社説(2008年6月18日朝刊)
幼女を連続誘拐し殺害した宮崎勤死刑囚に刑が執行された。
宮崎死刑囚は一九八八年から八九年にかけて、埼玉県と東京都内の幼稚園児二人と小学一年の女児、保育園児を相次いで連れ去り、殺害している。
その際、幼稚園児宅に人骨が入った段ボール箱を届けたり、新聞社にも「今田勇子」名の犯行声明を送付し、社会に衝撃を与えた。
鳩山邦夫法相は「慎重に検討した結果、絶対に誤りがないと自信を持って執行できる人を選んだ」とし、「数日前に執行を命令した」と述べている。
刑事訴訟法は「判決は確定から六カ月以内」に法相が刑の執行を命じなければならないと定めている。
死刑制度がある以上、それに従うのはやむを得ないとの声が多くなっているのは確かであろう。
だが、宮崎死刑囚の裁判は刑事責任能力の有無が争われ、判決が確定するまで約十六年もかかっている。
にもかかわらず、心の闇が明らかにされ、「なぜこのような事件を起こしたのか」ということが十分に解明されてこなかった。
精神鑑定では「人格障害はあるが、善悪の判断はできた」とする責任能力を肯定する鑑定が出される一方で、「多重人格が主体の反応性精神障害」や「統合失調症」として責任能力を一部否定する鑑定も出ている。
最高裁が完全責任能力を認めて死刑の判決を言い渡したのは二〇〇六年だ。それだけ難しい裁判だったということである。
宮崎死刑囚は公判で不可解な言動を繰り返した。
一九九〇年三月の初公判では「女の子が泣きだすとネズミ人間が出てきた」と述べ、判決の前には、事件について「無罪です」「良いことができた」との手記を通信社に寄せている。
最高裁の判決についても、刑が確定してから一カ月後に出版した著書で「『あほか』と思います」と批判している。
宮崎死刑囚が、自ら引き起こした連続誘拐事件をどう考えていたのか。幼い命を奪ったことを反省していたのかどうか。
刑の執行によって遺族に対する気持ちも闇に葬られてしまったが、彼自身の心の動きについてもっと光を当てる時間があってもよかったのではないか。
ノンフィクション作家の吉岡忍氏は「彼の中の攻撃性は社会的、文化的な影響を受けていた」と述べている。その点の解明も執行によって断たれてしまった。
宮崎死刑囚のケースは、最近の秋葉原無差別殺傷事件に至る理不尽で、動機が分かりづらい事件につながってくる。
ビデオテープに執着した経緯から「オタク」という言葉が広まる契機にもなったが、最近はインターネットに没頭して現実と仮想の区別がつかなくなったような不可解で不気味な事件が増えてきているのも間違いない。
だからこそ、宮崎死刑囚のケースは本人の言動とともに時間をかけて分析する必要があったのではないか。そう思えてならない。
沖縄タイムス
■宮崎死刑囚の刑執行 心の暗部も未解明で消えた
2008/06/18(水)
幼女連続誘拐殺人事件の宮崎勤死刑囚が刑を執行された。最高裁で判決が確定してから約二年四カ月。裁判で刑事責任能力の有無が激しく争われた事件では、執行は慎重にされており、従来の慣行から見ると、ずいぶん早い印象がある。
鳩山邦夫法相は「正義の実現」「法の支配」を理由に挙げ「粛々と執行した」と言う。これで、宮崎死刑囚から反省、謝罪の言葉が伝えられることもなく、その心の暗部も解明されずに消えた。
確定判決によると、宮崎死刑囚は一九八八年から八九年にかけ幼稚園児二人、小学一年の女児、保育園児の計四人を相次いで連れ去り、殺害した。幼稚園児宅に人骨入りの段ボール箱が届けられ、「今田勇子」名の犯行声明が自宅や新聞社に郵送されるなどし、社会に衝撃を与えた。
公判で弁護側は宮崎被告の刑事責任能力を争った。精神鑑定が行われ、「人格障害はあるが、善悪の判断はできた」と責任能力を肯定する鑑定のほか、「多重人格が主体の反応性精神障害」「統合失調症」と責任能力を一部否定する鑑定がともに法廷に出された。最終的に二〇〇六年、最高裁が完全責任能力を認め、死刑判決を言い渡した。
宮崎死刑囚は判決確定後に出版した著書で最高裁判決を「『あほか』と思います」と批判している。連続事件をどう考えていたのか。自分のしたことを反省していたのか。遺族に謝罪する気持ちが本当になかったのか。その心の動きには分からない部分が多い。
最近、この事件と共通するような犯罪が目立っている。幼児を狙い、性的なものを強く感じさせる事件もある。宮崎被告のケースは、これらの精神的なルーツだったのではないかと思える。
この事件は「オタク」という言葉が広まる契機となった。現在では、インターネットにのめりこみ、仮想と現実との区別がつかなくなったかのような犯行が珍しくない。これらの事件を防ぐのに、宮崎死刑囚のケースの分析が役に立ったのではないか。しかし、執行によって、その道は絶たれた。
法務省によると、最近は死刑確定から執行まで平均約八年の期間がある。確定順が基本方針とされており、これに照らすと今回の執行は異例だ。
死刑については「非人道的で残虐」とする見解がある。犯罪者であっても、国家が人間の命を奪うのは、重大なことであり、日弁連は三月、死刑制度調査会の設置と死刑執行停止を求める法案を公表している。
世の中には、死刑にしても飽き足りない凶悪犯罪が絶えない。それが現実であるにしても、こうした議論が起きているとき、いたずらに執行を急ぐのは、いかがなものだろうか。しばらくは執行を停止し、死刑制度そのものの是非を含めて、じっくりと国民的な議論をしてもよいのではないか。
茨城新聞
幼女を連続誘拐し殺害した宮崎勤死刑囚に刑が執行された。
宮崎死刑囚は一九八八年から八九年にかけて、埼玉県と東京都内の幼稚園児二人と小学一年の女児、保育園児を相次いで連れ去り、殺害している。
その際、幼稚園児宅に人骨が入った段ボール箱を届けたり、新聞社にも「今田勇子」名の犯行声明を送付し、社会に衝撃を与えた。
鳩山邦夫法相は「慎重に検討した結果、絶対に誤りがないと自信を持って執行できる人を選んだ」とし、「数日前に執行を命令した」と述べている。
刑事訴訟法は「判決は確定から六カ月以内」に法相が刑の執行を命じなければならないと定めている。
死刑制度がある以上、それに従うのはやむを得ないとの声が多くなっているのは確かであろう。
だが、宮崎死刑囚の裁判は刑事責任能力の有無が争われ、判決が確定するまで約十六年もかかっている。
にもかかわらず、心の闇が明らかにされ、「なぜこのような事件を起こしたのか」ということが十分に解明されてこなかった。
精神鑑定では「人格障害はあるが、善悪の判断はできた」とする責任能力を肯定する鑑定が出される一方で、「多重人格が主体の反応性精神障害」や「統合失調症」として責任能力を一部否定する鑑定も出ている。
最高裁が完全責任能力を認めて死刑の判決を言い渡したのは二〇〇六年だ。それだけ難しい裁判だったということである。
宮崎死刑囚は公判で不可解な言動を繰り返した。
一九九〇年三月の初公判では「女の子が泣きだすとネズミ人間が出てきた」と述べ、判決の前には、事件について「無罪です」「良いことができた」との手記を通信社に寄せている。
最高裁の判決についても、刑が確定してから一カ月後に出版した著書で「『あほか』と思います」と批判している。
宮崎死刑囚が、自ら引き起こした連続誘拐事件をどう考えていたのか。幼い命を奪ったことを反省していたのかどうか。
刑の執行によって遺族に対する気持ちも闇に葬られてしまったが、彼自身の心の動きについてもっと光を当てる時間があってもよかったのではないか。
ノンフィクション作家の吉岡忍氏は「彼の中の攻撃性は社会的、文化的な影響を受けていた」と述べている。その点の解明も執行によって断たれてしまった。
宮崎死刑囚のケースは、最近の秋葉原無差別殺傷事件に至る理不尽で、動機が分かりづらい事件につながってくる。
ビデオテープに執着した経緯から「オタク」という言葉が広まる契機にもなったが、最近はインターネットに没頭して現実と仮想の区別がつかなくなったような不可解で不気味な事件が増えてきているのも間違いない。
だからこそ、宮崎死刑囚のケースは本人の言動とともに時間をかけて分析する必要があったのではないか。そう思えてならない。
沖縄タイムス
■宮崎死刑囚の刑執行 心の暗部も未解明で消えた
2008/06/18(水)
幼女連続誘拐殺人事件の宮崎勤死刑囚が刑を執行された。最高裁で判決が確定してから約二年四カ月。裁判で刑事責任能力の有無が激しく争われた事件では、執行は慎重にされており、従来の慣行から見ると、ずいぶん早い印象がある。
鳩山邦夫法相は「正義の実現」「法の支配」を理由に挙げ「粛々と執行した」と言う。これで、宮崎死刑囚から反省、謝罪の言葉が伝えられることもなく、その心の暗部も解明されずに消えた。
確定判決によると、宮崎死刑囚は一九八八年から八九年にかけ幼稚園児二人、小学一年の女児、保育園児の計四人を相次いで連れ去り、殺害した。幼稚園児宅に人骨入りの段ボール箱が届けられ、「今田勇子」名の犯行声明が自宅や新聞社に郵送されるなどし、社会に衝撃を与えた。
公判で弁護側は宮崎被告の刑事責任能力を争った。精神鑑定が行われ、「人格障害はあるが、善悪の判断はできた」と責任能力を肯定する鑑定のほか、「多重人格が主体の反応性精神障害」「統合失調症」と責任能力を一部否定する鑑定がともに法廷に出された。最終的に二〇〇六年、最高裁が完全責任能力を認め、死刑判決を言い渡した。
宮崎死刑囚は判決確定後に出版した著書で最高裁判決を「『あほか』と思います」と批判している。連続事件をどう考えていたのか。自分のしたことを反省していたのか。遺族に謝罪する気持ちが本当になかったのか。その心の動きには分からない部分が多い。
最近、この事件と共通するような犯罪が目立っている。幼児を狙い、性的なものを強く感じさせる事件もある。宮崎被告のケースは、これらの精神的なルーツだったのではないかと思える。
この事件は「オタク」という言葉が広まる契機となった。現在では、インターネットにのめりこみ、仮想と現実との区別がつかなくなったかのような犯行が珍しくない。これらの事件を防ぐのに、宮崎死刑囚のケースの分析が役に立ったのではないか。しかし、執行によって、その道は絶たれた。
法務省によると、最近は死刑確定から執行まで平均約八年の期間がある。確定順が基本方針とされており、これに照らすと今回の執行は異例だ。
死刑については「非人道的で残虐」とする見解がある。犯罪者であっても、国家が人間の命を奪うのは、重大なことであり、日弁連は三月、死刑制度調査会の設置と死刑執行停止を求める法案を公表している。
世の中には、死刑にしても飽き足りない凶悪犯罪が絶えない。それが現実であるにしても、こうした議論が起きているとき、いたずらに執行を急ぐのは、いかがなものだろうか。しばらくは執行を停止し、死刑制度そのものの是非を含めて、じっくりと国民的な議論をしてもよいのではないか。
茨城新聞
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