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大阪から見えるイラク/9~12

2009年08月14日 | スクラップ

大阪から見えるイラク/9 恋も2度目なら…ハミッドの場合 /大阪

ラムの骨付き焼き肉一皿およそ1200円。割り勘などせず、豪勢に振る舞うのがイラク流
ラムの骨付き焼き肉一皿およそ1200円。割り勘などせず、豪勢に振る舞うのがイラク流

 


■スイスに妻子を残しながら

 アルビル市内のレストランで、ハミッド(56)は言葉を継いだ。「思い切って、愛している、と伝えたら、彼女も同じだと……」。声が少し震え、目も潤んでいるではないか。

 相手は役所勤めの30代の女性。数年前に夫と別れ、小学生の息子がいるという。「正直で、優しくて……」。「で、どうするんですか?」。私の問いに、ハミッドは黙り込んだ。

 彼はスイスに妻と3人の子どもがいる。この地でまじめに「彼女」と付き合うのなら、2番目の妻として迎える“結婚”を考えなければならないのだ。

 聖典コーランの教えでは、イスラム教徒は4人まで妻をめとることができる。近代化したイラクでは珍しくなったとはいえ、あのフセイン元大統領には妻が4人いたし、奥さんを2、3人持つ軍人や部族長を、私は知っている。財力のあるハミッドなら可能なのかもしれない。

 このレストランはまるで結婚式場のようだ。各テーブルには、イラクでは高価な魚の丸焼きや、ワインなどの酒が並ぶ。会員制で、お客は治安が悪化したバグダッドなどから避難してきた企業家や、地元クルド人の有力者など。フセイン政権時代、バース党の恩恵を受けてきたアラブ人たちと、それに敵対し、山岳地帯で反政府ゲリラ戦を繰り広げた元クルド民兵たちだ。

 ここでは敵も味方も忘れ、ともに酒をくみ交わす。バンドの演奏にあわせて、手をつなぎ同じステップを踏むイラクのダンスに興じていた。

 酔っぱらった中年男に声をかけられた。「あんたの国ではアイ・ラブ・ユーって何て言うんだ?」。「スキヤネン」と答えると、隣に座る色気のある目の美人を抱き寄せ、「スキヤネン……」とささやいた。

 洗面所に行くと、なぜかその美人がついて来た。さきほどの私の視線が気に障ったのか、「私は(彼の)ちゃんとした恋人なのよ」と、ぴしゃりと言った。名前はファトマ。トルコ人で31歳のバツイチ。3歳の息子をイスタンブールの親元に残し、衣料品を売りに1人でアルビルを往復していると話す。

 「彼には奥さんがいるから、2番目の妻になるの」。タバコをふかして話すその美人を前に、私は見たことのないハミッドの「彼女」の姿を重ね合わせていた。<写真・文、玉本英子>




■アジアプレス現場報告「イラクと北朝鮮はいま」

 29日(土)13時半、大阪市中央区のドーンセンター5階特別会議室。玉本英子さんが現地の映像を見せながら、取材報告をする。北朝鮮内部記者撮影による北朝鮮国内ミニ写真展も同時開催。先着90人。参加協力費1000円。アジアプレス(06・6373・2444)。

 

 ■人物略歴
 ◇たまもと・えいこ
 1966年、東京都生まれ。豊能町在住。アジアプレス所属のビデオジャーナリスト。デザイン事務所を退職後、94年からアフガニスタン、コソボなど紛争地域を中心に取材。01年以来、イラク取材は8回を数える。



毎日新聞 2008年11月27日 地方版






大阪から見えるイラク/10 イラクのオヤジ~最後の恋 /大阪

「私の美しき女」を歌うハミッド(右)。隣はバンドの歌手=アルビルで08年4月
「私の美しき女」を歌うハミッド(右)。隣はバンドの歌手=アルビルで08年4月



■気持ち通じたが実らず

 治安回復で復興にわく北部アルビル。しかし、封建的なこの地でのビジネスは、イラク人にとっても厳しい世界のようで、「何も信用できない」との声をよく耳にした。地元女性との秘めた恋を告白したハミッド(56)は、私がよそ者の外国人だから、つい気を許したのだろう。告白から1カ月後、再びお誘いの連絡が入った。

 レストランの席には、「第2夫人になる」と洗面所で宣言していた美人のファトマがいた。彼女は酔っ払った彼氏に目をやりながら、こっそり言った。「あの人は私と結婚する気などない。でも、私の商売に彼は必要だから、別れないわ」。スローな音楽が流れると、その彼氏に身をまかせながら、しっとりとチークダンスを踊っていた。

 一方、ハミッドは物思いに沈んだような目をしていた。携帯電話をかけると、私に差し出した。電話の向こうの女性の声は、スイスに住む奥さんだった。「いつか会いましょうね」。柔らかい声から温かい人柄が伝わってきた。ハミッドは子どもたちの近況などを聞いて、最後に「愛しているよ」と、携帯電話にそっとキスをした。

 あの彼女とは別れたと、小さな声で話し始めた。「自分の血はイラクでも、スイス人になってしまった。だから妻は1人だけだと話してきた……」。相手の女性は「そう言うと思っていたわ」と優しくうなずいたという。互いの気持ちは通じたが、結局付き合うこともなく、2人の恋は終わった。

 80年代にフセイン政権からの弾圧を逃れ、難民となりスイスへたどり着いたハミッド。銃より教育が大事だと、苦学して大学を出たのちビジネスマンになった。故郷に戻ることもできず、イラクから妻を呼び寄せ、家族のため、ただがむしゃらに働いてきた。彼の心の内は分からないが、地元女性への恋心は、望郷の思いそのものだったのではないか。そんな気がした。

アルビルの新しいショッピングモールには、パンク・ファッションの店も=08年4月
アルビルの新しいショッピングモールには、パンク・ファッションの店も=08年4月




 ワインボトルを1本飲み干した彼は、「歌わせてくれ」と立ち上がった。私は思わず演奏中のバンドに駆け寄り、1曲だけと頭を下げた。

 「ともし火が消えるように、あなたはどこかへ去っていった~。心燃えるほど待ちわびる美しき女(ひと)~」

 愛する女性との別れを歌った民謡「私の美しき女(ひと)」だった。音程は大きくはずれお客たちはあきれ顔だ。だが、切ない歌声は、私の心に染みた。<写真・文、玉本英子>

 

毎日新聞 2008年12月11日 地方版






大阪から見えるイラク/11 人権弾圧に苦しむクルドの民 /大阪



■焼身男性が私を変えた

 新大阪のデザイン事務所に勤めていた私が、ジャーナリストを志すようになったのは、ある中年男性との出会いがきっかけだった。

 94年3月、家でテレビニュースを見ていた。「ドイツの地方都市で、トルコからのクルド移民たちがクルド人抑圧に抗議して2人が焼身」。デモ隊の男性1人が自分の体にガソリンをかぶって火を付け、ドイツ機動隊の列に突っ込む映像が流れた。これはただ事ではない。

 91年の湾岸戦争でイラクのクルド人難民が大量に発生したという報道は聞いたことがあった。しかし、トルコのクルド人の存在は知らなかった。調べると「クルド人はトルコ、イラク、イラン、シリアなどにまたがる地域に暮らし、独自の文化と言語を持つ固有の民族」とある。クルド人とはどんな人たちなのか? ヨーロッパに行って彼らに会おうと考えた。

 半年後、ヨーロッパへ飛んだ。約100万人のクルド移民が暮らす。アムステルダムのクルド人カフェに入り浸り、客たちから話を聞くことにした。

 ある日の夕方、長いコートを身にまとった中年男性が店に入って来た。やけどでケロイドになった顔や手は赤くただれている。テレビで見たあの人だった。名前はムスリム(44)。握手を求めると、手のひらは冷たく、握る力もない。

 一番知りたかったこと、「なぜ焼身までしたのですか?」と尋ねてみた。彼は私を見据えて言った。「あんたは私たちの故郷に行ったことはあるのか? 家族がどんな目にあっているのか知っているのか? それを知れば誰でも同じことをするはずだ」。のどは焼け、声はか細く、わずかに聞こえるほどだった。しかし、彼の言葉は私の心を大きく動かした。

 私はムスリムの故郷、トルコ南東部へ向かった。トルコの人口の5人に1人はクルド人。だが当時、公の場でクルド語の使用が禁じられるなどトルコ化政策が続き、クルド人の権利を求める人たちに対して治安当局は逮捕や拷問を行った。クルド独立ゲリラ闘争も拡大し、今まで出遭(であ)ったことのない不条理な死をいくつも見た。何の経験もない素人だったが、とにかく記録して伝えていかねばと思うようになった。会社も辞めた。

 ムスリムの消息はその後途絶え、亡くなったと思っていた。12年後の夏、まさかイラクで再会するとは……。<写真・文、玉本英子>

 

毎日新聞 2008年12月18日 地方版






大阪から見えるイラク/12 焼身男性と12年ぶりに再会 /大阪

マハムール難民キャンプはトルコからのクルド難民約2000世帯が暮らす
マハムール難民キャンプはトルコからのクルド難民約2000世帯が暮らす

 

■転々として難民キャンプへ

 イラク北部の幹線道路を走ると、テントや粗末な家が並ぶ集落がいくつも見える。治安悪化の都市部から逃れてきた人たちや、フセイン政権時代、強制移住政策などで土地を追われた人らが暮らす国内避難民キャンプだ。

 この地域には、もうひとつの「忘れられた難民」がいる。トルコからの難民だ。06年7月、私はモスル近郊にあるマハムール難民キャンプを訪ねた。ここには90年代前半にトルコ軍の弾圧を逃れ、国境を越えたトルコ国籍のクルド人約1万人が暮らす。15年が経過し、ビニールのテント群は、土と石を積み上げて造った家々に変わり、難民キャンプは、まるで村と化していた。

 住民代表の家を目指して歩いた。気温は50度。小道が蜃気楼(しんきろう)のようにユラユラと揺れ、あまりの「熱さ」に意識が遠のきそうになる。

 白い軽トラックが目の前を通り過ぎようとした。私は「乗せてください」と言ってドアを開け、目を疑った。運転席にいたのは、ドイツで焼身決起をした男性ムスリム(56)ではないか。94年の秋にアムステルダムのカフェで会ってから消息不明になっていた彼が、生きていたとは。まさかイラクにいたとは……。

 彼は私を覚えていた。「なぜ焼身したのかと、いきなり聞いてくるヘンな奴(やつ)だと思ったよ」と笑う。やけどの痕(あと)が痛々しいが、12年前とは違い、声には張りがある。

やけどの痕が残るムスリム
やけどの痕が残るムスリム




 パタパタと軽トラを走らせながら、彼は自身のストーリーを話し始めた。94年3月23日、ムスリムはクルド移民が多く暮らすドイツの都市マンハイムでデモの最中に焼身決起した。ドイツ製の戦車がトルコへ輸出され、クルド人弾圧に使われていることへの抗議だった。

 「デモで不法な行為をした罪」で地元警察に捕まえられるが、全身はやけど状態のため、病院に担ぎ込まれた。意識が戻ったころ、警察が病院へ事情聴取に来た。逮捕を恐れた彼は、窓をつたって病院を逃げ出したという。その後、仲間の助けを借りて隣国オランダへ。そのころに私は彼と出会ったのだった。

 だがオランダも安住の地ではなかった。ヨーロッパ各地を転々とした後、シリアで数年間を過ごし、最後にたどりついたのがイラクの難民キャンプだった。<写真・文、玉本英子>

 

毎日新聞 2009年1月8日 地方版


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