レイバーノーツを導いたマイク・パーカー 追悼
レイバーネット日本国際部 山崎 精一
*マイク・パーカー (1940-2022) (2014年ジョハンナ・パーカー撮影)
レイバーノーツ誌1月号はその創設者の一人、マイク・パーカーの死去を報じている。掲載された2本の追悼記事を翻訳したので読んでもらいたい。 【ブラッドベリ―】【アーリー】
1940年生まれのパーカーは1950年代に社会主義運動の活動家として出発した。1960年代にはバーニー・サンダースとともに青年社会主義者連盟で活動し、今年1月15日の死去の日まで社会主義のためにその人生を捧げた。
70年代半ばでデトロイトに移り、クライスラーの自動車工場で電気技術者として働き、終生全米自動車労組UAWの組合員活動家であった。1979年に後退局面に入りつつあった労働運動に職場からの運動を再生するためにレイバーノーツ誌を立ち上げる中心的なメンバーの一人となった。80年代にはいると日本的経営に学んでトヨタ方式やQCサークルなど経営手法がアメリカの自動車産業などに導入され、労働組合の中でも労使協調路線が強まった。それに対してパーカーは4冊の著作により、分析批判と反転攻勢を展開した。
自動車労働者が日本車を叩き壊す映像がセンセーショナルに広められる中で、パーカーはアメリカ自動車労働者の敵は日本ではなく、アメリカの自動車資本であることをその著作を通じて訴えた。
そのような中でパーカーは1989年にアジア労働者連帯集会に参加するために初めて来日し、日本の自動車産業とその労働運動からも直接に学ぼうとした。1991年には再来日して明治大学国際交流センターで『アメリカの左翼 過去・現在・未来』と題した講演を行った。1995年には国際労働研究センターの設立記念講演会で『「日本的経営」とアメリカの労働運動』と題する講演を行っている。同センターの代表だった戸塚秀夫氏や渡辺勉氏との相互啓発と友情を通じて、日米労働者の国際連帯の流れを作り、2年おきに開催されるレイバーノーツ大会に日本から労働者研究者が毎回のように参加する契機となった。
パーカーは労働運動の実践家、政治・社会運動の活動家だっただけではなく、優れた教育者でもあった。自動車工場の現場を離れている期間はコミュニティーカレッジや自動車労使で共同して運営する教育プログラムで電子制御などの電子技術・ITを教えた。またレイバーノーツは労働者教育事業も行っており、パーカーは優れた参加型教育者でもあった。電信電話産業でどのように全米電信労組CWAと提携して教育活動を行ったか、今月号のレイバーノーツ誌にその当時のCWAオルグだったスティーブ・アーリーが生き生きと伝えているので、読んで頂きたい。【アーリー】
マイク・パーカーとの個人的な思い出を紹介したい。
私が最初にマイクと出会ったのは1989年の最初の来日の時であった。彼がアジア労働者連帯集会の一つの分散会でアメリカの自動車産業の話をする際の通訳を務めた。ボランティアの通訳を始めたばかりの私はderegulationという英語単語とその意味を知らず、規制緩和という訳語も知らなかったが、マイクは親切丁寧に説明してくれた。彼の謙虚な人間性と教育者としての天性を感じることができた。
具体的な年は思い出せないが、確か90年代にマイクがクライスラー社に再就職して現場に復帰した、というニュースを聞いてびっくりした。50歳台の有名な労働運動活動家、労使協調を鋭く批判した4冊の著名な本の作者、新左翼政党の指導者の一人としても知られた人物がクライスラー社に採用されるなんて信じられなかつた。日本でいえば『自動車絶望工場』を書いた鎌田慧さんが60歳近くになってトヨタの現場に本工として採用されることがありえるだろうか? アメリカでは年齢差別が禁止されているし、組合員は退職しても組合員であり続けるので、採用差別は許されずクライスラーは採用拒否できなかったのである。マイクは2007年66歳まで現場で自動車労働者として働き続けた。
私が3回目にレイバーノーツ大会に参加した2016年、大会開始1時間前に大会会場に入ると、マイクとお連れ合いのマーガレットが受付の横で大会資料の袋詰めを黙々と二人きりでやっていた。一流ホテルを貸し切って開催される大会にはスタッフも一杯いるはずなのに、後期高齢者の大先輩にこんなことをやらせるとは何ということだろう、とその時は思った。しかし、それが一生草の根の立場を貫くマイクの姿勢であり、背中で進む道を指し示す指導者、メンターの本当の姿なのだろう。若い人にもそのことが伝わっていたことが、今回のブラッドベリ―編集長の追悼記事を読んで実感できた。【ブラッドベリ―】
最後に没後に知った事実。レイバーノーツが創立40年を過ぎ、その活動が若い世代に引き継がれ、しかも拡大していることにマイクは満足して亡くなったのではないか、と私はその死去を日本の仲間に知らせる際に述べた。ところがアメリカから届いたいくつかの追悼記事を読んで、最近若者が大挙して入党している民主社会党DSAにも最晩年に入党していて、カリフォルニア州で指導的役割を果たしていたことを知った。
アメリカの左翼雑誌『ジャコバン』はゲイ・シーメルによるマイク・パーカーの追悼記事を掲載したが、そのタイトルは「左翼としての人生を生き切ったマイク・パーカー」である。
マイク、あなたは私にとっても導き手、メンターであり続けるでしょう。
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