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徳島 日韓交流史跡を巡る

2022年08月08日 | 日記
8月6日(土)・7日(日)、旧友である東京の武井一氏が初来徳。彼は韓国史の専門家でもあり、徳島県内のいくつかの日韓交流史跡を案内しました。1592年から1598年まで2回にわたってあった壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役、朝鮮出兵)によって連れてこられた、李氏朝鮮の人々に関係する墓が徳島県内で三つあります。
まず一つは徳島市入田の観正寺の「館女の墓」です。森田雅己住職と事前に連絡をとって、境内の墓をご案内いただきました。


武市常三の一族である武市孫助の正式な妻となって、94歳まで生きた女性の墓です。彼女の他にもこの村にはもう2名の宮廷女性がいたという記録もあり、彼女たちは陶芸や手芸の技術を教え、地域の女性指導者として活躍したとのことです。船型の墓石は船で渡来したことを示しているのでしょうか。寛文6年(1666年)に建立され、梵字の入った五輪塔のレリーフもあってお洒落な墓石です。戒名は「清月妙泉大姉」「武市孫助室高麗官女也」


次は、吉野川市川島城の東側の墓地にある「朝鮮女」の墓です。この人は、当時の川島城主の林道感の妾として一生を終えました。この墓の位置に関しては、吉野川町誌の編集にも関わった阿部和剛氏から情報提供を受けました。


年月や氏名はなくただ「朝鮮女」とだけ彫られています。当時としては立派な墓石であり、林道感は資金をかけて丁重に葬っていますので、深い愛情が感じられます。これは、氏名が分からなかったのではなく、本人が氏名を彫りこむことを望まなかったのでないかと想像します。異国にあって人間としての生の欲求と、朱子学の国の「恥」の意識との間を行き来する葛藤を感じます。


最後に紹介したいのが、徳島市光仙寺の「木邨蘭皐」の墓です。この方は、幕末の貫名菘翁の最初の、儒学と書の師匠です。その先祖は丁酉倭乱で日本に連れてこられた「嶺順」と記載されています。
木村蘭皐 (きむららんこう)安永2~嘉永2 (1773~1849) 77歳
 徳島冨田弓町の人。父広茂は藩の中小姓でその6男。名は世粲、字は尚栄、通称は恕平、別号は国香・逸人。儒医を業としながら、画と和歌をよくした風流人で、特に蘭を愛好し、博学寡欲であった。家は貫名菘翁の生家吉井家の近所にあり、菘翁は幼時から蘭皐に儒医を学んで慕い、後に京都で開塾することを勧めたが、蘭皐はそれに応じなかった。



題字が立派です。墓石の文章には書いてありませんが、貫名菘翁が書いているのではないかと推測しています。

近代以前は朝鮮に対する差別意識はなく、むしろ日本より漢字文化を早く取り入れて使いこなした「先輩の国」という感覚だったと思います。朝鮮が平和な時代に、日本の戦国時代は約100年間も日本人は戦乱に明け暮れて戦い上手になっていますから、明国が参戦しなければ、この戦争には日本が勝利していたでしょう。部下への恩賞不足に苦慮していた豊臣秀吉が、朝鮮の土地や人民を部下への恩賞として提供しようとしていたことが想像できます。秀吉はこの戦争後に明国自体も入手しようとしていたのですが、これはやはり無理がありました。秀吉の病死によって戦争も終わりました。

丁酉倭乱では、日本への技術輸入を狙って技術者や学者を中心に連れてきたようです。西日本の陶磁器技術の半分以上はこの時に来た陶工によって始められました。唐津焼・高取焼・薩摩焼・萩焼などが有名です。江戸時代の官学となる「朱子学」も、この時に連れてこられた朝鮮朱子学者である姜沆(カンハン)に藤原惺窩が学びました。女性や労働者もたくさん来たようで、その総数ははっきりはしていませんが、全国では数千名規模だったのではないかと思われます。戦後に朝鮮王朝と徳川家康との交渉によって、1607~1624年までの3回の「回答兼刷還使」で約1700名が帰国しました。しかし日本で結婚して家族ができたり、職を得て生活が安定した人たちは、敢えて帰国することなく日本に帰化したということです。徳島藩士としても朝鮮人が2名、正式採用されています。
その後、江戸時代の徳川将軍が替わるごとに、9回の「朝鮮通信使」が日本を訪問します。500名規模の大船団で来航し、各地で宿泊しながら大阪から江戸までは街道を練り歩いて進んだ通信使は、鎖国時代の日本人に大きな刺激を与えました。

これらの他、阿波市岩津の「神代文字碑」や、美馬市脇町の「うだつの町並」、阿波市の「土柱」、鳴門市大麻の「ドイツ館」「ドイツ橋」、徳島市 文化の森の「鳥居龍蔵記念館」「徳島県立博物館」、鳴門市の「鳴門公園」などもご案内して、観光も堪能して帰られました。

友人が来徳したために、初めて訪問した場所もいくつかあったり、知り合えた方もいて、とても有意義でした。

徳島県内では「徳島には旅行者に見せるものが何にもない」と自虐的なことをおっしゃる方も多いですが、そんなことはありません。子供や若者向けの遊戯施設は少なくても、文化的に貴重な史跡はかなり多いと思います。阿波踊りや人形浄瑠璃、遍路寺院をはじめ、近代以前の文化や史跡が多くあり、自然も極めて豊かです。簡単に言えば、「知的な大人の観光地」なので、今後は、普通のレジャーに飽きた「意識高い系の旅行者」を増やす工夫をしていくべきだと考えています。西欧の大人の旅行者なら必ず気に入る場所が多いと思います。日本も韓国・中国も超高齢化社会に突入していきますから、徳島観光はこれからがチャンスです。自信を持つべきだと思います。

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