ジャーナリストの山口敬之氏から性的暴行に遭ったとして、伊藤詩織さんが民事裁判で勝訴した判決について、「論座」では、「伊藤詩織さんの美貌はなにを意味するのか」という杉浦由美子氏の記事を掲載し、かなりのアクセスがあるようです。一方で、コメント欄には批判的な意見が多く付いているようにも感じました。
氏の記事には、「誰しもが性暴力の被害にあう可能性がある。(しかし)仮に普通の容姿の女性や、中年女性が性暴力の被害にあって、それを実名顔出しで訴えても、伊藤さんほど支持されたのだろうか」と書かれています。
ですが、性暴力の被害者がどれだけ容姿に絡んだセカンドレイプや自己否定で今も苦しんでいるかという現実を鑑みると、性暴力の問題で安易に容姿に言及することは非常に問題です。これはいわゆる「統計的差別」の一種ではないでしょうか?
■統計的差別は、差別を再生産・強化する仕組み
統計的差別とは、過去の統計データに基づいた合理的判断をしようとして、属性で個人を評価した結果、生じる差別のことです。たとえば、「女性は男性よりも離職率が高い」という過去の統計データをもとに、採用の際に女性よりも男性を重視することは、典型例な統計的差別だと言えます。
また、そもそも、その統計自体が差別による結果という場合も少なくありません。前述の「女性は男性よりも離職率が高い」という現象は、女性が働きやすい環境や正当な人事評価システムを企業経営者や管理職が整えていないこと、「女性は家を守るのがよい」というジェンダーバイアスが社会に根強く残っていること等、様々な女性差別の結果、生まれた傾向です。
このようにして、差別の存在する環境から抽出されたデータが、さらなる差別に利用される。つまり、統計的差別とは、差別を再生産・強化する仕組みとも言えるでしょう。

東京医科大の「性差別入試」は典型的な「統計的差別」だった
■東京医科大学は統計的差別の典型例
近年で最も注目を浴びた統計的差別の例といえば、東京医科大学の点数改ざん問題ではないでしょうか。改ざんそのものに加え、医師たちの認識もかなり深刻で、「女性は結婚・出産があるから」という理由で属性を一括りにし、女子一律減点は「理解できる」「ある程度は理解できる」と統計的差別を肯定した医師はかなり多く、65.0%にものぼるという調査(株式会社エムステージ、2018年8月)もあります。
患者の診断であれば、その個人の特性を調べずに、「この人は女性だから統計的に女性に多い○○の病気だろうと予想して薬を処方する」という属性によるジャッジは、医師ならば絶対にやってはいけないことのはずです。
ところが、「診断」から「人物評価」に変わると、かつて偏差値の高い優秀な学生であったろう医師ですら、分別がつかなくなってしまうのは、いかにこの社会の“人権偏差値”が低いかを如実に表していると思います。
■性暴力問題を理解していない一部の“にわかアライ”
話を戻します。「被害者が社会的に美しいとされている女性であるほうが、訴えた時に多くの人々から注目を浴びる」というのは、確かに今の社会に存在する傾向かもしれません。
(※容姿に絶対的な良し悪しの基準は存在せず、それぞれの国・地域・時代等の価値観によって変動する相対的なものであるため、「美しい女性」という断定的な言い回しは適切ではないと考え、ここでは「社会的に美しいとされている女性」と表現しています)
ですが、それは社会的に美しいとされている女性が被害者の場合にのみ注目する人たち(主に男性)が、社会やメディアに多く存在するという、人々のルッキズム(差別的な外見重視主義)の結果、生じている現象に過ぎません。明言している人を確認したわけではありませんが、「若くて可愛い子にあんな酷い仕打ちをするなんて許せない!」という“女性蔑視的な義憤”を覚えた人も少なくなかったのではないでしょうか。
実際、ふだんは性暴力の問題に全く関心を示さないのに、伊藤詩織さんのケースにだけ「山口敬之氏は男としてあり得ない!」「詩織さんを応援する!」と声をあげる一部の“にわかアライ”(※「アライ(Ally)」=当事者ではないが、その活動に賛同して支援をする人々のこと)の噴出には私も強い違和感を覚えていました。
もちろんしっかりと性暴力問題を理解した上で“にわかアライ”になるのであればとても素晴らしいのですが、彼らの中には「男は女に紳士的に振る舞うべき!」「妻子持ちが娘のような年齢の女子と2人きりで飲みに行くのはおかしい!」等、性暴力問題の根幹となる「性的同意」とはズレた論点の話をしたり、伊藤詩織さんの容姿に触れることが散見されたのです。
おそらく過労死問題で大きく報道された元電通の高橋まつりさんのケースも、似たような側面があるのかもしれません。もちろん、死の直前の心境がTwitterにはっきりと残っていたというインパクトもありましたが、伊藤さんのケースと同様に、「若くて可愛い子を死に追いやるなんて許せない!」という“女性蔑視的な義憤”を覚えた人も少なからず混ざっていたように感じます。

伊藤詩織さん(中央)に対する性暴力事件は国会議員も動かした=2017年12月、東京・永田町の参院議員会館
■論じるべきは注目される客体ではなく注目する主体
このように、「社会的に美しいとされている女性」が注目を浴びる現象を分析する際に、目を向けるべきは、「注目される客体」についてではなく、「注目する主体」である世間やメディアです。
ところが、杉浦由美子氏の記事は、「セクハラや性暴力と、被害者の容姿は相対関係はあまりない」「性暴力の被害にあうのは若い女性という先入観があるのではないか」等、世間に広がるルッキズムの一端を指摘しつつも、被害者女性の容姿に「注目する主体」である世間やメディアに対しては否定的視点から強く論ずることなく、「伊藤さんの美貌が説得力を強めている」という表面上の現象の指摘にとどまっており、その点が問題だったと思います。
また、それは、裏を返せば「伊藤さんのような美貌がない者は説得力が弱い」という意味にもなり、ルッキズムの再生産をしていることにもなります。性暴力の被害者が杉浦氏の記事に辿り着き、「確かにその通りだよね。自分には伊藤さんのような美貌がない。説得力が弱いから告発はやめておこう」と思う人がいないとは言い切れません。ですから、これは統計的差別の一種だと思うのです。
(※今回の杉浦由美子氏のように、伊藤詩織さんを「美しい」と表現する人々が実際に一定数いることから、伊藤さんが「社会的に美しいとされている女性」に含まれるという前提で話を進めていますが、当然それは私個人の価値判断を表明するものではなく、彼らの評価を正当化するものでもありません)。

■性暴力とルッキズムは地下茎で繋がっている
なお、一部の“にわかアライ”も問題だと指摘しましたが、このように性暴力の加害者に対して批判の声をあげた一部を批判すると、「本当の敵は加害者のほうなのに!」「仲間割れは加害者を利する行為だ!」と感じる人もいるかもしれません。
ですが、“にわかアライ”たちのルッキズムやエイジズム(差別的な若さ重視主義)によって被害者を選別する行為は、性差別による社会的不利益を受けにくいという恵まれた立場を悪用して女性を分断し、支配・抑圧する姿勢にほかなりません。性暴力は女性を支配・抑圧する手段として加害者によって用いられますが、ルッキズムやエイジズムも、女性を支配・抑圧する手段の一つです。
つまり、両者は同じ地下茎で繋がっているのです。ゆえに、性暴力を根本からなくそうと思うのであれば、「性暴力をする人/しない人」という表面上のカテゴライズで判断するのではなく、「女性を支配・抑圧する行為/しない行為」というカテゴライズで判断し、それらの行為をしっかりと批判しなければなりません。
でも、私たちはこれまで女性差別社会の上で生きてきた以上、誰もがその構成員として、無意識のうちに何かしらの形で「女性を支配・抑圧する行為」をしてしまっていると思います。
ですから、山口氏のような加害者や支持層とそれ以外を二項対立の図式に当てはめることはせず、自分自身が女性を支配・抑圧する社会の構成員として加担してしまった部分を一人ひとりが修正していくことや、周りの人々が加担しているのをやめるよう諫言することも大事ではないでしょうか。
RONZA 2020年01月24日
勝部元気 コラムニスト・社会起業家


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