昨年から、「徳島科学史研究会」に入っています。書道の研究を進めていくときに、文系の研究会のほかに、理系の研究会の知識が意外に役立つことを実感したからです。とはいっても、自分は書道史や地方史の中の医師や洋学に関連したところが最も関心の高い部分です。昨日はこの会の30周年で、「日本科学史学会四国支部」の年総会も兼ねて、徳島大学工学部の創成学習センターで、四国全土から20名ほどの会員が集まりました。
私も年総会では初めての発表を行ないました。題名は「樋口杏斎と喜田貞吉と狩野君山」です。小松島市櫛渕八幡神社の庭にある「樋口先生碑」を巡る3名のことについて述べました。喜田貞吉は櫛渕出身で、東大卒、文部省で教科書編集をし、京大・東北大で教鞭をとる有名な歴史学者であり、彼の小学校の時の恩師が樋口杏斎、後に京大で同僚となるのが狩野君山です。樋口杏斎は医師でありながら、小学校校長・書家としても活躍したマルチな人物でした。若年に父才庵から漢方医学・書道を、湯浅翠樾・岡本斯文から漢学を学びました。希望する小学生には放課後自宅で補習教育を行ない、休日には自らの研修のために未明に徳島まで行き、阿部有清から数学を、また寺島道庵から最新の医学を学び、また各種講習会にも積極的に参加して夜遅くに帰りました。その研修の成果をまた小学生に教えました。医師としても、夜中の急患にも積極的に対応し、しかも報酬はいつも患者任せということだったそうです。常に自らのことよりは他人の幸せを優先した愛情豊かな人物でした。
東京に出た喜田貞吉をバックアップしたのが、徳島出身で東京で活躍していた国学者、小杉榲村と、最後の徳島藩主で明治政府の要職に就いていた蜂須賀茂韶でした。
このような優秀な指導者たちによって、喜田貞吉には近世末期の徳島の優れた文芸のエッセンスが濃縮され、そこにさらに東京帝国大学の近代的カリキュラムによって磨きがかけられ大きく成長しました。彼によって日本の歴史・地理学が初めて大系化され、今日の発展の基礎が作られます。
狩野君山は喜田貞吉の東大学生時代の先輩であり、さらに京大での同僚であり、日本の考証学を代表する人物でした。仲の良い喜田に頼まれて、「樋口先生碑」の題額を書いています。
調査の中で、碑の揮毫者が喜田貞吉であることも分かりました。櫛渕小学校の生徒たちも読めるように漢字カタカナ交じりで、欧陽詢風に書かれています。この碑は喜田を育てた樋口杏斎の優れた教育方法を示すと共に、地域住民と喜田の、樋口への敬愛、狩野への尊敬と友情、後世の地域住民への期待と警鐘が形に現われた重要な文化財と言えるでしょう。このようにたった一つの石碑を調べてみることで、先人の重要なメッセージがわかるものです。「困った時は足元を見直してみる。」・・今の日本には「温故知新」が必要です。
会の終了後は徳島駅前の居酒屋で懇親会もあり、物理学や工学の専門の先生方ともいろいろ話をして、得るところがありました。なかなか素敵な会です。
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