脱「医療費亡国論」/1 かさむ費用
◇「高齢化」に根拠なし
医療経済学の専門家らが参加し、06~07年に開かれた厚生労働省の「医療費の将来見通しに関する検討会」。委員は口々に、世間が国から聞かされてきた「高齢化で医療費はどんどん膨張する」という“常識”とは正反対の内容を語った。
「(医療費増に)高齢化の影響はほとんどない」「医療費は野放図には伸びない」
厚労省の担当課長すら「医療費の自然増の最大の要因は、(高価な薬や機器、治療手段が開発される)医療の進歩であることは明白だ」と明言した。
委員の権丈善一(けんじょうよしかず)・慶応大教授は「医療経済の世界では当たり前の話」として、米国の医療経済学者、ゲッツェンが医療費と経済成長率の関係を分析した研究を紹介した。高齢化が医療費を増やすように見えるのは見かけの関係で、医療費の増加率は国民所得の増加率で決まるとの内容だ。
権丈教授は「ゲッツェンが指摘した関係はどの国でも成立する。医療費の額は結局、社会のパイの中からどれだけ使うかという政治的な判断、つまり医療への政策スタンスで決まっている」と解説する。実際、日本は先進7カ国で最も高齢化率が高いが、国内総生産(GDP)比でみた医療費は最も少ない。
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高齢化と並び、終末期医療もよく医療費増の一因に挙げられる。
だが、日本福祉大の二木立(にきりゅう)教授は「根拠はない」と話す。厚労省が02年に死亡した人を対象に、死亡前1カ月間の医療費を計算すると、約9000億円との結果で、国民医療費の約3%にすぎなかった。二木教授は「そもそも日本の医療費がアメリカに比べて少ない理由の一つに、終末期医療の医療費の少なさがある」と指摘する。
風邪など軽い病気は保険の対象から外し、重い病気に財源を回すべきだとの意見もある。二木教授は「患者の8割は軽い病気だが、使っている医療費は全体の2割にすぎず、医療費削減効果は小さい。何より8割の患者が使えない保険では意味がない」と語る。
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政府は、このままでは25年度の国民医療費が現在の倍の65兆円になるとして、抑制を訴えてきた。この数字にも落とし穴がある。
権丈教授は「来年の100円なら何が買えるか想像できるが、20年後の100円で買える物は想像できない。単位が兆になると、みんなそんな単純なことを忘れてしまう」と話す。25年度の65兆円は国民所得の12~13・2%と推計されるが、04年度でも医療費は国民所得の8・9%。経済成長で国の「財布」の大きさも変わるため、名目額は倍増でも実質額はそれほど増えない。
権丈教授は「推計名目額の大きさを基に議論しても意味がない。国民所得の中のどれぐらいを医療に充てるのかを議論すべきだ」と指摘する。
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「このまま医療費が増えつづければ国家がつぶれるという発想さえ出ている。これは仮に『医療費亡国論』と称しておこう」。83年、当時の厚生省保険局長がとなえた「医療費亡国論」は長く、日本を低医療費政策に導いてきた。社会保障財源を巡る議論が進む今、本当に医療費が国を滅ぼすのかを追う。=つづく
毎日新聞 2008年6月17日 東京朝刊
脱「医療費亡国論」/2 公的保険、限定論
◇低所得者、置き去り
「国民健康保険に入れていれば、医療費を心配せずに、もっと早く病院に行くことができた。ひどくならずに済んだのに……」
東京都内の病院に入院中の60代男性患者は、おなかのストマ(人工肛門(こうもん))に取り付けられた排せつ物用の小袋を見せながら悔しそうに語った。男性は都内で1人暮らし。約25年前に経営していた会社が倒産してからは、とび職などをしながら生計を立てていた。しかし、国民健康保険に入れず、無保険の状態が続いていた。
約5年前、突然下痢が続くようになった。症状は次第に悪化し、1時間おきにトイレに行くまでになった。約3年前からは頻尿になり、夜も落ち着いて眠れない。両足もパンパンに腫れだし、歩くのも困難な状態に陥った。男性は「保険がないので病院に行くのを我慢し、市販の薬でごまかしていた」と振り返る。
今年3月、ついに我慢できなくなり、給料から10万円ほどためて近くの診療所を受診した。検査の結果、転移性の肝臓がんと判明し、直腸にもがんが見つかった。他にも前立腺肥大などの病気を患っていたため、4月に紹介先の病院に入院し、現在も抗がん剤治療を続けている。
男性の相談に乗った診療所の医療事務員は「無保険のため病院に来るのが遅れるケースは最近多い」と指摘する。昨秋、そうめんくらいしかのみ込めないほどひどい腫瘍(しゅよう)が食道にできているにもかかわらず、無保険のため病院にかかれずに、年金が支給されるのを待ってようやく病院に来ることができた患者もいたという。
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今年2月に開かれた政府の社会保障国民会議の分科会。同会議の吉川洋座長は「医療費を無理やり抑えるのではなく、進歩した医療技術によって健康や長寿を享受したいというニーズがあれば、医療費を伸ばせば良い。しかし、どういう形で誰が負担するのか、公的な保険でカバーする範囲を議論する必要がある」と発言した。
医療費の増加に対応するため、公的保険でカバーする範囲を制限し、個人が加入する民間保険で補うことも検討すべきだとの考え方だ。実際、現状でも民間保険に加入する人は増えている。生命保険協会によると、07年度の医療保険やがん保険、傷害保険の個人契約件数は約3704万件で、5年前に比べて約3割増加。これらの民間保険の07年度の契約金額は計約8兆2325億円に達する。
これに対し、社会保障政策に詳しい松山幸弘・千葉商科大大学院客員教授は「民間保険の役割拡大というのは間違いだ」と真っ向から反論する。民間保険は誰もが入れるわけではないからだ。
松山教授は「病気を持っている人は一番の弱者だが、こうした人たちは民間保険に入れない。低所得の人も同様だ。たとえ入れても、完治するまで給付してくれるとは限らない。医療は生命にかかわる最も重要なセーフティーネット。困った弱者が救済されるような公的保険の仕組みこそ作るべきだ」と訴える。=つづく
毎日新聞 2008年6月18日 東京朝刊
医療クライシス:脱「医療費亡国論」/3 効率追求なし
◇検査重複、薬は過剰
大阪市で診療所を営む男性医師は、70代の女性患者に聞かれた。
「薬、捨てていいですよね」
高血圧や腰痛などの持病があり、病院で各診療科を回って大量の薬をもらってきたという。既に診療所で処方した薬ばかり。男性医師は「日ごろは近くの診療所を利用するが、いざという時に大病院へ入院できるようにと、診察券をもらうために大病院も受診するというお年寄りは結構いる」と説明する。
同市内のクリニック院長は最近、疑問に思うことがある。検査のため別の診療所に患者を紹介すると、不要な検査をされることが増えたのだ。血液検査の結果を添えて胃カメラを依頼したのに、血液検査もされる。内視鏡検査が上手な開業医に患者を紹介したところ、血液検査や超音波検査などで約1万円もかかったと苦情を言われたこともある。
開業医が専門を生かして連携すれば、患者の利益になると思っていたが、検査過剰にもつながった。「診療所も収益を上げないといけないのだろうが……」。納得がいかない。
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日本と同様の低医療費政策を続けた結果、医療が崩壊した英国では00年、ブレア政権が医療費の1・5倍増を打ち出した。しかも、単に増やすだけではなく、国立最適医療研究所(NICE)などを設置し、効率性も追求する仕組みにした。
大手製薬会社エーザイ(東京都文京区)に05年3月、その英国から想定もしていなかった知らせが届いた。同社のアルツハイマー型認知症治療薬「アリセプト」について、NICEが軽度の患者への使用制限を打診してきたのだった。
アリセプトは97年に発売。アルツハイマー型認知症の進行を遅らせる効果があり、この分野では世界トップシェアを誇る。07年には世界で2910億円を売り上げ、同社の主力商品の一つだ。
同社側は効果のデータを出したが、NICEは06年に発行した治療指針で「軽度の患者に対しては費用対効果が十分ではない」と、新規の軽度の患者には英国の公的医療制度であるNHSでの使用を認めないことにした。同社側は英国の裁判所に指針作成プロセスの開示を求め、主張が認められたが、現在は開示待ちの段階で、使用制限は継続している。
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日本には、英国ほど厳しく費用対効果を追求する仕組みはない。
インフルエンザ治療薬「タミフル」。症状発現から2日以内に使えば1日程度早く回復させる効果があるが、インフルエンザの多くは自然治癒する。医師向けの文書には「すべての患者に必須ではないことを踏まえ、患者の状態を観察し、使用の必要性を慎重に検討すること」とある。
だが、大阪市の内科クリニック院長は「医師も患者も保険が利くからどんどん使う。どれだけの効果があるのかなと思いながら出している」と漏らす。福岡県の勤務医も「タミフルを多くの人が知る現状では、処方しないわけにはいかない」と明かす。
01~05年に日本で処方されたタミフルは、全世界の使用量の7~8割を占めた。=つづく
毎日新聞 2008年6月19日 東京朝刊
医療クライシス:脱「医療費亡国論」/4 経済波及効果
◇公共事業を上回る
入れ替えたベッドを運ぶ人や、掃除用具を持った人々が忙しそうに行き交う。横浜労災病院(横浜市港北区)の地下は、患者の見えないところで人々が活発に働いている場所だった。
薬剤部、資材室、中央監視室。同病院の地下には、病院の裏方とも言える機能が集約されている。医療機器を管理する部署では、数人が機器の点検や補修をしている。事務用品や使い捨て医療用具を扱う資材室では、職員が各診療科で必要な備品を仕分けし、院内に配送する作業に追われていた。
ベッド数650床の同病院では日々、約1000人もの人々が働いている。医師、看護師、薬剤師、放射線技師、事務職員……。清掃や給食調理、警備、医療機器の補修などには、業務委託先から大勢の人が派遣されてきている。下小川豊・事務局長(59)は、理学療法士や栄養士などの職種も挙げ、「病院の中では約30種類の専門職が働いている」と説明する。
病院は当然ながら、患者に治療を提供する場だ。同病院は地域がん診療連携拠点病院や災害医療拠点病院に指定されるなど、県内の医療の中核を担っている。一方、地域にとっては、雇用を提供し、さまざまな物資も購入する「事業所」という側面も見逃せない。
07年度、同病院の支出総額は164億8000万円。人件費が61億円で最も多く、薬剤費21億1000万円、カテーテルなどの診療材料費約17億円などが続く。外部の業者への業務委託費も18億2400万円に達する。
「医療立国論」などの著書がある大村昭人・帝京大医療技術学部教授は「医療機関の存在による経済波及効果は非常に大きい。医療に関連する研究機関や産業が広がり、雇用も生み出す。そもそも、医療機関自体が、治療により労働力を再生産する場所でもある」と話す。
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医療にはどの程度の経済波及効果があるのか。国の10府省庁は5年ごとに、産業各部門間の経済取引の関係をまとめた「産業連関表」を作成している。宮澤健一・一橋大名誉教授(経済学)らは、00年の産業連関表の基礎データを基に、全産業を医療や介護をはじめ、農林水産業、公共事業、運輸など56分野に再編成した連関表を独自に作成し、ある分野に投入した費用が他分野の生産や雇用にどれだけ波及するのかなどを分析した。
生産増は所得増を呼び、消費につながって生産を増やすという形で経済波及効果は拡大していく。連鎖的な波及効果まで含めた「生産誘発係数」を求めたところ、医療は約4・3で、公共事業の約4・1を上回った。「4・3」とは医療に1兆円を投入すると、他分野で3・3兆円の生産を誘発することを示す数字だ。
景気対策としての公共事業に賛成する意見がある一方で、医療費については「社会の重荷」なので少ない方がいいという考え方が一般的だが、宮澤名誉教授は指摘する。
「医療は財政にマイナスのように言われるが、決してそうではない。公共事業を上回る経済波及効果がある」=つづく
毎日新聞 2008年6月20日 東京朝刊
医療クライシス:脱「医療費亡国論」/5止 社会ビジョン
◇日本は「無責任国家」
「国民健康保険料が高すぎて生活が本当に苦しい」。福岡市早良(さわら)区の女性(58)は訴えた。夫(64)と印刷業を営むが経営は苦しい。年間所得約270万円に対し、長女(30)を含めた3人分の国保料は約51万円に上る。
「国保をよくする福岡市の会」の有馬精一事務局長(57)は「同じ所得条件で政令市の千葉、川崎市と比較しても、福岡市は年間で20万円も高い」と話す。同会は昨年9月から国保料引き下げを求めて運動し、約15万人の署名を集めた。市は今年6月、保険料率をわずかに引き下げたが、「生活が改善するとは言えない」との声が上がる。
背景には国が84年、国保への国庫補助率を引き下げた(45%から38・5%)ことがある。自治体の国保料は上昇し、国保料の滞納は06年6月現在で480万世帯と全体の2割近くになった。未収分は税金で補てんするため、自治体の財政を圧迫するという悪循環に陥っている。
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社会保障財源をどう賄うのか。神野直彦・東京大教授(財政学)は、先進各国の状況を三つに分類する。
まず、米国に代表される「最低限保障責任国家」。神野教授は「最低限の生活は保障しようという政府。そのためには所得再分配が必要なので、豊かな人にかける税金のウエートが高くなる。つまり、累進的な所得税のウエートが大きい」と話す。ただし、中間層を中心に無保険者が約4700万人もいるという問題を生んでいる。
次に、ドイツやフランスのような「相互扶助的な国家」。お互いに負担しあい、病気になったときは助け合おうという考え方で、社会保険料などの社会保障負担率が大きいという特徴がある。
最後に、スウェーデンにみられる「標準を保障する国家」。貧しい人も含め、所得税も消費税も社会保障負担率も大きいが、「税を払っていれば生きていける社会」(神野教授)だという。
日本はどうか。神野教授は「無責任国家」と話す。「所得税がほとんど累進課税になっていないうえ、企業の負担も少ない。どういう社会を作ろうとしているのかがない。スウェーデン政府は『強い福祉を打ち出すために財政再建する』という。日本は福祉を切り捨て財政再建しようとするが、財政は人々の生活を守るためにあるのではないか」と批判する。
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「医療費亡国論」は「このままいけば、租税・社会保障負担が増大し、日本社会の活力が失われるのではないか」と指摘した。
日本は05年、租税負担率と社会保障負担率を合わせた国民負担率が38・3%で、経済成長率は2・6%だった。スウェーデンは同年、国民負担率が70・7%で、経済成長率は2・9%。国民負担率と経済成長率に明確な関係はみられない。
社会保障財源を巡る議論が本格化しているが、医療費亡国論に縛られる根拠は見当たらない。=おわり
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この連載は、鯨岡秀紀、根本毅、河内敏康、樋岡徹也、五味香織、田村彰子が担当しました。
毎日新聞 2008年6月21日 東京朝刊
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