湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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オネゲル:交響曲第3番「典礼風」

2018年10月16日 | Weblog
ミュンシュ指揮ORTF(SLS)1946/11/14シャンゼリゼ劇場live(フランス初演)

「怒りの日」が無茶苦茶怒っている。つんのめるテンポで怒涛の打音を繰り出し、ミュンシュがというよりオケ全体が怒り狂っているような、フランス国立放送管弦楽団の凄みを感じさせる。直前のロパルツも良いが録音から伝わる迫力が全然ちがう。弦楽器が噎せ返るような熱気を放つのに対し、ブラスが音色の爆ぜるのも構わず吠えまくるのが凄まじい。聴いたことのない典礼風で、度肝を抜かれた。アンサンブルじゃない、吠え合いだ。つづく「深き淵より」挽歌ふうの緩徐楽章もどこか乱暴で、かなり録音状態に左右された印象ではあろうが、それでも異様さはあると思う。ソロの音がいちいち強く、頭に余韻がなくいちように太筆描きである。眩いオネゲル牧歌が例えばとうていRVW的ではない、慟哭と希望と黙示録的暗示、何よりリアルをただ耳にぶつけ続けてくる。明滅する甘やかなメロディでも雑味をいとわず音、そのものを強くぶつける。これが胃にもたれるもとい、同時代性という強みなんだろう、今はこんなやり方はできないだろう。映画音楽的な表現なのにちっとも絵が浮かばない。しかし、これがたぶんチューリヒ初演をへてミュンシュの出した作曲家への答なのだろう。ミュンシュは他にも録音があるが、この演奏のリアリティは凄いものがある。答えのない質問に鳥の答えるフレーズより、「ドナ・ノビス・パセム」のシニカルな歩みが始まる。ファシズムの足音と言っても良さそうな骸骨のような、巨人の骸骨のような歩みが、ここではかなり早足で蹂躙を始める。しまいに蒸気を上げて重機関車が通り抜ける。このあたりは極めて描写的で、音の一つ一つに意味があるのだが、ミュンシュはそれを解体してリアルを失うよりも求心的な力強さを重視し、ハーモニーを合わせるよりノイズを固めるような、一見ラヴェル風の理知的な構造物であることより、これはメロディなのだ、という確信がある。メロディが悪しきものから善きものに変貌していく苦悩の一筋。この曲がショスタコにすら聴こえるから不思議である。録音がきびしいが、緩徐主題では不穏なショスタコではなく、あのカッコいいオネゲルになっているのがわかる。厚ぼったい表現はねっとりと人間性を取り戻す、ミュンシュらしさだ。嵐の去ったあとに高らかに舞う鳩ではない。妖しい色彩の降り注ぐ大地に、火の鳥でも舞っているような、何とも言えない、たぶんこの曲は「世界滅亡後の」平和を歌っているのだが、これはまさにそういう奇怪な平和にも聴こえる。拍手カット。
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