先日、京都府木津川市の恭仁宮(くにのみや)跡に行ってきました。
恭仁宮は奈良時代、聖武天皇によって5年間置かれたみやこです。
奈良時代というと平城京が思い浮かびますが、
実際には平城京から何度かみやこの場所を変えており、
恭仁宮もそのひとつです。
都が置かれたのは5年間と短命でしたが、
東大寺の大仏造営が決定されるなど重大なできごとがありました。
歴史が大きく動いた場所なのですね。
恭仁宮跡では、「大極殿跡」と「山城国分寺跡」を見学しました。
大極殿(だいごくでん)とは最も重要なみやこの心臓部。
天皇が政治や儀式を行うところです。
現在の国会議事堂のような役割を、ちかくから発掘された
朝堂院(ちょうどういん)や朝集殿院(ちょうしゅうでんいん)と
あわせてもっていました。
このような、天皇の住まいと政治を行うための中心施設の範囲を
「宮域」と言います。
対して、みやこの全体を「京域」と言います。
宮域はみやこのほんの一部ですが、大きな機能をもっていました。
京域には多くの人が住み、生活を繰り広げていました。
長岡京をみてみましょう。
京都市、向日市、長岡京市、大山崎町の
三市一町にまたがる広い長岡京。
なかでも向日市は政治の中心、長岡京市は経済の中心
と説明されます。
それは、長岡京の大極殿・朝堂院が向日市にあり、
みやこの大部分が長岡京市にあることによります。
つまり向日市が「宮域」で長岡京市が「京域」ということですね。
京域である長岡京市からは、貴族たちが暮らした邸宅の跡やトイレ、
大路の交差点、市で使われていたであろう大量の土器や、
迷子のお知らせ札なんてものも発掘されたそうです。
都の人々の暮らしぶりを知ることができるのが、京域の魅力です。
そんな京域である長岡京市の魅力を感じてもらおうと、
市内の小学校には「長岡京の住所表示」があるんです。
(長岡第九小学校)
「右京七坊一坊一町」とありますね。
長岡京のなかではこんな場所になりますよ、と示しています。
この表示は長岡京市ふるさとガイドの会によって行われました。
何気なく歩いている道を、長岡京の都人が歩いていたかもしれない
…と想像するとわくわくしますね。
恭仁宮は奈良時代、聖武天皇によって5年間置かれたみやこです。
奈良時代というと平城京が思い浮かびますが、
実際には平城京から何度かみやこの場所を変えており、
恭仁宮もそのひとつです。
都が置かれたのは5年間と短命でしたが、
東大寺の大仏造営が決定されるなど重大なできごとがありました。
歴史が大きく動いた場所なのですね。
恭仁宮跡では、「大極殿跡」と「山城国分寺跡」を見学しました。
大極殿(だいごくでん)とは最も重要なみやこの心臓部。
天皇が政治や儀式を行うところです。
現在の国会議事堂のような役割を、ちかくから発掘された
朝堂院(ちょうどういん)や朝集殿院(ちょうしゅうでんいん)と
あわせてもっていました。
このような、天皇の住まいと政治を行うための中心施設の範囲を
「宮域」と言います。
対して、みやこの全体を「京域」と言います。
宮域はみやこのほんの一部ですが、大きな機能をもっていました。
京域には多くの人が住み、生活を繰り広げていました。
長岡京をみてみましょう。
京都市、向日市、長岡京市、大山崎町の
三市一町にまたがる広い長岡京。
なかでも向日市は政治の中心、長岡京市は経済の中心
と説明されます。
それは、長岡京の大極殿・朝堂院が向日市にあり、
みやこの大部分が長岡京市にあることによります。
つまり向日市が「宮域」で長岡京市が「京域」ということですね。
京域である長岡京市からは、貴族たちが暮らした邸宅の跡やトイレ、
大路の交差点、市で使われていたであろう大量の土器や、
迷子のお知らせ札なんてものも発掘されたそうです。
都の人々の暮らしぶりを知ることができるのが、京域の魅力です。
そんな京域である長岡京市の魅力を感じてもらおうと、
市内の小学校には「長岡京の住所表示」があるんです。
(長岡第九小学校)
「右京七坊一坊一町」とありますね。
長岡京のなかではこんな場所になりますよ、と示しています。
この表示は長岡京市ふるさとガイドの会によって行われました。
何気なく歩いている道を、長岡京の都人が歩いていたかもしれない
…と想像するとわくわくしますね。