においては、「破壊」のひとことで片付けられないものでもあります。しかしこの意図発想自体「わかってしまえば何でもあり」になりかねない単純なもので、すぐに壁にぶち当たるのも仕方の無いことかもしれません。忘れられ、また発見され、それが繰り返されるという循環が見られます。

誤解を産むような言い方かもしれませんが、自然は意味を持ちません。自然から音を聞き音楽に抽象化するという行為の源は無意味から意味を紡ぎだすことそのものです。その原点に立ち返ったのが戦後の前衛運動であり、わかりやすいところではケージらの「作品」の提示した「風景」でしょう。サンボリズムの研究家たちをアーティストととらえると(ダン・ブラウンは作家というアーティストですが)、一軒の老舗チャペルの天井石の示すものを数学的に処理して五線上に落とすと(この時代に五線はなかったでしょうか)、偶々音楽っぽいものが立ち上ってきた。「音楽っぽい」と感じることこそがアートなのです。そしてその感覚を18日の「再演」時に聴衆が共有することができたら、それはマニアックに穿った前衛的なアート作品ではなく、立派な「音楽」です。「再構築」していたとしても、それはメシアンが鳥の声を音楽に昇華させたことと大して変わりません・・・発想の上では。

面白いことだと思います。
Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ベルリオーズ:幻想交響曲 | TOP | きょうのれんしゅい »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | Weblog