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長崎原爆の日:犠牲者悼み、反核訴え ここを最後の被爆地に(その1) /長崎

2009年08月14日 | スクラップ

 

 64回目の原爆の日を迎えた9日、長崎は鎮魂の祈りに包まれた。長崎市松山町の平和公園で営まれた長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典では、被爆者や遺族、市民、観光客らが平和への誓いを新たにした。市内各所では、早朝から夜遅くまで、さまざまな追悼や反核の行事も行われた。オバマ米大統領の登場で、核兵器廃絶の機運が盛り上がる中、「ナガサキを最後の被爆地に」の声は一段と高まった。




■後世に伝える被爆体験 奥村さん「平和への誓い」

 「1945年8月9日11時2分、原爆が投下され、一瞬の出来事に逃げることもできず、炭のように体を焼かれ、一口の水も飲むこともできずに亡くなった多くの人々よ、どんなにか無念だったでしょうね」--。

 9日、被爆者代表として式典に臨んだ奥村アヤ子さん(72)=長崎市城栄町=は、つらい気持ちを押し殺すように、静かに「平和への誓い」を読み始めた。

 当時8歳だった奥村さんは爆心地から500メートルの城山にあった自宅近くの柿の木の下で遊んでいた。突然のまばゆい、せん光。奇跡的に右腕のやけどだけで済んだが、自宅があった辺りに戻ると、自宅はおろか、12~13戸あった集落は跡形もなくなっていた。

 家族9人は、全身やけどの4歳の弟と奥村さんを残して全員死亡。2人は面識のない遠縁に引き取られた。その弟も2カ月半後に亡くなり、奥村さんは1人ぼっちになった。

 全身に放射能を浴びたせいで、髪の毛は抜け、歯茎からも出血。病院には連れていってもらえなかった。両親も兄弟もいない生活。原爆の記憶から逃げたい一心で、原爆を「自分の中に閉じこめていた」という。

 しかし、約半世紀がたち、孫が生まれたことや被爆死した姉の同級生と再会したことなどが重なり、20年ほど前に被爆体験を書いた。そして「城山で家族が生きていたことを伝えないと、生きている意味がない」と思い直し、修学旅行生らに被爆体験を語り始めた。

 肝機能障害などを患い、今も体調は優れない。「明日、生きているだろうか」と不安の日々を過ごしてきた。そうした中でのオバマ米大統領の登場。「やっと被爆者の声が届いた」と喜んだ。

 式典を終えた奥村さんは「原爆で一人ぼっちになった子はつらくて、悲しくて、体験を話せない。だから私はみんなを代表するつもりで話しました。短い時間でしたが、言いたいことは全部言えました」と安堵(あんど)の表情を見せた。【阿部弘賢、門田陽介】





■慰霊の「万灯流し」--浦上川

 爆心地近くの浦上川に手作りの灯ろうを流し、原爆犠牲者の霊を慰める「万灯(まんとう)流し」が9日夜あった。万灯は木枠で組まれ、「平和之灯」「世界中の国が仲良くなれる!」「生きてるって幸せなこと」などと書いた和紙の中にろうそくが灯(とも)った。地元自治会などが開催し、今年で11回目。

 原爆投下直後、熱線や爆風などで全身にやけどをした多くの被爆者が、のどの渇きを潤そうとするなどして浦上川に集まり、そのまま亡くなったとされる。約700個の灯ろうがゆっくりと川面を流れていく様子を、訪れた人たちは手を合わせながら見送った。【野呂賢治】





■折り紙「千羽ペンギン」5万羽を寄贈--平和公園に

 「長崎ペンギン水族館」(長崎市)や、ペンギン愛好家でアート展などを手掛ける大田美智子さん(55)=兵庫県芦屋市=らが9日、折り紙のペンギンを集めた「千羽ペンギン」5万4830羽を平和公園に贈った。

 平和への願いを込めたもので、同水族館は来館者に4900羽を折ってもらった。大田さんは知人から送ってもらうなどして、約4万羽を集めた。贈ったのは今年で8回目だが、今回、初めて5万羽を突破した。

 大田さんは「ペンギンは環境保護のバロメーター。平和を考えるのにぴったり」。水族館の飼育員、松村朱加(あやか)さん(23)は「多くの人に送っていただき、ありがたい」と話していた。【錦織祐一】

〔長崎版〕

 

毎日新聞 2009年8月10日 地方版






◇平和市長会議、米アクロン市長ら献花
◇被爆者体験談に揺れた「オバマ大統領も参加すべき」


 式典では、平和市長会議を代表して、米アクロン市のドナルド・プラスカリック市長らが献花。プラスカリック市長は式典終了後の取材に対して「被爆者代表が話した体験談に揺さぶられた。オバマ大統領もいつか式典に参加するべきだ」と語った。

 また、長崎大に留学しているアフガニスタン人のマスード・アクバリさん(30)は「平和を願うすべての人はここに来るべきだ。私の国では30年も戦争が続いているが、式典に参加できたことは一生忘れない」と話していた。

 また、会場にはマラソン仲間と広島から「平和のリレー」をして9日朝、長崎入りした東京都北区の落語家、三遊亭楽松さん(45)が姿を見せた。楽松さんは「人類最後の被爆地(長崎)から最初の被爆地(広島)に戻って核兵器を封印」するため、式典終了後に休む間もなく広島に向けて出発した。【門田陽介】





■「人間の鎖」平和願う--1万人署名、早朝若者集会

 核兵器廃絶を求める「高校生1万人署名活動」による早朝若者集会が9日午前6時半から、長崎市の爆心地公園であった。

 長崎をはじめ、鹿児島、神奈川、福岡、熊本県や韓国の高校生ら約60人が参加した。筑紫女学園高(福岡市)2年、大神櫻子さん(16)が「64年前のことを忘れず、心を一つにして平和を発信したい」と決意表明。メンバーは原爆落下中心碑を「人間の鎖」で囲んで平和を願う歌を歌った。

 今年の「高校生平和大使」で、佐世保高専3年の中島彩希さん(18)は「原爆の日を長崎で迎えるのは初めてで、市民の皆さんの強い思いが伝わる。やる気がわいてきた」と語った。メンバーはこの後、県内各地で署名集めをした。【錦織祐一】





■「国際活動の医師育成を」 長崎大学で慰霊祭

 長崎大医学部(長崎市坂本)と教育学部(同市文教町)の原爆犠牲者慰霊祭が9日、それぞれ現地であった。

 医学部の慰霊祭には松山俊文・学部長ら約400人が参列。長崎医専2年生の時に被爆した井手一郎さん(85)=佐世保市相浦町=が当時を回想し、「(被爆死した)友人の弟をまきを積んでだびに付し、いつまでも焼けなかったことを覚えている」などと話した。

 参列者献花のあと、山下俊一・大学院医歯薬学総合研究科長が講話。チェルノブイリ原発事故など在外被爆者治療や研究を続けている山下科長は「旧ソ連では、500回近い地上・地下核実験の放射能被爆で親子3代が後遺症に苦しんでいる。私たちは地道な国際医療活動に挑戦する医師たちを育成しなければならない」と呼び掛けた。【古賀亮至】





■千葉の中学生、式典で黙とう

 千葉県我孫子市の中学生6人が9日、式典に初めて出席。午前11時2分の原爆投下時刻に黙とうし、平和への思いを新たにしていた。

 我孫子市が平和学習の一環として派遣。市内6中学から2年生の男子生徒3人、女子生徒3人が出席した。

 式典終了後、久寺家中の小川叡(あきら)さん(14)は「首相や外国の方など、多くの人が参加していたので驚いた。世界の平和を願う人が注目していることがわかった」と感想を話した。

 また、市から広島に派遣されたことがある成蹊大1年、今井瑞萌(みずほ)さん(19)は今回、引率で参加。「このような式典を通して、私たちが原爆の恐ろしさを伝えていかなくてはいけない」と語った。





■城山小の5・6年生「子らのみ魂よ」合唱

 9日の式典では、長崎市立城山小の5、6年生児童計50人が、犠牲になった子どもたちを慰霊する歌「子らのみ魂よ」を合唱した。

 同小は爆心地から約500メートルの丘にあり、1400人余りの児童が原爆で亡くなった。歌は1951年から同校で歌い継がれており、会場では平和を願う児童の清らかな声が青空に響き渡った。

 

毎日新聞 2009年8月10日 地方版






長崎原爆の日:長崎平和宣言(全文)


 今、私たち人間の前にはふたつの道があります。

 ひとつは、「核兵器のない世界」への道であり、もうひとつは、64年前の広島と長崎の破壊をくりかえす滅亡の道です。

 今年4月、チェコのプラハで、アメリカのバラク・オバマ大統領が「核兵器のない世界」を目指すと明言しました。ロシアと戦略兵器削減条約(START)の交渉を再開し、空も、海も、地下も、宇宙空間でも、核実験をすべて禁止する「包括的核実験禁止条約」(CTBT)の批准を進め、核兵器に必要な高濃縮ウランやプルトニウムの生産を禁止する条約の締結に努めるなど、具体的な道筋を示したのです。「核兵器を使用した唯一の核保有国として行動する道義的な責任がある」という強い決意に、被爆地でも感動がひろがりました。

 核超大国アメリカが、核兵器廃絶に向けてようやく一歩踏み出した歴史的な瞬間でした。

 しかし、翌5月には、国連安全保障理事会の決議に違反して、北朝鮮が2回目の核実験を強行しました。世界が核抑止力に頼り、核兵器が存在するかぎり、こうした危険な国家やテロリストが現れる可能性はなくなりません。北朝鮮の核兵器を国際社会は断固として廃棄させるとともに、核保有5カ国は、自らの核兵器の削減も進めるべきです。アメリカとロシアはもちろん、イギリス、フランス、中国も、核不拡散条約(NPT)の核軍縮の責務を誠実に果たすべきです。

 さらに徹底して廃絶を進めるために、昨年、潘基文(バン・ギムン)国連事務総長が積極的な協議を訴えた「核兵器禁止条約」(NWC)への取り組みを求めます。インドやパキスタン、北朝鮮はもちろん、核兵器を保有するといわれるイスラエルや、核開発疑惑のイランにも参加を求め、核兵器を完全に廃棄させるのです。

 日本政府はプラハ演説を支持し、被爆国として、国際社会を導く役割を果たさなければなりません。また、憲法の不戦と平和の理念を国際社会に広げ、非核三原則をゆるぎない立場とするための法制化と、北朝鮮を組み込んだ「北東アジア非核兵器地帯」の実現の方策に着手すべきです。

 オバマ大統領、メドベージェフ・ロシア大統領、ブラウン・イギリス首相、サルコジ・フランス大統領、胡錦濤・中国国家主席、さらに、シン・インド首相、ザルダリ・パキスタン大統領、金正日(キム・ジョンイル)・北朝鮮総書記、ネタニヤフ・イスラエル首相、アフマディネジャド・イラン大統領、そしてすべての世界の指導者に呼びかけます。

 被爆地・長崎へ来てください。

 原爆資料館を訪れ、今も多くの遺骨が埋もれている被爆の跡地に立ってみてください。1945年8月9日11時2分の長崎。強力な放射線と、数千度もの熱線と、猛烈な爆風で破壊され、凄(すさ)まじい炎に焼き尽くされた廃墟(はいきょ)の静寂。7万4000人の死者の沈黙の叫び。7万5000人もの負傷者の呻(うめ)き。犠牲者の無念の思いに、だれもが心ふるえるでしょう。

 かろうじて生き残った被爆者にも、みなさんは出会うはずです。高齢となった今も、放射線の後障害に苦しみながら、自らの経験を語り伝えようとする彼らの声を聞くでしょう。被爆の経験は共有できなくても、核兵器廃絶を目指す意識は共有できると信じて活動する若い世代の熱意にも心うごかされることでしょう。

 今、長崎では「平和市長会議」を開催しています。来年2月には国内外のNGOが集まり、「核兵器廃絶-地球市民集会ナガサキ」も開催します。来年の核不拡散条約再検討会議に向けて、市民とNGOと都市が結束を強めていこうとしています。

 長崎市民は、オバマ大統領に、被爆地・長崎の訪問を求める署名活動に取り組んでいます。歴史をつくる主役は、私たちひとりひとりです。指導者や政府だけに任せておいてはいけません。

 世界のみなさん、今こそ、それぞれの場所で、それぞれの暮らしの中で、プラハ演説への支持を表明する取り組みを始め、「核兵器のない世界」への道を共に歩んでいこうではありませんか。

 原子爆弾が投下されて64年の歳月が流れました。被爆者は高齢化しています。被爆者救済の立場から、実態に即した援護を急ぐように、あらためて日本政府に要望します。

 原子爆弾で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りし、核兵器廃絶のための努力を誓い、ここに宣言します。



 2009年(平成21年)8月9日





長崎原爆の日:平和への誓い(全文)


 1945年8月9日11時2分、原爆が投下され一瞬の出来事に逃げることもできず、炭のように体を焼かれ、一口の水も飲むこともできずに亡くなった多くの人々よ、どんなにか無念だったでしょうね。

 64年前と同じ8月9日が、蝉(せみ)の声と共にまためぐってきました。当時8歳だった私は、爆心地から500メートル離れた城山町に新しい家を建ててもらい、家族9人で賑(にぎ)やかに、楽しく、そして幸せに暮らしていました。その朝までは家族一緒だったのに「考えられない11時2分」がやってくるのです。その朝まで元気だった家族、一緒に遊んでいた友達が、私の目の前から消えてしまいました。

 その後、毎日泣いていました。46年間、原爆の話ができませんでした。原爆のことは、見たくない、聞きたくない、私の頭の中から消えてほしい……、私は、原爆から逃げていたのです。けれども、私の家族が生きていたことを書き残したくて、ある本の中に、旧姓徳永アヤ子の名前で私の体験を書きました。これがきっかけとなり、私は今、修学旅行の皆さんに被爆体験を伝えています。

 全身火傷を負った4歳の弟と私だけが生き残り、知らない田舎に引き取られました。母がいたら「おんぶしてよ、抱っこしてよ」と弟は甘えたかったでしょうに、甘えることもできず、治療のときは我慢できずに泣いていました。私も腕に火傷をしていましたが自分の治療のことは覚えていません。たぶん弟と一緒に泣いていたんでしょう。

 弟は自分の体の痛みを我慢するだけ我慢し、地獄のような苦しみだけを背負って昭和20年10月23日に亡くなりました。わずか4年の短い弟の人生でした。

 私は戸外で遊んでいましたので、全身に放射線を浴びていました。髪の毛は抜け、歯茎からは出血し、体全身具合が悪いのに、病院に通うことができませんでした。両親や兄弟がいない生活は地獄そのものでした。このような苦しみ、悲しみは他の人たちに味わわせたくありません。何十年たっても消えることのない苦しみと悲しみを生み出す核兵器は地球上にはいらないのです。

 アメリカは核兵器を使用したことのある唯一の核保有国として行動する道義的責任があり、核兵器のない世界の実現を目指すことを、アメリカ大統領として初めて明確にしたオバマ大統領のプラハでの演説は、64年目にしてやっと被爆者の声が世界に届いた形となり、心強く感じています。

 私は世界中の人々と一緒に、この地球上から核兵器をなくして安心して暮らせるように、一人でも多くの人に平和と命の尊さを伝え続けていくことを誓います。

 平成21年8月9日

                   被爆者代表 奥村アヤ子



毎日新聞 2009年8月9日 23時33分


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